それぞれの日常のタイトル変更と、続編を載せました。
その日、10時ちょっと過ぎに彼から電話があった。
「もしもし、ミチコ?」
心なしか、元気のない声…
「もしもし?どうだったの?」
「麻衣子は帰ったよ。もう、来ないって」
「そう…」
「これから、行ってもいい?」
「うん、いいわよ、待ってる」
電話を切って、小さくやった!っと叫んだ。
遠距離に疲れた彼女、ちょっとしたことで諦めた彼女。
私は、諦めないわ。
これで、彼は私だけのものだからね。
彼が来るから、簡単なお昼ご飯を作ることにした。
彼が好きなお肉を乗せた丼。
まず、彼の胃を掴まなくちゃと、頑張った甲斐があったわ。
ちょうど出来あがった頃に、彼がチャイムを鳴らした。
ドアを開けると、眉を下げた顔で私を押しながら入ってくる。
「どうしたの?」
「ん…」
部屋に入ると、後ろから抱き締めて小声で呟いた。
「ミチコは…俺のそばにいてくれるよね」
…彼女が去ったのが、堪えてるんだ。
前に回った彼の手に私の手を重ねて、彼にもたれた。
「心配しなくても、そばにいるわよ」
「ありがとう」
ぎゅうっと抱きしめられると、いつもの私ではいられなくなる。
身体が熱を持って、彼の熱も一緒になってしまう。
彼のことを好きになったから、遠距離をいいことに遠ざかってた彼女から、奪ってしまおうと思った。
でも、奪おうなんて思ったのはただ好きだから、だけじゃない。
私が服飾雑貨の店の店長になったのは、ちょうど1年くらい前。
そのとき、大手の靴下会社の営業マンである、彼と初めて会った。
「お疲れさまです!」
大きな声、すごくいい笑顔。
人懐こさを振り撒いて、彼は入って来た。
ばか丁寧な人、無表情な人、色々な営業マンがいたけれど。
こんな自然に人懐こい人、初めてだった。
だから、彼の推す物…ストッキングや靴下の、販促を頑張ったの。
彼に、私をもっと見て貰いたくなって。
イチオシのディスプレイ、カラフルなポップ。
もちろん、お客様へも積極的にお声がけしたわ。
その甲斐あって、良く売れてくれたし、何より彼にすごく感謝された。
…感謝されたら、彼にもっと近づきたくなった。
帰る彼に、
「夕食食べませんか」
と、声を掛ける。
美味しい焼き鳥と、お酒のあるお店。
気取らないお店を気に入ってくれたみたい。
いつもお疲れさまです。
次の売れ線はこのあたりかも。
このつくね、美味しいですね。
…彼女、いるんですか?
仕事の話、美味しいものの話…
お酒がすすんだら、聞きたいことが聞けた。
「いますよ。東京とこっちで遠距離なんです」
やっぱり…
がっかりした声を出さないよう、気をつけたけれど一気にテンションが下がってしまった。
そりゃそうよね。
こんな可愛い人、モテるに決まってる。
ああ、ショック…
そんな気も知らずに、彼は楽しそうにお酒を飲んでる。
そんな彼を見て、むくむくと闘志が沸き上がってきた。
彼女って言ったって、遠距離なのよね。
たま~にしか会えないんでしょ。
私の方が、頻繁に会えてるしこうしてご飯も一緒に食べてる。
この人にもっと見つめられたい。
まだ触れてない彼に触れられたい。
私、彼が欲しい。
それから、しつこすぎないように、でもマメに彼を食事に誘った。
美味しいご飯やお酒を楽しんでる時間が、彼との距離を縮めてゆく。
酔ってる時なら、ちょっと彼に触れても不自然じゃない。
そうして会うことが増えるにつれ、彼も少しずつ私に触れてくれるようになった。
少しだって、彼が触れてくれた所は途端に熱を持った。
ドキドキして、もっと触れて欲しくなった。
そんな気持ちをこめて、彼を見るようにしたら。
彼の目の奥に、微かにだけれど何かが燃え始めたように見えた…
これは、よく言うもう一押しってことよね。
彼を私に引き寄せるために。
その一押し、いつしよう…
8月、暑い日が続いていたある日、定休日の前日。
検品中の彼に声を掛けた。
「あの…良かったら、今日夕御飯どうですか?」
後ろ姿の彼が、くるっと振り向く。
「いいですね。暑いからビールも飲みましょう」
「良かった…ウチですけどいいですか?」
「ウチ?」
「はい、私の家です」
「そんな…いいんですか。」
「気にしないで下さい。お店よりリラックス出来たら、って思って」
「あ、ありがとうございます」
彼が乗ってくれた。
嬉しい。
今、すく近くにいるこの人に、もっと近づきたい。
「今日はお仕事は、何時ぐらいまでなんですか」
「ああ、ここで終わりです。帰社もしなくて大丈夫なので」
「そうですか。じゃあ、あと少しで閉店なので、待っていていただけますか」
「分かりました」
ことさら丁寧な会話をした。
お互いになんとなく、今夜のことを意識してるのが分かる。
今夜…もっと彼に触れられたい。
彼に触れたい。
彼を好きになったから。
でも、それだけじゃない、私の願望があった。
彼は転勤のある営業マン。
もし、彼と結婚して本社に転勤なんてことになったら。
彼の奥さんとして、東京に行ける。
この地方で生まれ、育ち、他へ出たことがない私は、東京に憧れてた。
1人で行けばいいじゃないって、学生時代の友達に言われたけれど…
就職の時、東京の会社を親に許して貰えなくて。
地元の小さなチェーンの雑貨店に入った。
販売しかしたことなくて、中途採用を探してもなかなか見つからない。
そのうち、反対してた親は病気でいなくなってしまった。
拍子抜けしたけれど、今更東京で働ける場所を探す気力が薄れてた。
そんな時に出会った彼。
彼の奥さんになれたら。
彼と一緒になって、ここから抜け出せたら。
1人だって行けるだろうけど、夫と一緒にっていうのがいいの。
人に頼るのって言われても。
それが私の願望…
お店を閉めて、彼の営業車でアパートに向かった。
お店の近くで借りたから、あっという間に着いてしまった。
「お邪魔します」
彼が、神妙な声を出して私の後ろから入って来た。
「そこに座って、待ってて下さいね。今、ビールとおつまみ出しますから」
「あの、仕事終わったばかりで大変ですから。そんな色々用意してくれなくても…」
「大丈夫。1人の時でも私、朝の内に作って冷蔵庫に入れておくんです」
パッと出せるおつまみにビール。
少し暖めれば良い煮物、そのままでOKなサラダ。
15分もたった頃には、二人で座ってビールを飲んでいた。
「すごく手際がいいんですね。それに、美味しい」
満足そうな彼を見ると、嬉しくて頬が緩む。
胃袋を掴めって、よく言われてるもの。
一応お店で飲む時に、彼の好みはチェック済みだし。
「お口に合ったなら、嬉しいです」
ビールを重ね、焼酎を勧め…
色々な話をしながら、二人で飲んだ。
彼は予想してたより弱いみたいで、もう耳まで赤い。
酔ったからなのか、だんだん言葉が砕けてくる
ミチコさんが、たまにミチコちゃんになる。
そんな彼が可愛くてしようがなくて。
お皿を片付けるのに、腕に触れたり少し寄りかかったり。
それを、身を引くでもなく受け止めてくれる彼が、嬉しかった。
二時間くらいたった頃だった。
少し片付けるために、5分くらい台所に立って洗い物をしていたら、いつの間にかソファに寄り掛かって彼が眠ってる。
かなり、酔っちゃったのね。
どうしよう…
多分、すぐには目覚めないわ。
もう飲めないだろうから、すっかり片付けよう。
テーブルの上を片付けても、台拭きでテーブルを拭いても、彼はぐっすり眠ってた。
私はお茶を入れて飲みながら、眠ってる彼を見てた。
やっぱり、私は彼が好きだなんだわ、と思う。
話してる時も、飲んでる時も、正直でストレートで甘えたで。
だから今夜、もし彼から誘われたら。
そういう事になってもいい。
いえ、そういうことになりたい。
それに…私の願望を叶えるには、遠距離の彼女を押し退けないと。
彼はどうなんだろう…
すこしでも、私に近づきたい気持ちはあるんだろうか。
ふと、時計を見るともう11時をまわってる。
そろそろ起こさないと…
「ね、起きて。帰れなくなりますよ」
「ん…」
もぞもぞと身体を起こすと、不思議そうな顔で私を見る。
「あれ?ミチコさん、なんで?」
「あら、覚えてないんですか?ウチでお酒飲んで寝ちゃったのに」
「あっ」
思い出したらしく、顔を赤くしてる。
「ごめんなさい!もう遅いですよね。」
ばっと立ち上がった彼がよろめいた。
「大丈夫ですか?お酒飲んでるんですから」
駆け寄って抱き抱えると、近い距離で彼と見合ってしまう。
「あ、ごめんなさい…」
急いで離れようとした。
すると、彼の腕が伸びて来て腕を掴まれた。
振り向くと、じっと私を見てる。
くいっと腕を引かれると、彼の腕の中に入った。
酔ってるのに、強い力。
顔を上げて彼を見ると、この間より強い炎が燃えているように見えた。
「私…私は…」
「黙って。俺、今酔ってる。でも自分が今一番何がしたいかは分かるよ」
「…なに?」
「…ミチコさんを食べたい」
ぎゅっと抱き締められた後、唇が重なった。
男の人の匂いと、アルコールの匂い。
頭がクラクラする…
キスしながら、彼の手が背中を探り、ふわっとした生地のブラウスを捲る。
彼の首に腕をまわしながら、想いが叶った悦びで満たされた。
今。
私を抱き締めてる彼は、紛れもなく私のものなんだわ。
これで、私の願望が叶うことに、一歩近づいたんだ。
彼女がこんな簡単に諦めてくれるなんて。
私は、彼が簡単に手に入って、浮かれてた。
好きになった人に、こんなに甘えられたのは初めてだったから。
好きな人が、こんなに愛してくれてる。
私は選ばれたんだ。
それはとっても気持ち良くて、しばらくの間私をふわふわと浮かれさせた。
そして、9月も後半になった頃。
定休日前の晩は、彼が泊まりに来るようになった。
私の料理を食べて、私の頬を包んで、嬉しそうに笑う彼を見ると幸せな気持ちになれた。
ミチコの料理をずっと食べたいとか、側にいてね、とか…
彼の言葉は私の願望を、叶えてくれると思えた。
何もかも上手く行ってると思ってた、その日までは。
明日で9月が終わる、木曜日。
珍しく閉店ギリギリに彼が来た。
「こんばんは。お疲れさまです」
いつもより、大人しめな声。
手に持った荷物も、少ない。
「珍しいわね、あなたが仕事でこの時間に来るって」
誰もいないから、二人の時のように話しかけた。
彼は、少し、困った顔をしてる。
「今日は、挨拶に来たんだ」
「…挨拶?」
「うん…ちょっと、ここ座っていい?」
お店の隅に置いてある、小さなテーブルと椅子。
そこへ彼が座ったから、私も向かいに座って彼の顔を見る。
「実は、明日付けで異動が決まりました。東京の本社に戻ります」
出入りの業者さんの口調。
「え…じゃあ…」
「…明日には、後任の営業が来るから。後任も、宜しくお願いします」
「…はい。分かりました。あちらでも頑張ってください」
一応、取引先の業者さん。
ちゃんと挨拶はしなくちゃいけない。
でも…私は彼女なんでしょ。
彼女への言葉は、ないの…
黙って俯いたら、彼の手が伸びて来て私の手を取った。
「ミチコ。いろいろありがとう。ずっとミチコといたかったけど…戻らなきゃいけないんだ、ごめん」
「私…私は連れてってくれないの?」
「…それは無理なんだ。戻れば実家だし、ミチコにも仕事があるでしょ、店長なんだから」
「そう、だけど…」
なに、この顔。
こんな顔、知らない。
あんな甘々なこと言っておいて。
どの口がしれっと、仕事があるでしょ、なんて言うのよ。
白々しい。
上に置かれた彼の手を除けて、立ち上がった。
「お疲れさまでした。お元気で」
腰を折って深々とおじきをすると、落ち着かない様子になった。
「ミチコ、何か怒ってる?」
「え?怒ってなんかいないわよ。ただ虫がいいなあと思っただけよ」
「…そんなことを言われても。まさか、結婚して一緒に行こうなんてこと、言うと思ってたの」
「…そんなことは…」
考えてたことを、まさかと言われて詰まってしまった。
「そうだよね。俺だってそんな気はなかった」急いで店の外に出る彼。
それがスローモーションみたいに見えて、中からぼんやり眺めた。
「じゃあ…」
ボソッと小さな声で呟いてから、彼は行った。
バタン、と車のドアが閉まる音。
ザザッと砂利をこすりながら、車は出て行った。
さっきまで彼が座ってた椅子に、ゆっくりと座った。
さっきの彼の言いようったら。
曖昧な言葉、灯りが消えたような目。
初めて店に来た時とは大違い。
私への関心を、全部吐き出してしまったみたいだった。
いいえ、初めから関心なんてものは無かったのかもしれない。
ただ、手近にいるものに甘えただけだったのかも…
「…側にいてって言ったくせに」
呟きながら、ゴールドチェーンのペンダントを、外して握りしめた。
当てが外れた。
奥さんになって東京に行くなんて、甘かった。
彼にそんな気持ちなんて、端から無かったんだ。
私は何を見てたんだろう。
上手く行ってるって思い込んで、浮かれていたんだ。
でも…
当てが外れただけなら、ただ彼を忘れればいい。
当てになる、次の男を探せばいいだけ。
なのに、なんでこんなに胸が重くて、息苦しいんだろ…
なんで彼の匂いが、温度が恋しいんだろう…
握りしめていたペンダントを、ゴミ箱に投げると帰り支度をするため、立ち上がった。
翌日。
いつも通り店を開けた。
一晩眠って起きたら、昨日のことは夢のような気がした。
でも、現実なんだ。
普段と全く同じように、ディスプレイのチェックをしていると、自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ!」
大きな荷物を抱えたスーツ姿の男性が、おずおずと入って来た。
「あの、今日付けでこちらの担当になりました。宜しくお願いします」
…彼の後任の人だ。
「そうですか。こちらこそ、宜しくお願いします。こちらへ」
荷物を下ろし、私に向かい合ったその人を見た。
人の良さそうな笑顔が、口元に浮かんでる…
「新商品の靴下、あります?」
笑顔を向けた先の眼差しを見たら、ドキン、と鼓動が早くなった。
もう懲りたでしょ、と冷静な自分が告げる。
彼ならもしかして…と諦めの悪い女が顔を出す。
もう、彼は私の日常にはいらない。
私、もっともっと強かになるわ。
私には私の、日常がまた始まるんだ。