恩師「長尾弘」先生御著書・御講演

愛しき我が子よ幸せに生きよ健やかに生きよ。
自らを浄め自らを高め自らの神我に目覚めよ。

恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-12-31 02:21:28 | 日記

        恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密


          心の教えを正しく行うと証がついて回る


行く先々で金粉が舞い降りる現証

「私は今、金粉を降らせてください、
こういう現象を見せてくださいと言ってお祈りをさせてもらったわけではありません。
それなのに、二千五百年余りの昔のインドでゴータマシッダルタという名で
釈迦族の王子であったお釈迦様と奇跡の話しをさせていただいていると、
神様がこういう現象を実際に見せてくださるのです」と、説明させていただきました。
また、「各地に寄せてもらいましても、その場所によって金粉の現証がまったく
現れない場合もあります。
今こういう不思議な出来事を体験させてもらえるのは、
みなさんの心が調和していたからであると思います」と、お話をしました。
しかし、なおも会場では金粉ひろいが続いていたので、
「私が一生懸命話しをしてもみなさんが聞いてくださらなかったら・・・」と言ったものですから、
会場から爆笑が起こりました。

いつだったか、講演会に見えられたおばあちゃんから、
後で電話が入り、金粉に関して「隠しもっているでしょ」と言われるのです。
ポケットにでもこっそりと金粉をあらかじめ忍ばせておき、
歩く度にそれをまいているというわけです。
しかし、私の仕事は詐欺師ではありません。
そんな大人げない細工をこらしてもなんにもなりません。
それどころか、神様の前に人々を欺いたならば、私は間違いなく地獄行きです。
そんな馬鹿なことをするわけがありません。
第一、 自分の意志とは無関係に起きてくる現象です。
それは神様が人々のために見せてくださる証しですから、種も仕掛けもございません。
心の世界と一つにつながった物質の世界で神様のお導きにより、
心の力の偉大さに目覚めさせようと奇跡を現わしてくださるのです。
奇跡というのは神の愛によるものだと思います。
ですから、私たちはここから何かを学ばないといけないのです。


           ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-12-30 00:57:19 | 日記

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密


      心の教えを正しく行うと証がついて回る


      行く先々で金粉が舞い降りる現証

弟子を伝道に出される時に、お釈迦様はおっしゃいました。
「あなたたちの赴くその土地の天と地と多くの人々の幸福と利益のために
尽くしなさい」と。
我が人生の来し方をふりかえれば、長年にわたって、国内、海外を問わず、
あちらこちらへとでかけて行っては、夜も寝ないでこの御言葉の精神を実践させていただいてきました。
地方に車で行き、講演させてもらい、癒しをさせていただく時も、夜中にやっと寝るということが多いです。
自己の思いの中からすべての自我というものを捨て去って、ただ赴く所の天と地と多くの方々の幸福と利益のために、
己を忘れて命をかけて自らの肉体を使わせていただいた時、必ず神様は不思議な出来事を現わし、
その力を見せてくださいます。

空中からキラキラと金粉が舞い降りてくるという現象も、その一つです。
神様がお現わしになる「現証」です。
仏教の儀式ではよく蓮の花をかたどった紙が散華されます。
その由来は、尊いお釈迦様の説法の場で何もない宇宙空間より蓮の花びらが舞い降りたといわれています。
しかし現実は金が舞い降りてきたのだと思います。
これも自分の体験したことですから、信じる信じないはその人の自由です。
「井の中の蛙大海を泳ぐ鯨を知らず」で、自分で確かめ納得のいったものだけしか信じることはできません。
もう何度も何度も行く先々で金粉が降ってきたり、歩いたところに金粉が散り
敷かれていたりという体験を重ねています。

たとえば、ある時は講演会で演壇に向かって歩いていきますと、
歩いた足跡から花の咲くように次々と金が出てきて、最後には演壇までの真っ直ぐな通路の
絨毯が一面に金を散り敷いたように黄金に輝いていました。
そのような体験からして、お釈迦様の御足を頭上にいただいて行われる儀式も想像できます。
私のような者でも、そのような奇跡を見せていただけるのですから、
ましてやお釈迦様の場合なら当然そういうことは常にあったことでしょう。
歩かれたら必ずそこには金が出るだろうし、お説法される時は必ずその場に金が降ってきただろうと思われます。
こういうお話をさせてもらっていた時です。
講演会の会場の天井が板張りであるのに会場一面に金粉が降り出しました。
そこにいた全員が金粉をひろうのに熱中されているので、
私の話しも一時中断せざるをえませんでした。


            ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-12-29 00:57:38 | 日記

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密


        心の教えを正しく行うと証がついて回る


作善止悪という簡単で難しい実践

奇跡は求めて得られるものではなく、そういう気持ちさえ忘れて、一生懸命に
日々のやるべきことをやり、また心の学びを人生の中で地道に行っていく時に、
必要に応じて与えられます。
私たちにできるいちばん基本的な法の実践とはなんでしょう。
いつもお話させていただくのは、
悪いことをしないようにして善いことはどんどんと実行していく、「作善止悪」の実践です。
なんだ、当たり前のことじゃないか、と言われる方も多いと思いますが、
これが案外やってみるとできないものです。
残念ながら、今の世の中を見てもそうです。

悪いことをするにはなんの努力もいらず、ただ欲望のおもむくままに生きていればよく、
善いことはこれを行うのに、なかなか強い意志と勇気とを必要とします。
この言葉の由来である古い時代の中国の故事を調べると、こんな話しがあります。
白楽天という唐の時代の有名な詩人が、かねてから気になっていた高名なふくろう和尚を訪ねます。
いつでも高い木の上で坐禅をしているので、誰言うとなくふくろう和尚と呼ばれていました。
森の木の上にいるふくろう和尚に会うと、木の上の和尚に向かって、白楽天は
どうしたら人間は幸せになれるかと質問します。
すると、ただ一言「作善止悪」という単純な答えが返ってきました。
白楽天は思わず笑いました。

白楽天には教えのあまりのやさしさが意外に感じられ、その言葉の幼稚さに
あきれて帰ろうとした時、うしろから「三歳の童子これを知り、百歳の翁
これを行えず」と痛烈な一言がひびきました。
私たちはものの善悪は三歳にして教えられますが、
百歳になっても実践できないのが凡夫の姿です。

「我が道は易しすぎなり 幼稚なり 人は言うなり 行いもせで」(弘)

口でいうのはごく易しいものですが、行なえる人はほとんどおられません。
悪を行うと砂袋に砂を積めるように心を重くし、善を行うと心が軽くなります。
また、よくないことをするのは、コップの中の水にスポイトで
墨を一滴ずつ落としているようなものです。
心が濁ってきたら、反省をして悔い改めます。
それから償いの善き行いをさせていただくことです。
一生懸命に善行を積ませていただくのです。
それから、法の話、真理の言葉を聴くのもいいでしょう。
そうしていれば、多少の悪を犯してしまったとしても、
その濁った水に新しい真水を注ぐことになります。
和尚は「三世の諸仏はことごとくこの法門を説き給う」と言われました。
三世は過去・現在・未来です。
いつの世にも変わらない真理として、
仏と言われる方はこの法門を説かれています。


             ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-12-28 00:59:40 | 日記

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密


    心の教えを正しく行うと証がついて回る


          不思議なユリの現象

先の続き・・・

私たち人間の行為を通す以外に、具体的には神の御心をこの地上に現わせません。
そして、もし誰もかれもが、本来の神の子としての心を素直に実行し、互いに
助け合い尽くし合い、愛の光に満ちあふれた神の国が地上天国としてできるはずです。
神様はそれを最も望んでおられるのです。
個人の幸福も健康も、この神の御心と肉体にいる自分の心とが同一になった時、
はじめて運命や境遇や心境となって自然と現れてきます。
それは神の世界の光がそのまま現象界へ流れてきますから、当然と言えば当然のことです。
神様の世界に苦しみや不幸や悪や不完全のあるわけがありません。
「我が与えし、その肉の身を持ち 我が思いをこの地上に示し現わせ」。
これが、神様の願いです。

その神の御心を我が心にいただき、私たちが日々の生活の中に実践した時に、
はっきりとそれが正しい法にしたがう行為であることを証明するような現象が
現れてきます。
これが現象による証明、すなわち「現証」というものだと思います。
これまで奇跡と呼ばれてきたものの中で、真実に神様がお現わしになったものは、
すべてこういう経緯のもとに必然の結果として出てきたものだと言っていいと思います。
それは因果律の法則にかなったものです。
奇跡はたしかに不思議な現象です。
しかし、一方でこの法則を考えれば、心と行いが法に照らして正しいものなら、
早晩なんらかの形で結果が出てくる、その一つの現わし方が奇跡として現れますから、
ちっとも不思議ではないということになります。

原因はいつも私たちの心の中で思うことにあります。
つまり、私たち人間の心はいつも神霊の側からは
しっかり見られているのだということを忘れてはならないのでしょう。
厳しい心のチェック体制を怠ってはなりません。
これを怠り、自らをごまかしたりすると、憂き目に遭うのも自分自身です。
そして、奇跡を体験しても、それにたらわれ、
あたかも自分に特別な力がついたのだなどと増上慢に陥ることなく、
ああこれも神様の慈愛と励ましなんだな、
これからも怠らずに心磨きと人のためになる善き行いを
積み重ねていこうと決心を新たにすることです。
そうすれば、ちゃんとその努力は神様が御覧になってくださっています。
心の調和を目指し、正しく法にかなった生活をしていくと、
その心は神様に通じます。


          ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-12-27 00:19:47 | 日記

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密


     心の教えを正しく行うと証がついて回る


不思議なユリの現象

自然現象であったとしたなら、ユリの蕾は必ず一つずつ別々に、
時間の間隔をおいて開花するはずです。
それが同時に全部そろって咲くのですから、奇跡としかいいようがありません。
「今話させてもらったことを神様がその通りだとおっしゃって、その正しさを
証明してくださったのです。
もし、お話が間違っていたら、こんな現証は見せていただけるはずがありません」と、
お話させて頂きました。

そういう不思議なことを見せていただくことはよくあります。
浄心庵を訪れた方は必ず目にされるでしょうが、やはり講演中に百合の花が
垂直に立ってしまったという不思議な現証の写真が額に入れて飾ってあります。
ふつう釣鐘状の花は上を向くことはありません。
上を向いて咲くと花の中に雨水がたまり腐ってしまうからです。
それが茎と同じ方向にピンと上を向いて咲いています。
茎とオシベが一つづきのように直立をしています。
正しい神理を語る時は、神の力が言葉の中に宿ります。
これを言霊と呼びます。

その言霊に自然の植物も動物もすべて感応してくれます。
念力でもなければ、霊能力でもないし、
また神様以外の霊的な存在の応援による力でもありません。
自分の力で起こしているものではなく、神様が証しを見せてくださっているのです。
山に入って護摩を焚くとか、何もそういう厳しい行をしなくても、
日々の生活の中で正しい法をよりどころとして調和された安らかな心で生きていけばいいのです。
もっと具体的に言うと、反省と与えられた環境への感謝です。
無償の愛の実践です。

ウィスキーの空き瓶にたまった皆さんの愛の真心の募金を寄付できたのを
神様が喜んでいらっしゃると、お話させてもらっていると、ユリに奇跡が起きた
―――ということをもっとわかりやすく説明すると、以下のようになります。
神様はこの物質や肉体の目には見える現れの世界では、
御姿を現わして直接人助けなどの善い行いをされるわけにはいきません。
神様は肉体も声もお持ちにならず、ふつう私たちには見えない存在です。
しかし、「人の目を通して語り給う」という言葉があります。

「我が行為 神の御心あらわさん 父の御心世に示さんがため」(弘)


             ~ 感謝・合掌 ~