世界、その「日常」の光景2
公園で遊ぶ子どもを
兵が撃ち
伝えられなくなったウクライナ市民の正確な死者数。子どもも妊婦さんも少ないとは言えぬだろう。
ニッポンでは、幼い子どもが行方不明になったのを、吾が事のように心配したひとが多いにちがいない。
人ひとりの命はそれほど重いのだ。遠い近いの問題ではない。
地下市民
国歌うたいて立ち上がり
防空壕となった地下鉄。ウクライナのひとたちがそこに逃げ込む。
先日、ニッポンでJアラートがなり、地下へ逃げてとテレビが言い続けた。だが、どこに地下があるのか。地下鉄のことかデパートのことか、体育館や避難所や役所に地下などあるのかなどなど、怪しむ気持ちが湧いた。安全ガイドの定まっていない日常、頼りにならない異常事態時の国の対策。
一方、ウクライナのひとたちは、国歌をうたいはじめる。ユーチューブで何度か聞いたことのある国歌。それが地下構内に響き、一人ひとりの顔に力強さが現れてくる。国歌は心の支えになる、足首をしゃんとさせるのだとおもった。国民は祖国を慕い、国は国民を守る、という信頼の絆をうらやんだ。
煮炊きする
路上を狙う
高射砲
住まいを破壊されたウクライナの老夫婦が、外で食事のしたくをしている。キャンプより火も食器も乏しい有り様だ。今夜の食べ物があっても、明日はどうするのかと、心がいたむ。
「侵略戦争」と呼ばないロシアは、武器を持たない市民の頭上に砲弾を落とし続けている。この攻撃こそ戦争そのものなのに。
この「日常」―異常事態のもとで飯を作るというこの「日常」が、住まいの中で、火も食器も食料もととのえられたものとなって安心して営めるよう、早くはやくなりますように。
●ご訪問ありがとうございます。
日常の中に異常が潜み、異常の中にも日常が在ると思います。けれど、異常の中でずっと健やかな精神を保つこと、健康な身体を維持し続けることはたやすくないと思います。
日本の国内にも「異常」が起こっていて、マスコミは一定期間報道を続けます。が、切り替えは早く、継続しません。忘れやすい日本人と言われることがありますが、もしかしたらマスコミの力も作用しているのではないでしょうか。
心のバランスを取りながら、世界の「日常」と「異常」を見つめていきたいと思います。