※注意!
この話はタイトル通り、死の瞬間に感じたことが書かれています。
”死” について、あまり近づきたくないとか、死というものにあまり縁がないとか、そういった方は無理に読まないでください。
精神的に不安定な方は、一人で読まないでください。
こんなこと書くと嫌がられるかもしれないけど、
でも、身近に ”死”を感じてる人には どうしても伝えたかった。
これは、私が体験したことであって、その体験から 目前の死に逝く人に文字通り最期の最後にしてあげられることを書きました。
--------以下本文--------------
それが起きる前 私の脈拍は32回/分で、時々不整脈に襲われる状況でした。2秒に1回しか脈がないところに不整脈があると4秒に1回になります。そしてそれは、起きるべくしておきました。
心臓の鼓動が停止する前に、心室細動が起きます。
心臓が壊れたバイブレーターのようにぶるぶる震えます。
「もしかして、お迎えが来たのか? まさかな・・・・」
と、同時に不安感、全身が恐怖でガタガタと震えるような感覚。
胸を右手の拳で強く叩く、1拍おいた後 乱れながらも脈が戻る。
いつもと違う、ほとんど止まりかけているかのよう、
あれ? 2回・・・・・・3回・・・・不整脈じゃない!
すでに、3回動いてない・・・ 力が入らなくなってきている
渾身の力を込めて、右手の拳で胸を強く叩こうとするが、腕を上げるところまでしか力は続かなかった。 だが、胸を叩くことには成功した。
しかし、脈は戻らない。
(あぁっ これで終わりか、もう 腕を上げることが出来ない・・・・脳に血液が循環しなくなってもすぐには、脳の機能は停止しない。斬首による死刑囚の実験では、約7秒ほど瞬きを繰り返したという話があるが、それは、筋肉が反応しなくなるまでの時間だったことが今回わかった。だからといって、それを誰かに伝えることも出来ないか・・・・・まぁ やりたいことはやったし、自分なりにそのとき出来ることをしたし、・・・・ただ失敗の方が多かったが・・・・もう疲れたし・・・・・ようやく やすめる・・・・・・)
※括弧内は、そのとき考えていたことです
心臓が止まり、指1本動かせなくなり、呼吸も止まり、そして次に来たのが、
視界の異常。
ボツッ ボツッ ボツッっと見えている世界が消えていく、
見えている世界が失われていく、
気を失う時のブラックアウトではなく、KOされた時のホワイトアウトでもない。
無に飲み込まれていく感じ。
今までに感じたことのないような喪失感。それと同時に 寒気。
自分の身体が冷たくなっていく寒気、四肢の一部を壊疽により失ったことがある方は何となく想像できると思う。
※死の瞬間で一番怖くて心細いのがこの瞬間なのです。
まるで魂が無に飲み込まれていくのと同時に肉体を失っていく感覚。
ここで私が皆に伝えたいことは、この一番怖くて心細いこのとき
まだ、聴力が残っていると言うこと。
周りの音はだいぶ遠くへ行ってしまったのか、音も無に飲み込まれているのかは わからないが、とにかくまだ聞こえる!
だからもし、目の前に死に逝く人がいた時 大きな声で言ってほしい
「私はここにいるよ! ずっと傍にいるから! もうすぐ暖かい光が見えてくるから!」
多分 強く手を握りしめれば、そのぬくもりは伝わるはずだから、
両手でその人の手を包んであげて、
どんどんと、視力が奪われ 気がつくと
自分以外に何も存在しない場所。
光も闇も音も、 何もない 暖かさも冷たさも
後は、臨死体験でよく語られる世界 たいした違いはない。
暖かな光が見えてきて、その光のトンネルを通ると 光に包まれた暖かくて、とても居心地が良さそうな世界。
このことに関しては、生まれ出た時の原初の記憶であるとか言われているが、そうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。
最後にもう一度、心臓の鼓動が止まってもまだ意識はあるから
”手を握って 大きな声で話しかけて”
思想や信念に関係なく、本人は耐え難い孤独感に包まれているのだから、死んでしまいたいほどの不安感を感じているのだから。
この話はタイトル通り、死の瞬間に感じたことが書かれています。
”死” について、あまり近づきたくないとか、死というものにあまり縁がないとか、そういった方は無理に読まないでください。
精神的に不安定な方は、一人で読まないでください。
こんなこと書くと嫌がられるかもしれないけど、
でも、身近に ”死”を感じてる人には どうしても伝えたかった。
これは、私が体験したことであって、その体験から 目前の死に逝く人に文字通り最期の最後にしてあげられることを書きました。
--------以下本文--------------
それが起きる前 私の脈拍は32回/分で、時々不整脈に襲われる状況でした。2秒に1回しか脈がないところに不整脈があると4秒に1回になります。そしてそれは、起きるべくしておきました。
心臓の鼓動が停止する前に、心室細動が起きます。
心臓が壊れたバイブレーターのようにぶるぶる震えます。
「もしかして、お迎えが来たのか? まさかな・・・・」
と、同時に不安感、全身が恐怖でガタガタと震えるような感覚。
胸を右手の拳で強く叩く、1拍おいた後 乱れながらも脈が戻る。
いつもと違う、ほとんど止まりかけているかのよう、
あれ? 2回・・・・・・3回・・・・不整脈じゃない!
すでに、3回動いてない・・・ 力が入らなくなってきている
渾身の力を込めて、右手の拳で胸を強く叩こうとするが、腕を上げるところまでしか力は続かなかった。 だが、胸を叩くことには成功した。
しかし、脈は戻らない。
(あぁっ これで終わりか、もう 腕を上げることが出来ない・・・・脳に血液が循環しなくなってもすぐには、脳の機能は停止しない。斬首による死刑囚の実験では、約7秒ほど瞬きを繰り返したという話があるが、それは、筋肉が反応しなくなるまでの時間だったことが今回わかった。だからといって、それを誰かに伝えることも出来ないか・・・・・まぁ やりたいことはやったし、自分なりにそのとき出来ることをしたし、・・・・ただ失敗の方が多かったが・・・・もう疲れたし・・・・・ようやく やすめる・・・・・・)
※括弧内は、そのとき考えていたことです
心臓が止まり、指1本動かせなくなり、呼吸も止まり、そして次に来たのが、
視界の異常。
ボツッ ボツッ ボツッっと見えている世界が消えていく、
見えている世界が失われていく、
気を失う時のブラックアウトではなく、KOされた時のホワイトアウトでもない。
無に飲み込まれていく感じ。
今までに感じたことのないような喪失感。それと同時に 寒気。
自分の身体が冷たくなっていく寒気、四肢の一部を壊疽により失ったことがある方は何となく想像できると思う。
※死の瞬間で一番怖くて心細いのがこの瞬間なのです。
まるで魂が無に飲み込まれていくのと同時に肉体を失っていく感覚。
ここで私が皆に伝えたいことは、この一番怖くて心細いこのとき
まだ、聴力が残っていると言うこと。
周りの音はだいぶ遠くへ行ってしまったのか、音も無に飲み込まれているのかは わからないが、とにかくまだ聞こえる!
だからもし、目の前に死に逝く人がいた時 大きな声で言ってほしい
「私はここにいるよ! ずっと傍にいるから! もうすぐ暖かい光が見えてくるから!」
多分 強く手を握りしめれば、そのぬくもりは伝わるはずだから、
両手でその人の手を包んであげて、
どんどんと、視力が奪われ 気がつくと
自分以外に何も存在しない場所。
光も闇も音も、 何もない 暖かさも冷たさも
後は、臨死体験でよく語られる世界 たいした違いはない。
暖かな光が見えてきて、その光のトンネルを通ると 光に包まれた暖かくて、とても居心地が良さそうな世界。
このことに関しては、生まれ出た時の原初の記憶であるとか言われているが、そうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。
最後にもう一度、心臓の鼓動が止まってもまだ意識はあるから
”手を握って 大きな声で話しかけて”
思想や信念に関係なく、本人は耐え難い孤独感に包まれているのだから、死んでしまいたいほどの不安感を感じているのだから。
危機に瀕した事もありませんが「人の死」について
昔からよく考えていました。寝る前などに「死んだらどうなるんだろう?」、「このまま夢の無い永遠の暗闇があるのかなぁ?」とか考えると、とても不安な
気持ちになった事があります。
もしも、「死の瞬間」に立ち、これから死を迎える
人が居た時、その死の瞬間に暖かい言葉をかけてあげれば、きっと少しでも心が休まると私も思います。
この先、私が誰かの「死の瞬間」に立ち会ったのなら
その人に「そばに居るよ!」と声をかけてあげたい
です。
本当に感動しました。
この感覚をあなたはどのように知覚したのですか?
この記事のような状況になったのはあなた本人ですか?
死んだら記事は書けないし、人に伝えることもできないと思います。
そこらへんを教えてください。
記事の内容はとても心に残りました。
自分が今後生きて行くのに役に立てたいです。
この感覚は、「思考だけの存在」
なぜ知覚することが出来るのか、なぜ意識だけが存在するのか・・・
その辺になると、宗教的な答えしか出来ないのではないでしょうか。
記事中には、蘇生に至る経緯を書いていませんでした。
いわゆる三途の川と思しきところで、巨大で威圧的な存在が
「おまえは もう死んだ、川を渡れ」
と言う思念が伝わってきました。
私は、
「思い残すことはないが、死にましたと言われて、”はいそうですか”と受け入れられるか!」
そして、
「俺は、まだ出来る!!」
と言うような感情が強く起こりました。
次の瞬間、自分の肉体を 上から見ていました。
そして、
「右手を振り上げて、強く胸を叩け」と念じました。
右手が動き始め、胸を叩くと同時に、意識は自分の肉体に戻っていました。
「偶然」とか、「運命」とか、いろいろな解釈はあると思いますが、自分は、
戻れる肉体があり、強い意志があったからと自惚れています。が、
この時、子供を授かっていたことを 数日後に知ることになります。
『今を大切に生きる』こと、
『生きていることに対する感謝』、そして、
『生かされている事への感謝』
『自分以外の意識を擁する存在に、感謝』
今こうして、自分の意識とは別の存在である暁さんと、交流できていることが
とても、 とても素晴らしい事だと思えます。
有り難う御座いますm(_ _)m
理由は自然流産です。誰も居ず、独りで仕事をしていた上携帯の電波の通じない所でした。
突然に来た出血はいっこうに止まらず、誰も居ず、とにかくトイレにかけこみました。
その時、視界が灰色になり色が見えなくなっていました。身体的には吐き気、嘔吐、めまい、ふらつき、6時間の気絶という経過をたどりました。そのボロボロの体調よりも、一番大事な命を失ったという絶望が大きかったために、恐怖はありませんでした。
自分の命は助かりましたがそれから3カ月ほど、色や味を感じず、それどころか感じなくなったことに気づくこともできていませんでした。そのころ3つの仕事をしていたので周囲の人々が自分に起きた異変に気付かない様、笑顔に努めていました。
その状態から抜け出せたのは独り暮らしから実家に戻る時でした。
船に乗り、そこからまた電車に乗り、景色を見ていて、故郷の美しさに圧倒されて、それまで見えていなかった(見ようとしていなかったのかもしれません)色、光が次々と飛び込んできました。
(私はこんな素晴らしい光や色が見えるんだ)
(こんなプレゼントを沢山与えられているんだ)
(神様は私を許して下さるんだ)
突然の事でしたが、本当にその一瞬ブワッと、これまで失くしていたものが自分の中に集結したように戻ってきました。
それが故郷の四万十川の景色でした。
私はそれから介護士になり、その後看護学校に入りました。
自分がそのような体験をしたことに固執しているのか、緩和ケアやホスピス、死について敏感になっています。実体験から、『死』はその人が意識しない事もする事でも、少しずつその人の能力や記憶、得てきたものを蝕んで消し、無にしていくものだと実感しました。
私の場合ではちょうど写真に黒いインクを落としていくような感じです。自らが蘇生できたあのときも(私が替わりに死ねばよかった)と思っていました。
でも、故郷に帰り光が目に差し込んできたとき、私の胸は、私をここまで導いてくれたチカラや家族、神様(自然)に感謝の思いがあふれました。
幼少期から森や自然に心を寄せていたせいかもしれませんが、この記事を見つけ、ついつい寄ってしまいました。
私はこの記事を見て、改めてあのとき私が死ななかったのは、私がこうして生きていることですべきことがあるからだと思いました。私にとっては家族と自然が宝です。だから、もう二度と失いたくない。共にありたい。死の瞬間まで、共に寄り添いたいと思うようになりました。
このような語らいができるとても貴重な記事をありがとうございました。
有り難う御座います。
とても貴重な体験ですね。
いろんな思いが伝わってきます。
そして、その時の体験を自分だけの中に留めず
『人に与えていく』姿勢
素晴らしいです!
きっと、このコメントを読まれた方も
色んな事を感じる事が出来ると思います。