恩師「長尾弘」先生御著書・御講演

愛しき我が子よ幸せに生きよ健やかに生きよ。
自らを浄め自らを高め自らの神我に目覚めよ。

恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-10-31 02:21:45 | 日記

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第五章 心の曇りをとるための反省


         心は本来、明るく光り輝くもの


最初に一番大事なことを言いますと、
世の中ではこれまで間違った常識がまかり通ってきました。
それは、人間は生きている以上、心に苦悩があるのが当たり前という考えです。
これが今迄の人生観をつくってきたのです。
そして、心というものと苦悩というものがいっしょくたにされたまま、
苦悩にまみれた心というイメージがありました。
晴れてもすぐに曇り、時にはドシャ降りというイメージが優先し、
本来の心がいかに清浄なものか、
もともと心はあたりを照らす明るい満月のような存在だったということは、
ほとんど忘れられていました。
満月は雲に関係なく夜空に煌々と輝きます。
雲がその光を遮っているだけです。
心と肉体もこれと同じことです。


            ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-10-30 01:31:25 | 日記

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


          ◆心ここにあらざれば・・・◆


先の続き・・・

そうすると、実際に嫌な事が現れてこなくなります。
それでも時々、怒りを発したくなる状況が襲ってきたりして、試されます。
しかし、怒りたくなっても、算盤を置いて損得勘定をし、
損だと思ったらすぐやめることです。
自分の心を苦しめる結果となるとわかったなら、
その苦しみの原因となる怒りや憎しみなどの感情を発するべきではありません。
それに、人のことを非難したり、人の悪口を言っている暇など本来はないはずです。
自分の心を汚さず、苦しめないための努力を続けることです。
一瞬一瞬を大切に生きることです。

道を歩いていて何か急ぎの用があるとか、
目的の場所に一刻も早くたどり着こうとあせっている時は、
周囲の景色が目に入りません。
その用事さえ済ませると、心にゆとりが出て、
ああ綺麗な花が咲いているなあと気がついたりします。
長い人生の中で常に心にゆとりのある日々の生活が、
自然や人間やあらゆる物事と心の交流を楽しみながら、
潤いのある心の旅路であるためにも、大切であるといえます。


         ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-10-29 01:01:10 | 日記

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


    第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


         ◆心ここにあらざれば・・・◆


先の続き・・・

今がよければ、次の瞬間もいいはずです。
実際には今しかありませんから、
いつも今の自分の心の状態を感謝と喜びと安らぎに
満たしていれば、これからもその状態であり続けます。
過去は二度と再び戻らないし、未来というのはいまだ来ていません。
それらに心を煩わすのは愚かなことです。
幸せと喜びの種を一瞬毎に蒔いていくと、
やがては必ず自分のもとに返ってきますが、
これは人は盗むことができません。

いい事でも悪い事でも、自分で蒔いた種は、
結果として自分で引き受けなくてはなりません。
自分が蒔いた悪い種の結果を人のせいにはできません。
しかも、一粒万倍の法則といって、
稲が籾一粒に対してたくさんの株ができるのと同様に、
自分のつくった原因はいいわるいにかかわらず、
必ず利子がたくさんついて返って来ることになっています。
常に今に全力投球すべきです。
今どのような心の調和度のレベルに自らの心があるのかが、
いちばん大切なことです。

もし、怒りをいだいてしまったとしても、
それは次の瞬間にはすでに過去になっています。
怒りを一刻も早く捨てることです。
不要な感情を捨てる練習をしてゆくと、
最初は三日かかったのが、二日、一日とだんだん短縮されて、
ついには出でた瞬間に捨て去ることができるようになります。
すると、ほとんど感謝と喜びと安らぎの心の状態ばかりと
なってまいります。


        ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-10-28 03:32:42 | 日記

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


            ◆心ここにあらざれば・・・◆


先の続き・・・

契約にこぎつけるまで、その方の心は一つの目的に向かいすぎるあまり、
その場のことがいっさい目に入らなかったのです。
いいえ、もっと正確に言えば、心がそこにないので、
たとえ目で見ていてもいっこうに意識にはのぼらなかったということでしょう。
これと似たようなことは、私たちの日常生活の中で常に起こっています。
交通事故を起こした方は、
ぶつかった時の状態がどうだったのかをほとんど覚えていないと言います。
なぜならば、心がそこにないからです。
だから、前に止まっている車が見えないで当たってしまうのです。
考え事をしながら運転していれば、信号にも気がつきません。
赤信号で前進したり、対向車とぶつかったりします。

満開の花の中に座っていてさえ花が見えないのなら、
赤信号が見えなくて当たり前です。
極端な場合は、広い道の真ん中で正面衝突をしている場合さえあります。
これは心が不在だからです。
いかに心が大切かということです。
朝の出勤前に夫不喧嘩をして、腹を立てながら車を走らせ、
ドーンとぶつかったりします。
心が夫婦喧嘩の中に行っているからです。
朝の出がけには、どうか気持ちよく送り出してあげてください。
現在の結果は、必ず過去の原因から来ています。
災厄から身を守るためにも、
喧嘩によって心の調和を乱すことはよくありません。


            ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-10-27 00:51:25 | 日記

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


          ◆心ここにあらざれば・・・◆


「目に見て見えず、耳にして聞こえず」という言葉があります。
以前、車にセールスマンが訪ねてきました。
軽四輪トラックを購入した時のことです。
一年間、一生懸命に手入れをし、
我が子のごとくかわいがっていたさつきの、満開の時期でした。
見事に咲いてくれましたから、
もう玄関から庭から座敷からいっぱいにさつきを取り込んでいました。
私が花の前で瞑想をしていますと、花の精が出て来てくれます。
花の精とお話をしたものです。
もう花が愛おしくて愛おしくてしかたがありませんでした。
そこへセールスマンの方がやってきました。

車をなんとか買ってもらおうと、一生懸命に勧めてくれました。
そして、書類に書き入れている間、
その方のお尻やひじがさつきに触れるので、花が落ちないか、
枝が折れないかと、その度に私は冷や冷やしておりました。
それで、書類ができて、それでは買いましょうということで判を押したら、
やっとその方が自分の心に帰られたのでしょう。
「ほう。きれいな花咲いてまんなあ」とおっしゃいました。
念のために聞いてみました。
「あなたは今までこの花が見えなかったんですか」と。
すると、「全然見えませんでした」と答えられました。
この出会いによって、私たちは花の中にあっても心がそこにないと
花が見えないのだということがわかりまた。


            ~ 感謝・合掌 ~