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恩師「長尾弘」先生御著書・御講演

愛しき我が子よ幸せに生きよ健やかに生きよ。
自らを浄め自らを高め自らの神我に目覚めよ。

恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-11-25 02:17:15 | 日記

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第五章 心の曇りをとるための反省


          前世の親子が今生で嫁姑となる


先の続き・・・

一人の息子への愛にとらわれた思いが執着となり、
自分の育てた子が嫁に取られたように思って嫁を憎く思い、
嫁のほうもついに耐えきれなくて、
姑と調和できずに何とか対立しがちな嫁姑の関係というのは世の中ではよく聞く話ではあります。
このお嫁さんの場合も、ご他聞にもれずそんな母親の業とでもいうべき問題を、
その息子の嫁が引き受けるという立場に立たされ、彼女としては、
やはりお姑さんをなかなか好きになれず、そうかといって同じ屋根の下で暮らしを
共にしなくてはならないため、その相手や状況から逃げるわけにもいかずに
心を苦しめていました。

このお嫁さんにしてみれば、なんで私はこんな境遇に置かれているんでしょう。
なんて不幸な巡り合わせなんでしょう、と嘆いていたはずだと思います。
「理不尽だわ、私だけこんな目に遭わなくてはならないなんて」と言う思いがあれば、
当然、心は苦しいはずです。
しかし、こうした人間関係もすべてご縁があって、偶然は何一つないということを知ったなら、
今現れている出来事だけを見て、自分の都合という物差しで
一概にいいわるい、幸不幸などと決めつけることもできません。
この二人の嫁姑も実は前世の深い因縁によって必然的に出会っていたのでした。
母親が好きで好きでたまらない。
死ぬまでいっしょに暮らしたい。

今度生まれ変わったなら、母が死ぬまでいっしょに暮らして面倒みたい。
そういう願いを抱いて亡くなったために、
その想念が今生でこういう形となって現れたのです。
いささか皮肉な結果と言えるかもしれませんが、考えようによっては、
お母さんの心の癖がとれ、
娘さんがどんな相手とも調和するという心の修行を通じて魂を向上させるには、
絶好の機会であるとも言えましょう。
勿論、互いに過去世の記憶はすべて表面の意識からは消されていますから、
肉体の五官の思いにどうしても翻弄されてしまい、相手を憎く思ったり、
恨んだりしています。
これはふつうのことです。

それがこのお嫁さんが苦しんで苦しんで苦しみ抜いた時、
自分自身の前世において、もし、また次の世で母親に巡り逢えたなら、
今度こそは終生尽くさせてもらいたいと誓っていたことがわかり、
本当に涙を流して今生の姑さんにお詫びすることになりました。
この心はお姑さんにも伝わりました。
この嫁姑は以前とは打って変わり、
とても仲のいい嫁姑になったということです。


            ~ 感謝・合掌 ~





恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-11-24 06:54:35 | 日記

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第五章 心の曇りをとるための反省


          前世の親子が今生で嫁姑となる


また、こんな話もあります。
今度は世間によくある嫁と姑との確執ですが、
この二人の縁が実は今生だけではなくて、
過去世にまでさかのぼるような因縁浅からぬものであったのです。
反省すると言っても、本人が覚えていない前世のことまで思いだすのは、
たいへん難しいことですが、それでもそういう場合があることを知って、
何事も謙虚に自己を顧みることは大切なことです。
身に覚えがないと言ったところで、どんな貸し借りや、自らに課した誓いや
約束事があるとも知れません。

この話しを、
或る時に当方に見えた嫁姑の争いで心を苦しめている方にさせてもらいました。
その方は嫁の立場でした。
私はそれが問題解決のために思い変えをする際のいいヒントになると思ったのです。
話というのはこうです。
嫁と姑が仲がよくないために、苦悩をかかえるお嫁さんがいました。
お母さんがお嫁さんとぶつかる原因というのは、一人息子がかわいいあまりに、
といういわば母親のエゴなのでした。
これはありがちなケースです。
もちろん、お嫁さんにしてみれば、いやなお姑さんということになります。
しかし、本当のことがわかった時に、このお嫁さんのお姑さんが嫌いという
気持ちは雲散霧消してしまいました。

というのは、
苦しんで苦しんで苦しみ抜いた時、ふと前世のことを思い出したそうなのです。
この二人は前世においてなんと実の母と娘だったのです。
それも娘さんのほうは非常なお母さん子でして、お母さんが好きで好きでしょうがなく、
一生、いっしょに暮らしたかったのです。
ところが、いよいよお嫁に行く時になりました。
どうしても母と別れて暮らさなくてはなりません。
この娘さんは今度生まれ変わったならば一生お母さんの面倒を見たいという思いを残して、
後ろ髪を引かれる思いでお母さんと別れて、嫁ぎ先に行かなくてはなりませんでした。
一生、お母さんといっしょに暮らしたいという、その執拗なまでの愛が、
今生でまた再びこの深い因縁で結ばれた二人がめぐり逢うという形で現れたと
いうわけです。
それも、此の度は親子ではなくて、嫁と姑という間柄でのめぐり逢いでした。
しかも、憎しみ合う嫁姑としてです。


            ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-11-23 01:38:57 | 日記

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第五章 心の曇りをとるための反省


       親子の確執が消えた反省の功徳


先の続き・・・

あなたの幼い頃に抱いてあげることも遊んであげることもできず、
寂しい思いをさせてしまったのではないかと、
泣いて話されると、娘さんもワンワン泣きだしてこう言いました。
「私だけなんで上に姉さんのようにしてもらえんのかと思って、
ずーっと寂しかった、辛かった」
お母さんは「かわいそうなことをした。堪忍して」と詫びました。

娘さんも「今迄の親不孝を赦してください。
私は今迄言えなかったのです。
これからは本当の親孝行をさせて下さい」と言って
、親子で抱き合って泣いて詫び合ったそうです。
このことがあって、お母さんから電話がかかって来ました。
「心の中の芯が抜けてしまったようです。
しかし有難いです」とおっしゃっていました。
この子は嫌らしい子だ、敵の生まれ変わりだという一心だったのが、
自然に消えて、なんとも言えないと泣いておられました。

この母と娘の場合は、互いになぜ自分は親にそむいて親をいじめるのかとか、
なぜこの子にいじめられるのかとか、それぞれの自覚がなかったのでした。
ところが反省して、お母さんはこの子に上に思いをいたし、
この子は辛かっただろうと懺悔した時、
わるいことをしたという思いに目覚めてきたのです。
一方、娘さんのほうもお母さんに手をつかれ詫びられたら、
いっぺんに心が開かれ、
地獄の毎日がたちまち極楽の世界となってしまったのです。
これこそは反省の功徳と言えるものです。


           ~ 感謝・合掌 ~





恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-11-22 01:24:15 | 日記

        恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第五章 心の曇りをとるための反省


            親子の確執が消えた反省の功徳


先の続き・・・

この苦しみから逃れるには、前に述べたように常に自分を離れ、
まず相手の立場に立って見ることです。
それから善意なる第三者の立場、
さらには私たちを守り生かしてくださる神様の立場に立って、
自己と相手とを観察していくことです。
自分を反省して相手の立場に立って見直してみると、
とんでもない迷惑を相手に対してかけていた自分が自覚されてくることがあります。
自分よりも相手はどうだったかと思う癖を常につける訓練をした時に、
ものの見方は変わってきます。
そのような話しをさせていただきました。
その翌日のことです。

夕方雨が降ってきて、洗濯物が干しっ放しでした。
娘さんは宗教の教会に出かけていて、いませんでした。
お母さんは、ああこれを取り込んでおかないとまた娘に叱られると思い、
取り入れていました。
すると、ふと娘さんの幼少の頃のことが思い出されてきました。
お子さんは三人おられ、上の二人の娘さんはすでに他家へ嫁ぎ、
下の娘だけが養子をとって現在跡継ぎとして同居していたのでした。
この方が幼い時はちょうどお姑さんが病気で具合がわるくて看病に明け暮れていました。
それで、この末の娘さんは女中さんにまかせっきりになっていたということです。

「ああ、あの子を抱いて育てることがなかったなあ」という思いがしみじみと
お母さんの心の中から湧き出てきたというのです。
上に子二人は我が腕に抱いて育てた。
しかし、あの子は抱くこともできなかった。
それでも、自分は姑さんの看病精一杯尽くしたんだから、これでいいのだと
思っていたそうですけれど、あの子の立場に立ってみれば、
どんな思いをしたことだろう。
母親に抱かれることもなく、さぞ寂しく辛かったであろう、
と気付きが訪れてきたそうです。
しまった!かわいそう、でかわいそうで、涙があふれ出して止まらなかったそうです。
すると、そこへ娘さんが帰って見えたので、
お母さんは仲のわるい娘さんの前に手をついて詫びられたのです。


            ~ 感謝・合掌 ~



恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-11-21 05:47:04 | 日記

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第五章 心の曇りをとるための反省


          親子の確執が消えた反省の功徳


一度入ったら今度は出口がわからないほどのお城のような大邸宅があります。
ふだん使うのは門から百メートルほど離れた所にある勝手門です。
お屋敷には土塀がはりめぐらせてあります。
そんな大きく立派なお宅ですが、
そこに住んでいる母と娘は敵同士のように仲がわるいのです。
60歳代ぐらいのお母さんと40前の三人姉妹の末娘さんですが、
その娘さんが養子をもらって住んでおられるのです。
お孫さんは小学生です。

お母さんが言うには、
この娘は前世の敵が自分の腹を借りて生まれて来たのかと思うほどに
親のことをいじめるのだそうです。
箸がこけたのまでお母さんの心がけがわるいからだと言って責める始末です。
その娘さんは妙な信仰に凝って、お母さんのすることなすことから出かけた先までを逐一、
その宗教の教会へ行き、報告するのだそうです。
すると、宗教の神様が「そりゃ、お母さんがわるい」と言うので、それをまた
家でお母さんを責める材料として使う。
お母さんにしたらたまらないでしょう。

よく相談に来られて嘆かれていましたので、「その娘さんが信仰に行っていたら、
お母さんもいっしょに行ってあげなさい」といいますと、
「妙な霊に憑かれると怖い」とのことでした。
「娘さんを救ってあげるためにも、
自分を捨てて共に行ってあげるのが真の愛じゃないでしょうか」と、
お話させてもらったのです。
しかし、「そこまではようしません」とおっしゃいます。
そこで、自分はいつも正しいと思うから苦しみが生まれるのです。
という話をさせてもらいました。

自己を中心として見た時、必ず苦しみが生まれます。
見たり聞いたり触れたりという五感を通して何もかも見ることになるからです。
それらにはどうしても自己保存を第一とする働きがあります。
すると、内部と外部、自と他という分離が生じてしまい、
自分以外のいっさいは己の自我と対立するものになってくるのです。
これではもう正しい見方はできません。
必ず自己保存と自我我欲によって目が曇らされた「煩悩」にとらわれた
見方しかできなくなってしまうのです。


           ~ 感謝・合掌 ~