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私にとっての電電建築(会報No4 巻頭言を再掲)

2023年01月19日 | 電電建築の思い出

会報No4の巻頭言を再掲。……「電電建築」を会員の皆さんが、今、見つめ直されるときの一助になることを期待して、筆者の了解を得てブログに再掲しました

私にとっての電電建築      

電電建築協会会長(当時) 木村 信也 

2018.07

 電電建築協会の会員の皆さまにおかれましてはご健勝にお過ごしのことと存じます。昨秋のDKK総会において会長に就任しました木村です。

 巻頭言の寄稿にあたって、「電電建築」という言葉に思いを馳せ、電電入社から退職までの年月を辿りながら考えてみることにしました。

 私はいわゆる構造屋であります。20年間、構造関連の業務に携わっておりました。入社は昭和45年。前年には大学紛争で学内は混乱し、勉学どころの状況ではありませんでした。急遽就職を決め、薦められるまま入社させていただきました。我が国の建築界における「逓信建築」とそれを引き継いだ「電電建築」のことを殆ど理解していませんでした。研究機関があるというのでそちらに配属をお願いしました。

 入社後の研修で大阪万博の視察に行かせていただきました。電気通信館ではワイヤレステレホン(今でいう携帯電話)が出展されていました。大人気で60万人の人々が体験されたそうです。一般にも利用できる時代が来るのかな?と思ったことを覚えています。今では携帯電話の無い世界が考えられないほどの劇的な変化ですね。

 武蔵野の研究所では、技術協力部建築技術研究室(技建)に勤めることになりました。 当時の構造設計の解析ツールは計算尺、あっても卓上計算機くらいでした。大型コンピューターを使うなどは研究機関若しくは一部大手設計事務所に限られていました。公社ではDIPS-1という大型コンピューターを300bpsのモデムを使ってオンライン利用できる科学技術計算サービス(DEMOS)を提供しようとしていました。技建の主要業務のひとつにDEMOSの建築ライブラリーの開発があり、終夜を問わずプログラミングされていたことを思い出されます。DEMOSのサービスは1971年4月に運用開始されました。なかでも構造解析プログラムは多くの構造技術者に利用され、なくてはならないものとなっていきました。

 翌年、建築関連の二つ目の研究機関である耐震構造技術研究室(技震)が発足し、そこに配属されました。そこには日本で数台しかないという大型の振動台がつくられました。お披露目は電気通信建物の象徴でもある無線鉄塔の縮小モデルの加振実験でした。正弦波加振のほか、実地震の波形を使ったランダム波加振も行えました。また、地震時の通信の信頼性確保のために通信用交換架やDIPS-1などの振動実験なども行いました。

 技震の業務の一つに、国の強震観測事業への協力として全国各地の局舎に取り付けられた観測装置(SMAC)の維持管理、採取された地震波形のディジタル化と解析がありました。一つの機関としては突出した数のSMACを保有していたと記憶しています。ちなみに私の最初の出張は採取されたSMACの波形回収のための旭川出張でした。波形のディジタル化のために器具を考案したことも懐かしい思い出です。

 4年後、発足したばかりの本社構造技術課に転勤になりました。電話局新設ラッシュは過ぎたとはいえ全国での市外局・データ局舎の建設が盛んな時代でありました。加えて共通施設建設も活発で関東逓信病院の看護学校宿泊棟、伊豆逓信病院の管理棟・特養ホームなどの構造設計を担務したことを覚えています。

 建築局では、部門ごとに中央学園などで研修をし、毎年全国の担務者を招集し情報の共有化と技術向上に努めていました。忘れられない行事の一つとして、八王子のセミナーハウスで開催された「設計担務者会議」があります。全国から精鋭が結集し夜を徹して公共建築のあるべき姿などを熱く語り合ったことが懐かしく思い出されます。

 昭和43年に十勝沖地震がありました。この地震では函館大学の校舎が倒壊するなど、鉄筋コンクリート造建物の被害が顕著で、日本の建築界に一大ショックを与えることになりました。電電公社でも事態を重く受け止め、既存建物の安全性の確認に乗り出すことになったようです。日本防災協会の「既存鉄筋コンクリート造建築物の耐震基準」(S52発行)に先駆け、すでに保有する建物の診断を始めていました。簡易な一次診断法と詳細診断法があり、これに基づいた耐震補強なども実施していました。伊豆逓信病院病棟の診断・補強を実施したことを覚えています。

 また昭和53年6月には宮城沖地震が発生、この地震で日本の耐震基準が大きく変わりました。公社ではこれまでにも増して躯体の診断補強を急ぐとともに、2次部材とよばれていた「システム天井の落下防止」、「窓ガラスの飛散防止」、「建物内の備品類の落下・転倒防止」、「煙突の破損・落下防止」や「ブロック塀の補強」などを急いで実施するように指示がありました。折しも「東海地震に係る強化地域」の指定(S54)の時に名古屋勤務していたので、地震対策のため静岡に頻繁に通ったことを思い出します。

 この6月の大阪府北部で発生した震度6の地震で小学校のブロック塀が倒壊、学童が亡くなるという痛ましい悲劇が生じました。きちっと対処さえしておけばと思うと、行政の中途半端さに疑問を感じます。電電ではまず考えられませんよね。電電建築の方針策定の素早さと確実に実施する実行力は素晴らしかったといえるでしょう。

 その他にも、日本建築学会ほか、各種協会・委員会での幅広い社外活動での社会貢献が電電建築の特徴の一つといえるでしょう。公共機関であるが故の公平性への期待、技術指針や標準設計図集などの技術の集積が豊富であること、個々人の優秀さと支える組織の確かさなどが評価されてのことだと思われます。

 想うに、「電電建築の目指したものとは、公共建築のあるべき姿を求め、手掛けるすべての建物に適用しようとしたこと。そのための各種指針。標準類の整備であり、研修や全国会議の開催を通しての普及であった」のではないでしょうか。

 昭和60年の民営化以降、建築組織も大きく変化していくことになります。昭和61年のNTT都市開発(株)の設立をはじめとして全国各地に遊休土地の利用を目的とした不動産会社が次々と設立され(平成11年に全国の不動産会社を統合)、建築の活躍の場が広がりました。平成4年には、NTT建築組織も本体から分社化してNTTファシリティーズ(株)として新たな一歩を踏み出すこととなったのでした。

 組織の変化はあったものの、またこれからも起こることでしょうが、「電電建築」の魂は脈々と引き継がれていくことを期待しています。

 電電建築協会は昭和52年(1977)、全国各地域のOB会を糾合する形で発足されました。建築組織では人事異動などで全国に知人がおられる方々も多く、情報交流の場として発足したものと思われます

 現在の会員数は1600名余と年々減少傾向にあり、会の運営も難しくなってきています。新会員の勧奨もすすめているところですが捗々しくありません。新たにOBとなられる方にとっても、魅力ある協会でなくては永続するのは難しいでしょう。皆さまとともに考えて行きましょう。


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