蕎麦職人になる。

57才おやじの蕎麦屋開業までの軌跡。

憧れの唐津。

2019-05-16 12:56:36 | 日記

以前、骨董品が好きだというお話をさせていただきましたが元々は焼き物に端を発します。
今は閉店してしまいましたが、鎌倉の小町通に小さな焼き物屋さんがありました。

およそ25年程前たまたま通りかかって覗いたお店でしたが私の人生をガラッと変えてしまう程の出会いでした。

女主人が優しく微笑んで迎えてくれました。
3坪程の狭いお店でしたが今では考えられないような陶芸界のビックネームの作品ばかりでした。

主人は銀座の黒田陶庵で長年働かれその人柄と教養で素晴らしい人脈を築いていらっしゃいました。

その時見せていただいた唐津焼の絵唐津の器に心を奪われ57才の今でも唐津焼の陶芸家になる夢を捨てていません。

その方は故西岡小十さんという方で荒川豊蔵や小山冨士夫とも親交があった古陶磁研究家でしたが、御自分で古唐津の再興に尽力された方です。

その絵の筆致は目を見張るものがありました。
それまで焼き物に何の興味も無かった私がその日を境に焼き物気狂になってしまいました。

その店主のお陰で小十さんとお会いすることも出来ました。

それ以来熱狂的な唐津焼ファンですが、仕事の都合上唐津に赴くことは叶いませんでした。

ところが今回の旅で遂に夢が叶いました。
西岡小十先生は亡くなられましたが息子の良弘さんが継いでおられます。
訪ねてみました。

あいにく良弘先生はお留守でしたがお孫さんの圭君がお相手してくれました。

作品や窯も見学させていただきました。
あいにく譲っていただける作品はないとのことで残念でしたが、念願の窯にお邪魔出来ただけでも感無量でした。




こうして唐津滞在一日目がスタートしました。

次は唐津焼きで私を狂わせた骨董品のお話です。
昔から酒飲みは唐津の酒器に首ったけです。
三井物産の創業者益田鈍翁や電力王松永耳庵は有名な茶人ですが、唐津のぐい呑や粉引の徳利を集め競いあっていたことは有名です。

それぐらい唐津のぐい呑は人を魅了して止みません!

中でも唐津の岸岳の飯洞甕下窯焼かれたとされている斑唐津のぐい呑はマニア垂涎の的で完品は数百万で取り引きされていました。

私は呼継ぎという寄せ集めの陶片で作ったものを所持していますが、このぐい呑との出会いで虜になりました。

そしてやっと私のぐい呑の生まれ故郷に来ることが出来ました!

伊万里焼、唐津焼は秀吉の朝鮮出兵(慶長文禄の役)の際に朝鮮から連れてこられた陶工によってもたらされたと言われてますが、この窯はそれ以前に当時岸岳を支配していた波多氏が(松浦党と言われた海賊とも言われています)藩の財政のため朝鮮から連れてきたというのが定説になっているようです。

その後有田で陶祖李参平によって陶石が発見され盛んに色絵磁器焼かれるようになると唐津焼はどんどん衰退しおよそ30年前後しか焼かれていないと言われています。

それゆえ数も少なく貴重なため高価になってしまいました。
昭和30年代は盗掘が盛んに行われていたほどです。

ということで岸岳古窯跡の写真です。
この日はあいにくの雨で急な斜面に作られた登窯がまで登るのに苦労しました。
そのぐらい険しい山の中にひっそり作られていました。

当時利休の侘び茶は人気が高くそこに目をつけた波多氏が営利目的のため始めたとも言われていて秀吉に目をつけられては藩の存亡に関わる事態になりかねなかった事が想像出来ます。

そのため唐津焼の実体はほとんど解明されていません。

そんな歴史に思いを馳せながら古窯跡と岸岳城を見学しました。
永年の想いが遂げられた瞬間でした!











その後名残惜しいのですが麓に降り、日も落ちて来たので夕食を取ることにしました。

この日は唐津で有名な老舗の鰻屋さん竹屋さんに行きました。

東京ではよく松竹梅とか上、特上とか言いますが、こちらはランクで鰻が変わるわけではなく4枚、5枚、6枚といった枚数で注文します。

鰻は江戸前に限ると思っていましたがふっくら柔らかくタレも甘過ぎず辛すぎず丁度良い塩梅で美味しかったです。

こうして1日目が終わりましたが、私にとっては特別な1日になりました。

翌日は唐津の駅前を中心に点在している各作家のブースを見て回ります。






















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