よく物忘れをする。いまに何もかも忘れてしまうだろうと思っている。だからかもしれないが、たまに記憶をたどる。その必要をたびたび感じる。
ブレードランナーのなかで人造人間が記憶を欲しいから写真を好むというシーンがあって、これは別に人造人間じゃなくたって僕だって同じだなあと感じたのをおぼえている。その人の未来はその人が記憶といかに関わるかによって左右されるとも思う。
過去作を踊ってみることがある。あるときは一部分を、あるときは全編を。このサイトに「private rehearsal」と表記して掲載している写真には、そういう1シーンが多々ある。
踊りは上演が終わっても踊ることができる。思い出し検証すると同時に、踊るたびに感じるものが新たに出る。幻滅もある。ゆえに新作への欲にもかかわる。じっさい、過去作を踊ることから新作の構想が芽生えてゆくことは多い。繰り返すこと。これが僕には必要なのかもしれない。
動画を見て反省するのも便利だが、上演後に何度か踊りながら反省する方が面白く思う。客席の人は眼で見ているだけでなく全感覚で感じている。ダンスは踊り手じしんには見えないが、舞台では踊りながら同時に踊りを感じ経験している。そういうこともあって、ふとアレはどんな心地だったかなと思い出したくなるとき、僕の場合は、録画を見るよりは身動きしたほうが鮮明になる。
踊りは連続してゆくものと実感する。舞台は一回一回が独立した時間で二度と無い。だが作品が残り、思考をうながしてくる。その連続から生み出す。紡ぐ作業に似ている。踊りの中で、この肉体に残された時間が呼吸をつづける。踊る肉体は、年々変化して一定することはあり得ない。人生にのこされた時間が減ってゆくなかで、踊る。
積み重なり降り積もってきた無数の何かと、全く予想できない空洞の未来のはざまで、踊る。切れてしまいそうな糸をたぐるような思いもある。