ダンスを踊ったり教えたりという毎日のなかで、「からだ」という言葉をよく使う。
からだ、カラダ、体、躰、體、身体、、、。
それぞれ含みが変わるから、けっこう悩みながら使い分ける。この言葉の使いようによって、話の底が透けて見える気もする。人が見える言葉ともいえるかしら。おもしろい言葉だと思う。
からだ、という言葉を言うとき、この音の並びに不思議を感じることがある。
「か」という音は力づよく何かを発するように感じる。対して「ら」というのは何かひっくりかえるような、あるいは、何かが意表をついて現れるような音のように感じてならない。そして「だ」というのは、何かが砕けて別のものが生まれて来るような、あるいは空にあったものが着地するような感触があるように思う。
「からだ」という言葉には、ちから、とか、あらわれ、とか、うまれ、という現象に連なるいろんなものが渦をなしているような、そんなふうに僕は「からだ」という言葉のことを幻想することがあるのだ。
他者の体を受け止めて、他者に体を受け止められて、体は変化してゆく。
親を看取り、子どもが生まれ、育てながらその体重に耐え難くなり、また新たな子どもが生まれ、、、。たとえばそのような、体の受け止めの連続が生活を次第に変化させ、感情を深くしてゆく。
自分の体を感じることと、触れ合う人の体や死にゆく人の体や生まれ来る人の体の重さを感じる、ということが、どこか重なってならない。
からだというのは、実は単独のものではなくて、さまざまなものと連なっているものなのではないかと思う。
踊りが体を元気にし、生活の底に力を与えるのは、それが音や空間や時間や魂というものと身体を結びつけ、日常のあれこれや社会の立場によって断ち切られて単独になってしまいがちな現代の体に「連なり」を呼び戻そうとするからかもしれないと思う。
_____________________________________
舞台活動についてのご案内を掲載中です。
・コンテンポラリー/舞踏(メインクラス)
・基礎オープン(からだづくり)
・創作(初歩からの振付創作)
・オイリュトミー(感覚の拡大)
・フリークラス(踊り入門)