恩師「長尾弘」先生御著書・御講演

愛しき我が子よ幸せに生きよ健やかに生きよ。
自らを浄め自らを高め自らの神我に目覚めよ。

恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-09-30 00:49:07 | 日記

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


先の続き・・・

たしかに人間は自由意志を与えられています。
しかし、心も肉体も神様から与えられており、自分のものではありません。
神の子神我すなわちキリスト意識が、
肉体というサタンの装いをして現れているのが人間です。
なぜサタンなのかと言いますと、肉体の服をまとうことによって、
五感による煩悩である自己保存と自我我欲の思いを満たすことのできる状態に
置かれるからです。
ところが、この肉体の服というサタンの装いこそは、
内なる神我の目覚めにはどうしても必要なものなのです。
それは、ちょうど蓮の花が咲くのに泥が必要であるのと同じことです。
中身は神から分けられた清らかな魂であり、
まとっているのは欲の心へと誘惑する五官を
備えた肉体の衣であるというのは一見矛盾のようでありますが、
これがあるために魂は
様々な過ちの経験を通してだんだんと進化向上して立派になっていけるのです。
私たちの本来の曇りなき心は例外なく神様の意識の中にあります。
わかりやすい比喩を用いてみましょう。
金の延べ板の上の厚く積もった塵を払えば、
それまで覆われていた金の輝きが現れてきます。
すでに金は金として光っているものですが、
塵があまりにも厚く覆い隠していたため、
その輝きが見えなくなっていただけです。
これと同様、
私たちの心も自己保存や自我我欲などエゴの思いの雲が晴れたなら、
光そのものとして、愛と慈悲の塊としての心の本質が現れてきます。
ノミで木を彫るとおが屑が出て来ますが、
だんだんと中の立派な像が現れてくるようなものです。


             ~ 感謝・合掌 ~





恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-09-30 00:49:07 | 日記

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


先の続き・・・

たしかに人間は自由意志を与えられています。
しかし、心も肉体も神様から与えられており、自分のものではありません。
神の子神我すなわちキリスト意識が、
肉体というサタンの装いをして現れているのが人間です。
なぜサタンなのかと言いますと、肉体の服をまとうことによって、
五感による煩悩である自己保存と自我我欲の思いを満たすことのできる状態に
置かれるからです。
ところが、この肉体の服というサタンの装いこそは、
内なる神我の目覚めにはどうしても必要なものなのです。
それは、ちょうど蓮の花が咲くのに泥が必要であるのと同じことです。
中身は神から分けられた清らかな魂であり、
まとっているのは欲の心へと誘惑する五官を
備えた肉体の衣であるというのは一見矛盾のようでありますが、
これがあるために魂は
様々な過ちの経験を通してだんだんと進化向上して立派になっていけるのです。
私たちの本来の曇りなき心は例外なく神様の意識の中にあります。
わかりやすい比喩を用いてみましょう。
金の延べ板の上の厚く積もった塵を払えば、
それまで覆われていた金の輝きが現れてきます。
すでに金は金として光っているものですが、
塵があまりにも厚く覆い隠していたため、
その輝きが見えなくなっていただけです。
これと同様、
私たちの心も自己保存や自我我欲などエゴの思いの雲が晴れたなら、
光そのものとして、愛と慈悲の塊としての心の本質が現れてきます。
ノミで木を彫るとおが屑が出て来ますが、
だんだんと中の立派な象が現れてくるようなものです。


             ~ 感謝・合掌 ~





恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-09-29 00:33:23 | 日記

        恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


          ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


先の続き・・・

都合の悪いことは何でも環境や境遇のせいにしてしまう癖がつくと、
そのうちに過去に溯って、育った環境が悪かったとか、時代が悪かったとか、
親の育て方が悪かったとか、
こんな相手と結婚したばっかりに不幸になってしまったなどと言いだしかねません。
これでは心の進歩はありません。
すべての原因を環境や時代や境遇に求め、物や人のせいにするなら、
自分の心は変わらなくていいことになるからです。
過去に思いを果たせず挫折したり、失敗したりしたことから、落胆の思いが現在まで続いており、
積極的に新たな取り組みをする気力を失ったら、これも自分が損です。
過去のせいで残りの人生までもが決定的にダメージを受け、もうどうしようもないのだと
心を沈ませながらどうにかやっと生きているのです。
重い足取りで歩いてゆくようなものです。

心は数々の記憶への執着とか悲嘆の思いが詰め込まれています。
砂袋のように重い心です。
前の章に述べたとおり、死んだら心だけになりますから、その重い心はもし地獄があれば
そこに落ちてしまいます。
また、過去の過ちをいつまでも悔い、罪悪感にとらわれている場合もあります。
これも心に重荷を負い、自らの心を苦しめていることに変わりはありません。
人は誰でも過ちを犯します。
それを二度と繰り返さないことができたなら、その過ちゆえに心が進歩したことになります。
しかし、これと反対に過ちゆえに自分の心を苦しめることは、正しくありません。
「悔い改めた時、汝の罪は赦される」というのも真の神の御心です。
「過ちを改めるのに憚ることなかれ」とあるように、自分が間違っていたと気付けば、
心を素直にし、勇気をもって悔い改めればよいのです。
過去の過ちのために自分を責め、心を苦しめたらいけません。
必ず不幸になります。
自分の心なのだから苦しめたって勝手ではないかと言う方もいらっしゃるかもしれません。
これは自分の肉体なのだから自ら命を絶ってもかまわないじゃないかと言うのと同じ大間違いです。


               ~ 感謝・合掌 ~






恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-09-28 03:44:52 | 日記

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


それでは、
わるい環境や運命が与えられたらそれに甘んじろということなのか、
と疑問を持たれる方もおられるに違いありません。
一生苦労の連続だったとしても、明るく笑って、楽天的に過ごし、
人には親切にしていれば、苦しみと感じない分だけ幸せかもしれないが、
それではいつまでたっても自分の悪い境遇から抜け出せないではないかと。
ところが、想念はエネルギーですから、いいことばかり思い、
感謝と喜びばかりで生活していますと、だんだんと運も開けてきます。
思いの中に生きているからこそ、思いに翻弄されることなく、
思いを変える練習が大切です。
たとえば、こんなたとえがあります。
「牛の糞に銀蠅が寄る。花に蝶が寄る」
牛の糞はいくら美しい蝶に寄ってもらいたいと欲しても、
寄ってくるのは銀蠅だけです。

花は呼ばなくても蝶をひきつけます。
ということは、私たちも心を美しく清らかにすれば、
黙っていても蝶が来てくれます。
自分の心が牛の糞であるか、花であるか。
花になった時、自然に幸せは与えられ、健康も与えられます。
明るい素直な心を持って感謝と報恩の生活を、
そして見返りを求めず人に尽くす生活をしていれば、
自ずと周囲の環境が改善され、望んだような現実も引き寄せられてくるものです。
だから、仮に恵まれない環境や不都合な運命の中に置かれていたとしても、
心をテコの支点としてすべてをよしとして受け容れてゆく
肯定的な方向に思いの力を用いたならば、
これが現実を望ましい方向へと動かす力ともなるということを
知らなくてはなりません。
ただし、知る為には自分が行って体験的に確認していくしかありません。


           ~ 感謝・合掌 ~





恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-09-27 00:38:21 | 日記

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


         ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆


先の続き・・・

人間は環境の中に生きていると思っていますが、実は思いの中に生きているのです。
思いをいだく心は目には見えませんが、
形の世界である環境以上に幸不幸を左右する力を持っています。
人間の幸不幸を左右しているのは、環境のように見えますが、実際は思いです。
ところが、私たちはこの思いをなかなか自由自在にコントロールできません。
逆に思いに振り回されます。
その結果、環境に支配され、束縛されてしまいます。
本来は心のほうが手綱を握りコントロールの主人にならなくてはいけません。
本当は幸福な環境だとか不幸せな環境などというものはないのです。
恵まれた環境とか恵まれない環境というのはあります。

けれども、環境にかかわらず感謝できるか否かの違いが最終的には幸不幸を決定づけます。
感謝できれば幸せと感じ、感謝できなければ不幸せと感じます。
思いが幸せならば幸せであり、思いが不幸ならば不幸ということです。
当たり前と言えば当たり前ですが、どういう条件の下にあっても、
一定して心に幸せの思いを持ち続けることができるかどうかということになれば、
これは非常に難しいものです。
このことは、どなたでもご自分の人生を振り返ればおわかりかと思います。
いい時もわるい時もあったはずです。

景気によって商売が儲かって大喜びしたり、人に騙されて損をして悔しがったり、
子供の心が間違ったほうに向かないかと取越し苦労したり、子供の結婚が決まりほっとしたり、
転勤先の新たな生活に不安をいだいたり、事業の失敗によってと法に暮れたり、
近親者の死によって悲しみに暮れたりと、
まったく私たちの心をよぎる感情は環境や境遇の変化につれて天候のように移り変わります。
それは思いの中に生きなくてはならない人間の宿命です。
喜怒哀楽の感情があるのは自然です。
しかし、その感情からどれだけ自由になっていられるか。
とらわれる度合いが大きいほど、その時々の環境や境遇に支配された心によって、
私たちの人生もまた翻弄されていきます。


               ~ 感謝・合掌 ~