櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

サシャ・ヴァルツの「身体」

2006-05-27 | ダンスノート(からだ、くらし)
 同世代にあたるドイツの振付家、サシャ・ヴァルツによるダンス作品「Koerper(身体)」をヴィデオ鑑賞する機会を得ました。ダンス関係者の間では、初演当時から話題になっていた作品です。

 舞台は、打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた広い空間。その中央にそびえ立つ巨大な壁。
 その一部を成す大ガラスの向こう側で、身を寄せ合った裸身の群像が、互いの、そして個々の肉体に感じ入ったままで眠りとも死とも区別のつかぬ、淡い動きを持続している光景から始まり、半裸の男女が登場し、それぞれの肉体を酷使し始めます。
 極端な運動・数値的計測・痛みを伴うであろう衝突や抱擁・強制されたかのようなユニゾンなどの反覆を通して、彼らは徹底的にそれぞれの肉体に関係しようとしていきます。
 身体が叩き付けられ、その痕跡が刻印される巨大な壁は、その表層においてポリティカルなシンボルであると同時に、彼らを見つめる神の眼とも全否定的なオブジェとも解釈できます。
 しかし、轟音とともにこの壁が倒れたあと、ふたたび開始される身体の酷使のうちに、ダンサーたち自身の自我が彼らの肉体と行為を残酷なまでに見つめていることに作品は言及します。

 異物としての壁が取り払われた時に暴露されるのは、自由精神の前に立ちはだかる、より強固な無形の壁。すなわち実存そのもの。

 この作品は、身体を美しく見せるためのテクニックや同時代性を装う安易なコンセプトワークが削除されて極めて強力な「動き」に満たされています。
 過酷な壁に向かい合い、それを乗り越えていく姿が即物的に表現されていくなかで、ただただ、自身の身体を通して「存在することの重量」に対峙しようとするダンサーたちの姿勢がシャープに提示され、積み重ねられていくのですが、それがごく自然な流れで歴史や政治、愛や存在といった、私たちが共有する問題に触れていくのです。

 私たちの生きる時代は、私たち自身に存在する事のジレンマを与えて止みません。
 同時に私たち自身がこの時代を創っている当事者であることにも、私たちは、気がつき始めています。
 そして「私」たちとは、そもそも何ものなのか、ということをとらえ直そうとする衝動、そうせざるを得ない出来事が、この時代には満ちあふれています。
 そのことを示唆するように、身体への興味が広がっており、ダンスそのものが、上手に踊る(器用に体を操り、心情/思想を語るツール)という視点からではなく、必然性を持って動くという視座に移行しています。
 僕のクラスを訪れる練習生の方々も、テクニック以上に身体と向かい合うリアリティーや充実感をもとめて稽古されているように感じてなりません。(皆さん毎週の練習のなかで動きが「上手に」なっている以上に「深く」なっているのです。)

 2000年にベルリンのシャウビューネで初演されたこの作品で、僕は時代や身体に対してさまざまな確認を行うことができた上に、ダンス作品に対して久々に深い共感を味わい、気を引き締められた思いです。
 また、遠くドイツの地で、このように具体的な成果をあげて活動する方々がいられるということ自体に、背を押されるような気持ちになりました。
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