さくら色の影となって身体が空間に溶ける。
身体といっしょにあらゆる叫びもあらゆる沈黙さえも、溶けて色彩の輝きに還ってゆく。
この人の絵は、僕には、
そんなふうに見えた。
フランシス・ベーコン。
アイルランドの人だ。
納得できなかった頃の作品は全部始末して自分のデビューを決めたという。
だから、こと細かくプロセスを回顧するのはむつかしいのだと、そして、亡くなるまで多くを語らなかったのだと、きく。
絵にはガラスと金の額。一枚のガラスが、絵と人のあいだに距離を生む。そのことを大切にしたともきく。
そうだとすれば、その姿勢に僕はとても共感する。
絵には聖域がある。身体のように。人生のように。生活のように。
ベーコン、ベーコン、ベーコン。
こんなに沢山のベーコンを観る機会は、もう10年は無いかもしれない。
貴重な展覧会だ。
おいそれと言葉にしたくないような感覚がある。
言葉にすることで失われてしまうのが怖いような感覚。しかしそれでも何か言葉を置いておきたくなるのは記憶のためか、あるいは記憶をただ流れるにまかせたくないがゆえか。沢山のベーコンを見た夜、沢山の言葉をノートに書いた。的外れの流れ弾のように、空回りする言葉たち。いや、ちがう。そう思い重ねるほどに、クリアに記憶されてゆく図像・フォルム・色彩。いや、アウラか。
絵が絵でなければならない存在感。
先のソロ公演で、何人かの観客の方からベーコンとの関係に及ぶ連想/言葉をいただいた。あのダンスは、ジャン・コクトーから直感を得た作業だったから予想外だが、とても興味深いことだった。いま見れるんだからチャンスだよ、と親しい人。あわてて見に行ったのだった。
絵の力。に直接触れて脳みそが焼けそうになった。少し動悸しているのが恥ずかしくて平然と眺めているフリをした。この人の絵を人目のある場所で観るのは酷だ。観る者の心を裸にしてしまうから。
劇場や映画館みたいに真っ暗にしてほしい。そう思った。
からだが描かれている。
生気を放つほどに死の気配をも纏う、それが身体だ。生きることは少しづつ死を理解してゆくことにも思える。喜びや哀しみや怒りや許しに満たされた百年間の孤独を経て、僕らが等しく受け入れることになる死の世界。聖域。神秘。すぐ隣にあるのに知ることができない、遠さ。
ダンスのことなんか忘れたが展覧会の最後に土方さんとフォーサイスのダンスが出品されていたのは、粋な取り計らいだと思った。
もしかするとベーコンの世界が醸し出す生と死の火花の、その余韻をより響かせる何かとして、ダンスを置いたのかしら。
僕自身は、ベーコンに重なったのは同じダンスでもパブロワのダンス、いや、パブロワのダンスを捉えたモノクロフィルムの消えそうな白鳥を妄想した。悲劇的なまでのタンデュが、ベーコンの描く身体に重なるのだった。
ベーコンの絵から音は聞こえてこなかった。
激しく明滅する網膜に対して、鼓膜は刻々と、停止に向かうのだった。
ベーコン展:国立近代美術館HP
身体といっしょにあらゆる叫びもあらゆる沈黙さえも、溶けて色彩の輝きに還ってゆく。
この人の絵は、僕には、
そんなふうに見えた。
フランシス・ベーコン。
アイルランドの人だ。
納得できなかった頃の作品は全部始末して自分のデビューを決めたという。
だから、こと細かくプロセスを回顧するのはむつかしいのだと、そして、亡くなるまで多くを語らなかったのだと、きく。
絵にはガラスと金の額。一枚のガラスが、絵と人のあいだに距離を生む。そのことを大切にしたともきく。
そうだとすれば、その姿勢に僕はとても共感する。
絵には聖域がある。身体のように。人生のように。生活のように。
ベーコン、ベーコン、ベーコン。
こんなに沢山のベーコンを観る機会は、もう10年は無いかもしれない。
貴重な展覧会だ。
おいそれと言葉にしたくないような感覚がある。
言葉にすることで失われてしまうのが怖いような感覚。しかしそれでも何か言葉を置いておきたくなるのは記憶のためか、あるいは記憶をただ流れるにまかせたくないがゆえか。沢山のベーコンを見た夜、沢山の言葉をノートに書いた。的外れの流れ弾のように、空回りする言葉たち。いや、ちがう。そう思い重ねるほどに、クリアに記憶されてゆく図像・フォルム・色彩。いや、アウラか。
絵が絵でなければならない存在感。
先のソロ公演で、何人かの観客の方からベーコンとの関係に及ぶ連想/言葉をいただいた。あのダンスは、ジャン・コクトーから直感を得た作業だったから予想外だが、とても興味深いことだった。いま見れるんだからチャンスだよ、と親しい人。あわてて見に行ったのだった。
絵の力。に直接触れて脳みそが焼けそうになった。少し動悸しているのが恥ずかしくて平然と眺めているフリをした。この人の絵を人目のある場所で観るのは酷だ。観る者の心を裸にしてしまうから。
劇場や映画館みたいに真っ暗にしてほしい。そう思った。
からだが描かれている。
生気を放つほどに死の気配をも纏う、それが身体だ。生きることは少しづつ死を理解してゆくことにも思える。喜びや哀しみや怒りや許しに満たされた百年間の孤独を経て、僕らが等しく受け入れることになる死の世界。聖域。神秘。すぐ隣にあるのに知ることができない、遠さ。
ダンスのことなんか忘れたが展覧会の最後に土方さんとフォーサイスのダンスが出品されていたのは、粋な取り計らいだと思った。
もしかするとベーコンの世界が醸し出す生と死の火花の、その余韻をより響かせる何かとして、ダンスを置いたのかしら。
僕自身は、ベーコンに重なったのは同じダンスでもパブロワのダンス、いや、パブロワのダンスを捉えたモノクロフィルムの消えそうな白鳥を妄想した。悲劇的なまでのタンデュが、ベーコンの描く身体に重なるのだった。
ベーコンの絵から音は聞こえてこなかった。
激しく明滅する網膜に対して、鼓膜は刻々と、停止に向かうのだった。
ベーコン展:国立近代美術館HP