世界、その「日常」の光景
柿を売っているときいたとき
町の店屋はぼろもうけをしているのかとあきれた
村ではそこいら中の柿の木から勝手にもいで食べていたから
はじめてプールをみたとき
都会の子どもたちはダムで泳ぐのかとおびえた
村の小川を石で堰(せ)き止めた水溜まり それが学校の泳ぎ場だったから
戦争反対と叫んだロシア青年が投獄されたというニュースをみたとき
わたしは朝飯を食べていた 箸を止めずに
信じられない暴虐とはもう思えなくなっていた
布で顔を覆わなかったイランの娘さんが政府に殺害されたらしいと知ったとき
わたしはお茶を飲んでいた 手を止めずに
信じられぬ現実がこの世にあるのだと妙に諦めたふうになった
柿もプールも
山奥の子どもには驚きだったが
間もなく日常の光景になった
投獄や虐殺 それは
ニッポンの老人にも日常の光景ではないのだが
手を出せぬ そのもどかしさだけは消えぬのだが
●ご訪問ありがとうございます。
自分自身のかつての日常とその後の日常とを比べた時、驚きや戸惑いが生じることがあります。「柿」も「プール」も、東京へ出てきたときの衝撃でした。
しかし、世界で起きている日常と日本にいる者の日常とは比べられない、という無力感を感じることがあります。いや「無力」ではなく「力の乏しさ」と言い換えます。世界の「異常」な出来事を日本にいてとらえ続けていくこと、それはたやすいことではないと思いますが、目を開いてみる・耳を澄まして聴くという姿勢だけは持ち続けたいのです。乏しい力でも。