ある声を思い出しています。昭和精吾さん。
FBでのお知らせから、8月29日に亡くなったとのことを知りました。
天井桟敷のアジテーターと呼ばれた昭和さんでしたが、僕は氏の声そのものが好きでした。音楽のようでした。氏の読み上げるテキストの内容以上に、その読み上げる声の温度に魅了されていました。
ジャンジャンで昭和さんの独白を聴きながら、たしかに天井桟敷の演劇がもっていた熱や
勢いを反芻しながら、でも、それ以上に、語るという行為の力を感じていた記憶があります。
マイクスタンド一つの前に座った一つの肉体からほとばしるエネルギーは切々と心をかき乱しました。
私を語る声が、私たちを語る声となり、日本及び日本人を語る声に、それがやがて、世界及び世界市民を語る声に、と、発熱してゆくプロセスに圧倒され、発言すること、ということについて考えさせられました。
しかし、心に残ったのは、声そのものでした。カラダの震えとしての声。昭和さんの舞台から僕は声なるものを体験したのだと思います。
声の力というものに気付かされた、僕には貴重な体験を与えてくれた人が、昭和精吾さんでした。
12月に公演が予定されていましたが、立ち会うことは叶わなくなりました。命あるときのみ叶う。舞台とはそういうものだと知りつつ、淋しさを隠しきれません。
FBでのお知らせから、8月29日に亡くなったとのことを知りました。
天井桟敷のアジテーターと呼ばれた昭和さんでしたが、僕は氏の声そのものが好きでした。音楽のようでした。氏の読み上げるテキストの内容以上に、その読み上げる声の温度に魅了されていました。
ジャンジャンで昭和さんの独白を聴きながら、たしかに天井桟敷の演劇がもっていた熱や
勢いを反芻しながら、でも、それ以上に、語るという行為の力を感じていた記憶があります。
マイクスタンド一つの前に座った一つの肉体からほとばしるエネルギーは切々と心をかき乱しました。
私を語る声が、私たちを語る声となり、日本及び日本人を語る声に、それがやがて、世界及び世界市民を語る声に、と、発熱してゆくプロセスに圧倒され、発言すること、ということについて考えさせられました。
しかし、心に残ったのは、声そのものでした。カラダの震えとしての声。昭和さんの舞台から僕は声なるものを体験したのだと思います。
声の力というものに気付かされた、僕には貴重な体験を与えてくれた人が、昭和精吾さんでした。
12月に公演が予定されていましたが、立ち会うことは叶わなくなりました。命あるときのみ叶う。舞台とはそういうものだと知りつつ、淋しさを隠しきれません。