4/08より、年度替わりの調整を経て、クラスを再開した。
この時期、さまざまな事務に追われるがなんとか一泊でも故郷の奈良に行って桜を見る、というのが楽しみだった。
けれど、今年は大阪に暮らす母の介護と先日亡くなったばかりの義父の諸仕舞いをしつつ新年度の準備作業をやることで手一杯となり、電車に乗れば奈良なんか小一時間で行けるのに、諦めた。心残り。(写真は去年の桜なのだが、思い出がてら、のせた)
3月30日はルドルフ・シュタイナーの命日だったが、上記のことで読書も稽古も叶わず。その代わりというのも変だが、週末の新幹線に高橋先生訳の概論を持ち込み久々にゆっくり目を通し得たのは極楽だった。筑摩が文庫化したのはやはり画期的と思う。
宗右衛門町に用があったついでに夜の道頓堀川を眺めながら、ダンサーとして創作家として生活者として長く関わり続けてきたこの人物を思った。良し悪し含め、やはり親しんできたことは確かなのだ。
彼の拠点だったドルナハ(スイス)に滞在中に命日にあたったことがあったが、そのとき彼のアトリエは花でいっぱいだった、ため息がでるほど沢山の花が空間を満たし、美の力が時間を引き留めていた、あの景色がいまだ鮮明。たしか、青い花だった。青い花で満たされた空間が、底の無い宇宙みたいで、ルドルフ・シュタイナーという人の存在感を示していた。記憶が遠いが、そんな感覚が残っている。
僕は少年期より言葉なるものを疑い音楽を信じていたが、いくつかの文学と暗黒舞踏を通じて、言葉それ自体への興味が再び湧き起こり、生活が変わり始めた。そして、言葉に血を通す、いや、言葉に通っている血を探り、それを踊る、踊りたい、もとより言葉は身体から出ているのではないか、そのようなことを思っていた時に出会ったのがシュタイナーだった。
この人物の考えには、共感できるところも沢山ある反面、なにか反抗心のようなものもあり、会ったこともない人なのに妙に生々しい感触をおぼえながら、いままできた。少なくとも、彼の考えの道筋の革命性に身震いすることが年々増えているのは確か。
踊りの毎日の地稽古の中に、彼が生み出した「オイリュトミー」なるものを取り入れ、日常的に練習するようになり40年ほどたったが、このことは僕の「ダンス」「踊り」にとって、重要な力になっているのではないかと、最近あらためて思っている。
今年度、どのようなことが起きてゆくのか、また一歩を。
コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー
からだづくりから創作まで、初心者から取り組めるレッスンです。
拠点は東京・荻窪。
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