知性は火が消えて分解した太陽だ。
というコトバがあって気になってきました。
これはニジンスキーが書いた言葉です。
地球外空間に星体としての太陽があるように、人間の脳内にも一種の太陽存在が内在する、ということなのでしょうか。あるいは、脳それ自体が太陽の変容だ、ということなのでしょうか。
右脳と左脳には太陽と月の力がそれぞれ反映しているように僕は感じてきましたが、知性が太陽の分解形式なのだというのは実に面白いイメージと感じます。しかも、火が消えて分解した、というのはもっと面白いと感じます。僕は知性というのは炎上している現象かと思っていたのに、ニジンスキーは冷却的に知性というものを捕まえている。
こういうことを書く人の踊りを観た人はラッキーだと昔の人をうらやましく思いました。踊りを観ると、眼から力が入ってくるからです。踊りは同じ時を生きている人だけが観ることができるものですから、人と人のエネルギーの交感です。だから踊りを観るといまが少しくらい暗くたって生きる力が湧いてくるのだと思います。
しかし、ニジンスキーはとっくに居ないのだから僕らには見えません。見えないけれど、読めるものが遺された、それが、この手記なのだから大切です。このような遺された言葉から、僕らだって、何かを想像できるし、それは同時代人が観たものとは違うのだろうけれど、観ることが出来ないからこそ想像が創造に連なる感覚を宿すことはできるかもしれないと思います。
ニジンスキーにとって「書く」ことは神の命令だったそうで、手がしびれるまで書き続けたというのですが、これは踊るのと同じだなあ素晴らしいことだなあ、と僕は思います。書くというのは体全体を鋭くすることなのだから、踊ることと似ているのかもしれないです。
「牧神の午後」のノーテーションを一枚だけ見たことがあるのですが、五線譜の上に独自の譜表を発明して書かれたそれは具象としては解読は困難なのだけれど、何か、ああ、あああ、と思った。とてもデリケートな造形で、神経質な図表で「書く」ことに対する特別さを感じるものでした。線を引く、ということ、それは、立つことに相似するのではないかと。山田耕筰がベルリンでこの上演を観たときは観客にこたえて3回もたてつづけに踊ったそうですが、その記譜線を見ると何回踊ってもおそらくは満足がいかないような神経の感覚が予感するようでもあります。
踊るときの肉体は避雷針のように立っていて、瞬間瞬間にさまざまな現象が落ちてくるのを受け止めて時間とか空間に刻み込むのですが、ニジンスキーのような人の場合はそれと同じような状態が舞台や稽古から降りても持続していてテーブルの上で筆を持った肉体にもあったのかしらと想像します。
ふだんお世話になっている書店から何か夏の推薦本をと訊かれて、彼の手記とさせていただいたこともあり、あらためて読みなおしましたが、「ニジンスキーの手記」と題されたそれは二種類の出版。市川雅さんが英語版から訳された現代思潮社発行のものと、鈴木晶さんがロシア語版から訳された新書館発行のものがあります。前者は妻ロモラが削除や編集を加えたもので後者は無削除のものです。この二つの版をあわせて読むのも面白いです。
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NEWS
櫻井郁也ダンスソロ新作公演:『白鳥』9/29.Sat.〜30. Sun. 2018
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これはニジンスキーが書いた言葉です。
地球外空間に星体としての太陽があるように、人間の脳内にも一種の太陽存在が内在する、ということなのでしょうか。あるいは、脳それ自体が太陽の変容だ、ということなのでしょうか。
右脳と左脳には太陽と月の力がそれぞれ反映しているように僕は感じてきましたが、知性が太陽の分解形式なのだというのは実に面白いイメージと感じます。しかも、火が消えて分解した、というのはもっと面白いと感じます。僕は知性というのは炎上している現象かと思っていたのに、ニジンスキーは冷却的に知性というものを捕まえている。
こういうことを書く人の踊りを観た人はラッキーだと昔の人をうらやましく思いました。踊りを観ると、眼から力が入ってくるからです。踊りは同じ時を生きている人だけが観ることができるものですから、人と人のエネルギーの交感です。だから踊りを観るといまが少しくらい暗くたって生きる力が湧いてくるのだと思います。
しかし、ニジンスキーはとっくに居ないのだから僕らには見えません。見えないけれど、読めるものが遺された、それが、この手記なのだから大切です。このような遺された言葉から、僕らだって、何かを想像できるし、それは同時代人が観たものとは違うのだろうけれど、観ることが出来ないからこそ想像が創造に連なる感覚を宿すことはできるかもしれないと思います。
ニジンスキーにとって「書く」ことは神の命令だったそうで、手がしびれるまで書き続けたというのですが、これは踊るのと同じだなあ素晴らしいことだなあ、と僕は思います。書くというのは体全体を鋭くすることなのだから、踊ることと似ているのかもしれないです。
「牧神の午後」のノーテーションを一枚だけ見たことがあるのですが、五線譜の上に独自の譜表を発明して書かれたそれは具象としては解読は困難なのだけれど、何か、ああ、あああ、と思った。とてもデリケートな造形で、神経質な図表で「書く」ことに対する特別さを感じるものでした。線を引く、ということ、それは、立つことに相似するのではないかと。山田耕筰がベルリンでこの上演を観たときは観客にこたえて3回もたてつづけに踊ったそうですが、その記譜線を見ると何回踊ってもおそらくは満足がいかないような神経の感覚が予感するようでもあります。
踊るときの肉体は避雷針のように立っていて、瞬間瞬間にさまざまな現象が落ちてくるのを受け止めて時間とか空間に刻み込むのですが、ニジンスキーのような人の場合はそれと同じような状態が舞台や稽古から降りても持続していてテーブルの上で筆を持った肉体にもあったのかしらと想像します。
ふだんお世話になっている書店から何か夏の推薦本をと訊かれて、彼の手記とさせていただいたこともあり、あらためて読みなおしましたが、「ニジンスキーの手記」と題されたそれは二種類の出版。市川雅さんが英語版から訳された現代思潮社発行のものと、鈴木晶さんがロシア語版から訳された新書館発行のものがあります。前者は妻ロモラが削除や編集を加えたもので後者は無削除のものです。この二つの版をあわせて読むのも面白いです。
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