独舞の稽古で、ある一曲を繰り返し踊っている。バッハだ。
とほうもなく広い空洞に散らばってゆく感覚。
無数の十字架のなかに投げ出されるような、底知れぬ感覚。
30年ほど前になるけど、この曲でオイリュトミーの稽古をかなりしたこと音から建築を感じたことをありありと覚えている。
コロナ禍の自粛が始まった頃から、こんどは「踊り」でこの曲に関わってみたいと、つよく思い始め、稽古用の振付を考えてきた。
舞台活動の延期を判断したあと、満開の桜に雪が降った。
あの異様な春景色のなかで、なぜかしら、いくつかの音楽を(発表作のためではなく)稽古のために振付してゆくことを始めた。
どれくらい出来るかわからないが、この騒ぎが落ち着くまでのあいだに取組んで聴き直しておきたい音楽がいくつかある。
たとえばマーラーの、ブリテンの、ショスタコヴィッチの、そしてバッハの、、、。
音を聴く、というあまりにも最初のことに、いまたちかえる機会とこの時期をとらえた。
ウイルスは結果的に解体と再構築の機会をもたらしているのだろうか。
そのなかのバッハの曲は短くて数分の曲だが繰り返して3時間くらいやっていると、底知れぬ音の渦巻きに呑てゆくような気になって、苦しくなる。後頭部や爪先がしびれる。笑いすぎると苦しくなって恐怖を感じる、あれに似た体験かもしれない。このような音楽をつくっても発狂しなかったバッハは、とても強い精神をもっていたにちがいないと思う。
発表を前提にしないで、気の向くまま踊り倒すのは、いま僕には、かなり大切な時間になっている。private rehearsalという表記でインスタグラムなどに時折写真を載せているのは、このような稽古の記録動画からの一瞬。とてもプライベートな、ダンスのためのダンスと言うのか、コロナ以後、このような稽古が日常的になった。
かなり長期間、独り稽古するというのは、舞台などで公開される前提だったが、今年のコロナ禍のなかで、久々に目標や着地点を想定しないで、ただただ踊る、ということをする。それが日常的なことに、いつしか、なっている。
いままで、色々な経過があったが、もしかすると一番素朴なダンス経験を、この異様な何ヶ月かのあいだに重ねているのかもしれない。
この曲を初めて聴いた時から40年以上たっているが、いまだに衝撃的だ。音が音を追い、生まれては消えてゆく響きの先に、とてつもない空洞が広がって、真っ黒な引力を生み出してゆく。そのように、僕は思える。
バッハのこの曲は、典礼の響きというより、果てしない深い場所に誘い込まれてゆく哲学の響きというほうがいいかもしれない。
どこまで深く広がってゆくのだろうか、響きは、世界は、時間は、、、。
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