主任として戻って来て始めの一週間は、バタバタしていた。
引き継ぎ、顔合わせ、挨拶回り。
3年前はこの課で営業をしていたけれど、また新たに顧客と信頼関係を築かなければならないからだ。
あの子…いや、もう新人じゃない。
彼女とは、この忙しさの中では同じフロアにいても、挨拶程度の言葉しか交わしていなかった。
仕事上の関わりはそこまでないし、彼女とペアを組んでいる営業マンがいるからだ。
それでも、何かあって彼女に直接尋ねると、簡潔な言葉が返って来て、すぐに終わらせてしまう。
そこまで態度には出ないけれど、やっぱり避けられてるのか。
そりゃそうだ。
やんわりであっても、自分を振った相手とは顔を会わせたくないだろう。
でも、いつまでもぎくしゃくしていても、しようがない。
俺の方から今まで通りに接していれば、彼女も少しは気が楽になるかもしれない。
翌週、月曜日。
忙しなさも一段落した。
時間に余裕が出来たところで、給湯室へコーヒーを淹れに行った。
コーヒーの香りを楽しみながら、マシンの前で待っているとき、ふと、思い出した。
研修期間中にまだ新人だった彼女と、営業回りの途中でコーヒーを飲みながら休憩したことを。
仕事を覚えようと必死な彼女が、コーヒーを飲んでいる間はホッとした笑顔を見せたこと。
それが、少女のようで可愛らしかったこと…
…コーヒーが入ったらしい。
マシンのスイッチの脇に、灯りが点った。
カップに慎重に入れ、給湯室を出る、と。
彼女が俯いて立っていた。
さっきまで彼女のことを考えていたせいか、かなり驚いてしまった。
「お疲れさま。コーヒー飲むの?」
びっくりした…考えていたら本人が来るなんて。
「あ、はい。お疲れさまです」
俺と入れ違いに給湯室に入った彼女。
今日も、簡潔な言葉、俯いた顔。
もう、以前のような笑顔は見せてくれないのか…
週末が過ぎて、出戻りしてきて三週目。
少し遅れたけれど、課全体での歓迎会をしてくれることになった。
営業先から急いで店に向かう途中で、懐かしい居酒屋の前を通った。
以前、この近くに取引先があって通った店。
彼女の研修の終わりに、お疲れさまと飲んだ店。
「研修、よく頑張ったね。今度はペアを組む先輩と頑張って」
と、言葉を掛けた。
涙ぐむ彼女に、
「まだまだこれからだから。例えキツイことがあっても、仕事で涙は見せちゃだめだよ。だから」
彼女が顔を上げた。
「涙は、今日が最後」
その途端、彼女の瞳からぽってりとした滴が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
思わず、その泣き顔を見つめてしまった。
…なんて、綺麗に泣くんだろう。
「今だけ、我儘を言ってもいいですか」
「我儘?」
「…ペアを組むのなら、大沢先輩と組みたいです」
彼女の言葉に胸のどこかがきゅっと締め付けられた。
聞いてはいけなかった言葉のような気がして、
「それは、無理かな」
そんな、無下な返事をしてしまった…
なぜ今頃、こんなことを思い出すのだろう。
駅へ向かう道を急ぎながら、自問自答した。
けれど、答えは見つからない。
歓迎会が始まると、課の皆に挨拶をしてまわった。
そこには、ただ一人残っている同期もいた。
「まさか戻ってくるとは思わなかったよ」
ズバリと言われて、返す言葉がない。
「俺だって、びっくりだったよ。なんなら、あっちにずっといてもいいと思ってたんだから」
同期は、俺の言葉を聞いて眉を寄せた。
「そんなこと考えてたのか…彼女にバッサリ言ったのはそれでか」
「彼女…?」
「後輩の子だよ。知らないだろうけど俺あの子と付き合いかけたんだ」
「え?かけたって何だよ」
「仲良くなれたかと思っても、お前のことばっかり考えてるのが分かるんだ。俺を見てるようで見てなかったからな」
「そうだったのか…」
「俺は、大沢じゃないよって教えてあげたら、泣きそうな顔してたよ」
…3年前の最後の日、どうしたら良かったのか。
あのメールの返事を、どう言ったら良かったのか。
「おい、せっかく戻ったんだから、今度こそちゃんと自分の気持ちを言えよ」
「…え?」
「誤魔化してもダメだぞ。本当は好きだってこと、知ってるからな」
言い捨てて、行ってしまった。
これから、彼女にも挨拶しようと思ってるのに。
簡単に言うなよ。
1人グラスを弄んで、壁際にいる彼女に声をかけた。
「お疲れさま」
「あ…お疲れさまです」
びっくりしているようだ。
まさかここまで挨拶をしにくるとは、思っていなかったんだろう。
「仕事、順調そうだね」
「…はい」
俯いていた彼女の顔が上がった。
「もう、教えることなんて何もないんだね。また、よろしくお願いします」
笑顔で彼女を見る。
すると、彼女の顔がぱあっと笑顔になった。
…見せてくれた。
以前のような、少女ではなく大人の女性の綺麗な笑顔を。
戻って来てから、少しずつ彼女との記憶が蘇って来てる。
3年前、彼女を遠ざけたときに、一緒に彼女との記憶も遠ざけたんだ。
今、その一つ一つの記憶が、また俺の気持ちを彼女に向かわせる。
3年前は、自分の気持ちに自信がなかったから、抵抗したけれど。
もう抗わないと、決めた。
曖昧にしていた気持ちは、今まっすぐに彼女に向いている。
「…大沢、さん?」
黙ってしまった俺に、初めて彼女が先輩以外の呼び方をしてくれた。