すべては皇室に繋がっている

婚約解消の真の理由は相手の宮家 伏見宮家の跡取り問題 正妃の女王が産んだ嫡男から庶子へ変更 大正天皇の婚約解消事件

1899年(明治32年)3月、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と伏見宮禎子女王との婚約内定が取り消された。

理由は天皇の侍医による「禎子女王に肺病の疑いあり」という診断。


1900年(明治33年)211日に皇太子嘉仁親王と九条節子が正式に婚約。

510日に婚礼。


「肺病の疑い」をかけられた禎子女王も縁談が整い、

1901年(明治34年)、山内豊景と結婚。


1893年(明治26年)に皇太子との婚約が内定した禎子女王は最も歴史の古い宮家、伏見宮家の当主貞愛親王の第1王女。

母親は側室で父親の正妃は有栖川宮家から輿入れした利子女王。

そして貞愛親王の後継者は、利子女王の長男である第2王子の予定だった。

ところがこの嫡男である第2王子が「不治の病」にかかり、廃嫡。

側室になった侍女が産んだ第1王子が伏見宮家に戻って嫡男となった。


1899    婚約解消

1904    廃嫡

と、廃嫡は妹禎子女王の婚約解消から5年後。

兄の第1王子が結婚した翌年である。

兄妹の結婚までは第2王子の病気が公になるのを避けたのかもしれない。


第2王子の「不治の病」とは精神の病気のようで発症の時期は定かではない。

ただ、Wikipediaによると第2王子は陸軍幼年学校に入学したとの事で、それが本当なら今の中学2年くらいまでは通常の生活が送れていた事になる。

妹禎子女王の婚約内定の頃であった。


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