今、四月十日日付が変わって未明まで暫らく時間を残す深夜である。
昨晩は早目の晩酌の後、眠りについて少し前に目が覚めチョー早い朝風呂に浸かった。
昨晩家族が入った後の残り湯である。
残り湯に浸りながら思ったのは中学校の同窓会の事であった。
発起人の一人でもあり企画遂行係でも引き受けている。何人かの協力者と共に、対処し「やるべきことはやった」と今、思いで居る。
まさに、煽てられて木に登った犬の如し、ではあるが、皆のお役に立てたのであればそれで良い。
そして我が妄想は尽きる事無く飛躍して、何人もの仲間と彼らに纏わるエピソードか゜よみがえった。
昨日、中国人の友人とメールを交わした中で、昔の事を書いたら、中国語の返事は「戻って来ない時間の話し」だと書いてあったと思う。
まさにその通りで「古稀会の仲間」も同じで、若い思い出を背負った今の老人らと、青春の淡い記憶を自纏ったまま老いた自分が会うのであり、それが半世紀以上の時間を経た私達の同窓会姿でもある。
同窓会の形で、皆と会うのも最期だろうから思い切り楽しみたいと思って居るのだが、歳と共にアルコール耐性は衰え酒量も減った。
若い頃から酒が強い部類で、営業職を務める者には大いに役立ったが、今は酒の力を借りた社交が出来なくなっている。
酒を嗜み、仲間と心地良い会談をしたいと思うのだが、飲酒調整弁の調整モードで弱を選んだはずだが、いつの間にか強にリセットされる。
若い者と語り合える老人の話術を会得したい望みがあって挑戦もするが、酒量コントローラーの破損で、紳士的パーティー術のレベルは低い。
これらの背景の一つにジェネレーションギャップがある事は間違いなさそうだ。
最近見るインターネット上の文章を解読するのに時間が要る。
言葉の事を言えば昭和の日本語と、意味を想像出来そうな言葉と、想像すら出来ないも言葉の羅列に感じる。
私が教わった日本語と接した文書には無かった、チョーネット語との落差を感じるアラ古稀です。