思わず出てくる動き、というのが最近とても大切に思えて仕方がない。むいしきのうごき、というものとは少しちがう。思わず出てくる動き、というのは、言葉にスルよりも先に身体が動いてしまうということだ。ある一瞬に沸き起こるものが、言葉にナルよりも素早く、動きになって溢れ出るということでもある。心の速度と肉体の速度にはちがいがあるのかもしれない。
思う、ということと、動く、ということのあいだには、何があるのか興味深い。
たとえば、体の動きによってわかってくるキモチがある。心に思ったことを動きにするのと少しちがって、変な言い方かもしれないが、体の動きが心を教えてくれることが、あるのだ。思考や意思をくつがえす力が、肉体から発せられてあるのだろうか。
経験に囚われている人も、みずからの思考にこだわる人も、みずからの意思に支配されている人も、どこか頑としてコチコチに見える。そのことを肉体は嫌っているのではないかと思う。
思考も意思も、それぞれ、自分というものを確かにする反面、束縛もしやすい。それゆえ時として肉体はこれらに反乱を起こすのだと思う。肉体は感情につながっている。
肉体感情、存在しない言葉だが、僕は勝手にそんな言葉をつくっている。肉体感情がひきおこすその動きによって、さらに湧きあがってくる心がある。それらはいづれも踊りになってゆくばかりでなく、音楽にもなる。踊りになって、音楽になって、からみあって、また新しい感情の火種になって、きりがない運動の連鎖を生む。痙攣的な時間が流れてしまうことも、ある。それはそれで音楽的な出来事かもしれない。
衝動的な動きの連続が幾重にもかさなって、いつしか織物のようになってゆく。その時点が、僕の場合はダンスの創作とか作品とか呼んでいることの初期状態なのだと思う。
みなさまにご紹介する場合、作品というのは題名が付いているし、解説文とかステートメントも書くのだが、それらの「ことば」は、上記したような衝動と運動の連鎖から、いつしか一定時間のダンスが生まれ、それを何度も何度も踊っているうちに、だんだんと体から読み取るようにして出てきたものだ。だから、それが、舞台にのるころには、さらに発展や変容をしていたり、逸脱してもはや別の言葉を生み出しそうになっていることも、ある。言い方を変えれば、題名や主題めいたものは、創作中の一地点を示す経過報告みたいなものかもしれない。
僕の場合はダンスにとって、ことばというものが着地点にならないのだと思う。僕の場合は、ことばもプロセスの一通過点にすぎない、とも言えるし、ことばもまた素材とか要素のひとつ、とも言えるのだと思う。ことばのない状態から言葉を掘り起こし、つまり書いたり話したりし、その言葉からまた心が揺れズレうごき、いったん結びついた繋がりが切れ、新しくまた、ことばのない方向にむかって肉体も時間も空間もバラバラになって乖離してゆくのだ。結びついて、バラバラになって、どこへ行くのか解らない状態になって、カオス状態が新生するといいのだけれど、と思ったりも、最近はする。
あらたな作品の稽古をしているが、いまの時期、つまり、ひとつの公演のあとの空っぽの状態というのは、とても不安だが同時に面白くもある。いろんなことをさぐる。そしていろんなことに引っかかる。
これから、どんなダンスを生みだせるか、どんな作品をみなさまにお届けできるか。
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