※注:この話は、#33、#34の続きの話です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
不思議なことが起こり始めたのは、彼が初めて島に足を踏み入れてから4年目のことだった。彼は、島の生活に満足していた。
彼のような人間は、この島では初めてだった。
どこか遠くからやってきて、その島に住み着いた。
少年時代はそこで育ったのだが、彼の同級生たちは皆、仕事を求めて彼と同じように島を出尽くしてしまっていたので、彼を知る者はほとんどいなかった。
そういう意味で、彼は帰還者でありながら、異邦人だった。
何故か、漁師たちも彼の少年時代をほとんど覚えていなかった。
彼にとっても、見覚えのある老漁師や住人はいないように思えた。子供の頃だったから、自分自身がそれ程大人たちに興味を持っていなかったのかもしれない。
いずれにせよ、それはとても不思議なことだった。
彼は、日に日に愛着を持つこの島への自分の気持ちと同じテンポで、この島に馴染んでいった。
島のみんなは、彼を受け入れた。
始めのうちは、奇異の目で彼の行動を遠くから見ていたが、だんだんと彼のやる事を受け入れていった。
彼の衣料品の島への持ち込みと販売、そして家具を自作し、それを売る。配る。贈る。
彼のお店を訪ねるべく、違う島から、そして本土から客が来る。
これまでこの島に足を運ぶ意味など全くなかったような若者たちがやって来る。
観光に近い気持ちで来る者もいる。
この島には、観光資源と呼べるようなものは全くなかった。
あるのは、古びた漁港と、漁港に群がる少しばかりの商用施設、寂れた食堂、日用雑貨売り場。そして、少しの畑だけ。
島の人々は、新たにやってくる若者たちにも次第に慣れていった。
遠方から来る若者たちも、その島にだんだん慣れていった。
初めは、彼のTシャツ屋だけが目的だった。
しかし、何故か若者たちはその島を歩いていると、不思議な安心感に包まれた。
潮の香りが、何故か心地良かった。
彼のお店を覗き、他愛のないおしゃべりをし、漁港の食堂でたっぷり栄養のある日替わり定食を食べて、夕方の船で本土へ帰っていった。
彼の作った家具もよく売れた。
大きなものになると、さすがにそのまま持って帰ることは出来なかった。
彼はその日のうちに島の知人に頼んで、翌日の便で本土に渡ってもらい、そこから郵送してもらった。
後から写真付きでお礼の手紙が来ることもあった。
写真は、その家具を自室に配置した写真だった。
Tシャツ屋の店内に流れる音楽は、彼が毎回選曲した。
平日の暇な時に、自宅や店舗のコンピューターで彼の好きな曲をダウンロードし、店内で流す順番もよくよく考え抜かれていた。
そのレパートリーは幅広く、ジャズやボサノヴァ、レゲエやヒップホップ、スペインの古典民族音楽やビートルズが流れる事もあった。しかし、どの選曲も、その考え抜かれた順番からか、何故かそのTシャツ屋と彼自身の持つ雰囲気によく合っていた。
彼は、満足していた。
彼は自分の本来の生活スタイルを見つけたような気がした。
彼が求めていたのは、こういう人生だったのではないかと思った。
ほとんど何も考えず都会に出て、ただただ毎日の生活のために働いた。
うまくいった事もたくさんあった。
お店のスタッフたちのことを、家族のように親身な気持ちになって思いやったりもした。
しかし、このまま時間が矢のように過ぎ去り、刻々と年をとっていくことが本当に正しいことなのか分からなかった。
華やかな街が、虚飾に包まれているような気がした。
ある日、彼はいつもと同じように朝の浜辺を散歩し、自分のお店を開けた。
いつもと同じ時間。
いつもと同じ生活リズム。
両扉の店のドアを開けて、両壁の窓を開けて、店内に朝の光を導き入れた。
朝日は今日も優しかった。
全てがいつもの朝と全く同じだった。
ある一つのことを除いて。
店内には、小人がいた。
小人の名は、カピーといった。
もちろん彼は、小人というものを初めて見た。名前は後から聞いたのだ。
大きさは全部で頭まで50センチ程だろうか。
彼の膝小僧にも満たなかった。
小人は店内の一番奥、支払い用のレトロなレジが置いてある、彼自作のデスクの隣にポツリと立っていた。
彼の入ってくる正面入り口をまっすぐ見つめ、それはまるで彼が来るのをずっとそこで待っているかのような出立だった。
何故か、彼はそれ程驚かなかった。
実はここ最近、ふと誰かが彼を訪ねてくるような気がしていたからだ。
東京で共に働いた店舗の後輩スタッフが彼の噂を聞きつけてひょっこり尋ねてくるのか、それとも少年時代の島の同級生が実家に帰省の際に知らずにふとお店に立ち寄り、彼と久しぶりの懐かしい再会を果たすのか。
いずれにせよ、日常出会っている顔見知りの島の人や常連客ではなく、普段あまり見ないような珍しい出会いがあるような、なんとなくそのような予感がしていた。
しかし、それがまさか小人だとは、もちろん彼も予期していなかった。
彼は、いつものようにゆっくりと自分の店の中に入って行き、レジデスクから少し離れた、これまた自作の1人掛けソファ(木材で土台を削り出し、布袋に綿を敷き詰めて座り心地を良くした、彼のお気に入りの一つである)に腰を下ろし、自分が肩から下げていた中古の厚手布のポシェットを近くの棚に掛けた。
小人は、それをじっと見ていた。
彼がソファに腰掛け、小人の話を注意深く聴く準備が出来るのを待っているかのように。
それを確かめると、小人はレジデスクの上に目線を這わせた。彼は背がとても小さいので、デスクの上に何が置いてあるかは見えない。小人は背伸びをしてデスクの上を手で探り始めた。
何かを見つけたようだ。
それは、彼の眼鏡だった。
小人のではない。Tシャツ屋の彼の眼鏡である。
その眼鏡も、彼のお気に入りだった。
以前、本土に古着の買い付けに行った時、古道具屋で見つけて安く譲ってもらった、年代物の黒縁眼鏡だった。
譲ってもらった時には壊れていて、片側の耳掛けが外れかけていたが、店に戻ってから彼自身で修理した。レンズも取り替えた。メーカーにはちょうど良いサイズのレンズが無かったので、比較的合いそうなサイズのものを注文して取り寄せ、あとは彼自身が削って加工し、ちょうどフレームに収まるようにした。
その頃には、家具作りの経験が生きて、とても器用に色々なものが加工出来るようになっていた。メガネのような小さなものも、中古ポシェットの複雑な留め具も、そして店舗のトイレの金属製のノブも彼が金属を削り出し、レトロで昔風の味のある形にして取り付けた。
その作業の殆どが、店舗奥の小さな作業場で行われた。
一畳程度の小さな工場である。
その部屋は背の高い道具棚に囲まれ、作業中に立ち上がらずともほぼ全てのものが彼の手の届く範囲に配置されていた。
もちろん、大きな棚やテーブルといったものはその作業場で作る訳にはいかない。
彼は、別に漁師たちから借りた海辺の作業場を持っていた。
大きなものはそこで作るのだ。
と言っても、その大きな作業場も、自転車で10分とかからないところにある。
お気に入りの眼鏡は、店舗側の小さな作業場で修理した。
古道具屋で一目見た時からピンと来るものがあり、とても愛着を感じたが、修理してそれを自分の鼻と耳にかけると、それは驚くほど馴染んだ。
彼は、目が特に悪い訳ではない。
読み書きに眼鏡を必要としない。
彼はその眼鏡を見つけて、生まれて初めて眼鏡をかけるようになったのだ。
なので、レンズに度は入っていない。
彼の気分を作るための、それはファッションメガネなのだ。
その眼鏡を、昨日は店に置いて帰っていた。
いつもの習慣だった。
店舗にいる時は、その眼鏡をかけるのが彼のお気に入りだった。
その眼鏡をかけると、世界が違った形で見えるような気がした。
もちろん、眼鏡をかけていようとかけていまいと、彼が今見るものはこの小さな島の中のものがほとんどだった。
しかし、何故かこの島はこの島だけでしかないのと同時に、世界中に繋がっているような不思議な感覚を覚えた。
これも眼鏡をかけた時の不思議な気分の変化だった。
彼にとって、それは特別な眼鏡だった。
その眼鏡を、小人が今、手に取っている。
まるでそこにあったことが既に分かってでもいたかのように。
彼の低い位置からは、デスクの上は見えないのだ。
彼はその耳掛け部分を手に取り、十分に細部を確認した後に、それを頭にかけた。
サングラスなどが不要な時に、よく額のもっと上の方で止めておく、ごくごく一般的になされているやり方である。
彼はその眼鏡を自分の目にはかけなかった。
小人はとても小さいので、人間の標準サイズであるこの黒縁眼鏡は大き過ぎてずり落ちてきそうなものだが、実際には彼の頭でしっかりと溜まっていた。
小人の頭は、体全体に比べて非常に大きいのだ。
それからため息をついて、徐ろに話し始めた。
彼が今日ここにやって来た目的を。
Tシャツ屋の彼が何をしなければならないのかを。
ー続くー