冬がまた一つ通り過ぎてゆく。落葉を踏みしめて歩く。落葉は私の体重を受け入れて、足音を柔らかくする。
季節の移り変わりのなかで、落ち葉は芽吹く葉に、何かを語りかけているようだ。語りかけながら、何かを譲り渡してゆくようだ。譲り渡しながら、地に落ちる葉は、さまざまな体重を受け止めて、やがて土に還ってゆく。目にみえない耳にもきこえない何かがとてもゆっくりと回転しているのかしら。
若林奮の作品に、たくさんの銅の落葉の彫刻があって、その何葉かが昨年葉山で展示されていた。テレビでも紹介されたそうだからご存知の方も多いと思うが、心に残ってしばしば思い出すようになった。
一枚一枚ていねいにつくられた無数の銅の葉っぱ。それらは寸法は小さいが、とても大きなものに思えた。
自宅の庭の、ゆりの木の落ち葉をひとつひとつ来る日も来る日も彫刻したもの。そこにやがて、くるみ、とちの木、桐、と様々な落葉が加わっていったのだという。毎日毎日、つくり続けたという。
何かに気づく、何かに手を触れる、見つめる、その奥の声に聴き入る、溶け合おうとする、、、。関わる、と言うのだろうか。ひたむきで、ひたすらな、若林さんという人の手や眼や背中や、いろんな姿が、感じられてくる。人の姿と一緒に、落ち葉ひとつひとつに宿る大切な何かも。
つくる、ということと、日々、ということについて、静かに深い声が語りかけてくるようだ。
作品に出会うことは、ある営みの一端に触れることなのかもしれないとも、思う。
季節の移り変わりのなかで、落ち葉は芽吹く葉に、何かを語りかけているようだ。語りかけながら、何かを譲り渡してゆくようだ。譲り渡しながら、地に落ちる葉は、さまざまな体重を受け止めて、やがて土に還ってゆく。目にみえない耳にもきこえない何かがとてもゆっくりと回転しているのかしら。
若林奮の作品に、たくさんの銅の落葉の彫刻があって、その何葉かが昨年葉山で展示されていた。テレビでも紹介されたそうだからご存知の方も多いと思うが、心に残ってしばしば思い出すようになった。
一枚一枚ていねいにつくられた無数の銅の葉っぱ。それらは寸法は小さいが、とても大きなものに思えた。
自宅の庭の、ゆりの木の落ち葉をひとつひとつ来る日も来る日も彫刻したもの。そこにやがて、くるみ、とちの木、桐、と様々な落葉が加わっていったのだという。毎日毎日、つくり続けたという。
何かに気づく、何かに手を触れる、見つめる、その奥の声に聴き入る、溶け合おうとする、、、。関わる、と言うのだろうか。ひたむきで、ひたすらな、若林さんという人の手や眼や背中や、いろんな姿が、感じられてくる。人の姿と一緒に、落ち葉ひとつひとつに宿る大切な何かも。
つくる、ということと、日々、ということについて、静かに深い声が語りかけてくるようだ。
作品に出会うことは、ある営みの一端に触れることなのかもしれないとも、思う。