恩師「長尾弘」先生御著書・御講演

愛しき我が子よ幸せに生きよ健やかに生きよ。
自らを浄め自らを高め自らの神我に目覚めよ。

恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-07-31 03:38:44 | 日記

   恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第一章、或る愚か者の生涯


      ◆親孝行ができたと思うこと◆


先の続き・・・

本当の親孝行とは何かと改めて考えてみます。
今の世の中は戦前の「教育勅語」の精神も消し去られ、
人の生きる道さえ失っております。
縦横の秩序や忠節、感謝や友愛の心も失われて、その結果、
学校や家庭において子供がいろいろな問題を起こしています。
もちろん、子供だけでなく、
大人の世界でもいちいち例を挙げるまでもないほど毎日のように
新聞をにぎわせるおぞましい事件が起きています。
戦前の教育勅語の、君に忠にという言葉が君主主義につながるからいけないと、
日本の国から消し去られました。
しかし、「親に孝に 兄弟に優に 夫婦相和し 朋友相信じ 博愛衆に及ぼし 
強健己を持すべし」の精神こそは、人の生きる基本であるとおもいます。

御義を受けた方に忠義を尽くすべく、
再び日本国民が目覚めなければならないと思います。
世界を歩きますと、どんな小さな国にも国旗が立っていますが、
日本の国際空港で日の丸の国旗を見たことがないのは不思議なことです。
世の識者たち、指導者たちは、自国を愛してはいけないと思っているのでしょうか。
自然の草木を見ても、生まれた土地に根を張って、
生まれた土地から栄養を吸収して生きています。
あの鮭を見ても何年も大海を回遊し、やがては生まれたふるさとの川へ帰り、
産卵をします。

そして、新しい生命を生んで育んでいきます。
悲しいかな、人間は自然の掟を破りつつあり、
やがてクローン人間をつくる日が来るかもしれません。
しかし、絶対にいけません。
自然の掟を破れば、神に逆らうことになるからです。
その時、必ず自然の反動が来ます。
そして、人類は人類を滅ぼすでしょう。
科学とは尊いものではありますが、一つ間違えば、
人類を滅ぼす恐ろしいものでもあります。
つまり、自分の命のもとを考え、自然の恵みの中で生かされているお陰、
生み育ててくれた親への感謝に目覚めなくてはなりません。


         ~ 感謝・合掌 ~





恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-07-30 02:36:57 | 日記

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯


          ◆親孝行ができたと思うこと◆


私は八人兄弟の五番目として生まれました。
長じて独立し、親も老いてから、私の家に遊びに来てくれる度に、
「八人も子がいるけれど、
おまえのところに来るといちばん気持ちが安らぐ」と父母から言われておりました。
それだけに兄弟から嫉妬、反感を受けていたようです。
しかし、それも現在ではすっかり調和しています。
母は私がお腹にいる時に、たいへん重く感じたそうです。
体重が四キロ近くあったから重いということではなく、ひどく重く感じたそうです。
しかも、誕生が七月二十五日でしたから、
「おまえは親不孝や」とよく言われたものです。
暑い最中に生まれ、おまけにえらく重くてしんどい目に遭わせたから、
そのように言われるのは当然と思っていました。
ところが、私が稼業の織物業をやめて、人さまのためにあちこち飛び回るようになりますと、
寸暇を惜しんで我が身も顧みずに東奔西走する倅の姿を見て、
自分の身は過ぎたる方に宿っていただいたためにあのように身が重く感じたのだと思うようになったそうです。



      我が如き 者の腹より よくぞこそ
          尊き方と 母の言葉や


母はよく浄心庵に来られる方に対して、「私のようなもんの腹からよくこんな尊い方が
生まれてくれはったこっちゃ」と話しておりましたが、私は「それだけは言わんといてください。
それを聞いた人は親バカと思いますから」と言ってお願いしたものです。
しかし、母は自分の腹を痛めた子でも自分の所有物のようには考えていなかったのです。
子は神様からの授かりもと言われますが、この言葉は子宝に恵まれることを祈り、
子が授かれば感謝する心を示しています。
ところが、とかく子を育てる苦労を経ながら、
私たち凡夫はいつしか本当の親バカになっていきがちです。


      母言わる 我れ一人の 子にあらず
        数多の子故 身を大切にせよ


             ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-07-29 01:34:05 | 日記

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第一章 或る愚か者の生涯


        ◆父母の後ろ姿から学んだ奉仕と布施の実践◆


先の続き・・・

山道は草を刈らないでいれば、ぼうぼうに生い茂ってきて両側から道を覆ってしまいます。
そこを通る人は自分の畑に野良仕事に行く父の他にも少なからずいることでしょう。
そのままでは通行が困難になります。
そこで、父は一人で草刈りをします。
足下の歩くところだけでいいのにと幼い私は思うのですが、
周囲から草がはびこり生え重なってくれば、また歩きにくくなってしまいますから、
ある程度まで幅を持たせて、広い範囲にわたって草を刈らなくてはなりません。
こんな余計なことまでしなければいけないのか、と私は思いつつも、
父から「こうせなあかんのやで」と教えられるままに嫌々ながら手伝って草刈りをしたものでした。

よその人も通るのだから、よその人も手伝えばいいのに、と思うものですが、
そんなことはおかまいなしに父はひたすら奉仕の実践をしていました。
そんな心を私は小さい時より、両親からその姿を通して教えこまれていました。
両親ともだからといって、特に宗教団体に属していたというわけではなく、
私の兄が出征兵士として戦地に赴けば、
無事の帰還を願って神社やお寺にお参りするなどということがあった程度です。
母は富田林にあるお不動さんに月に一回お参りし、父は高野山の弘法大師を信仰しておりました。
先祖代々の墓のある菩提寺は、融通大念仏といって河内と大和一円に門徒を抱え、
阿倍野に大本山を持つ融通念仏宗のお寺です。
今でもお盆の頃の風習を思いだします。
寺にご先祖をお迎えにまいり、家で三日間おまつりして、その間は毎晩御詠歌をあげます。
そして、盆明けのみたま送りの時には、送り火を炊きます。

さんだらぼっちともいって米俵の両端に当てる丸いわらの蓋である桟俵の上に、
野菜や果物を供えて、薄い木札に長尾家先祖代々の文字を書いてみたま代とし、
蝋燭と線香を立てて、大念仏の門徒の用いる鉦をたたきながら、家族そろって大和川までお送りします。
この融通念仏宗はもともと平安時代の永久五年(1117)に良忍という方によって始められたものです。
華厳経・華経を第一とし、浄土三部経を第二のよりどころとするものだそうです。
一人往生すれば衆生往生するというのが宗旨です。
この融通というのは、「必要な物や金を都合する」という意味ですから、融通念仏の意味も、
もし自分が念仏を唱えればそれが他人のためにもなり、
他人が唱えればそれが自分のためにもなるというように互いに融通し合うことができるところから来ているようです。
円融念仏とか大念仏とも呼びます。
父母や祖母の布施の実践、奉仕の実践、自分のものと他人のものとの区別なく、とにかく
みんなにとって少しでも役に立つことを率先してやるという心も、
このあたりと相通するものがあると思います。


                ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-07-28 00:17:10 | 日記

  恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第一章、 或る愚か者の生涯


   ◆父母の後ろ姿から学んだ奉仕と布施の実践◆


先の続き・・・

収穫した葡萄からは、腐った粒や成長していないうらなりの粒を、
先の尖ったハサミで摘んで除き(「サビを取る」と言います)、
良質なものだけを箱に詰めて出荷します。
この選り分けの作業を庭先で行うのですが、
母は決まって玄関口の敷居のところに座って、
表を通るかかる人々に「ひとつ食べていっておくんなはれ」と、
いつも見も知らぬ人たちにさしあげておりました。
私の父が偉かったのは、
一年もかけてやっと育てた大切な作物をそのように通りすがりの
見も知らぬ人にあげてしまう母に対して、
いっさい何も言わなかったことです。

ふつうならば、「もういい加減にせい」とでも言いそうなものです。
私の母は自分のところに食べるものがなくても、人には施してしまう、
そういう人でした。
その後ろ姿を見て育ってきたために、私は人に施すものだと、
ごく自然に思ってきました。
親から受けた感化と言えます。
しかし、これは母からばかりではありません。
父の行いからも私は教えられるところが多々ありました。
父からは無償の奉仕の実践を学びました。
いつしか当然のごとく、
布施と奉仕の実践をするという心が親の代から子の代へと
受け継がれ養われてきました。

昔の道は今と違って舗装されていない土の道でした。
リヤカーや荷車が通れば、その轍ができ、雨が降ればぬかるみとなって、
轍はますます深く掘られ、そこの水が溜まります。
父は畑に行く途中でも、デコボコになっている箇所を見つければ、
必ず道直しをしておりました。
道とはみんなが使う公共のものです。
雨が降れば山道でも上から流れ下ってきた水が道を掘り返し、
通りにくくなります。
それを頼まれもしないのに、
なぜ自分の父親だけが一人汗を流して直しているんだろう。
私は子供ながらに不思議に思っていました。
しかし、
それは奉仕の心と実践とを身をもって教えられていました。


        ~ 感謝・合掌 ~



恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-07-27 05:51:49 | 日記

  ~ 恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より ~


       第一章 或る愚か者の生涯


     ◆父母の後ろ姿から学んだ奉仕と布施の実践◆


太平洋戦争末期の食糧難の時代、
私の故郷にも都会から食べ物を求めて買い出しに来る
人々がたくさんおられました。
着物とか貴重品を持ってきて、お米や芋などの食糧に換えるのです。
いわば物々交換です。
私の母は、そういう人々がやって来ると、お腹を空かせているだろうと、
お粥を大きな鍋に炊いて、
「ちょっと入って食べておくんなはれ。ちょっと入って食べておくんなはれ」と
見ず知らずの人に呼びかけて家に入れ、お腹いっぱいに食べてもらっていました。
こういう施しは仏教では布施といわれています。
もちろん、私の母は特にそんな言葉を意識していたのではありませんが。
私の田舎は葡萄の産地でした。
収穫の時期ともなりますと、畑で摘み取った葡萄をリヤカーに積み、
遠回りをして山道を運んできます。

しかし、母は別の近道をして山をこえて一人歩いて帰ります。
肩には葡萄の入った篭をかついでいます。
母は道の途中で行き交う人に「食べておくんなはれ」と言いつつ、
どんどんあげてしまいますので、家にたどりつく頃には、
篭の中は空っぽになっているのです。
これが母の楽しみだったようです。
私の母の母、つまり祖母になると、さらにこの布施の精神は徹底していました。
「乞食さん」と当時呼んでいたのですが、その乞食さんが家の門口に来たら、
家族が食べる分としてお釜で炊いておいたご飯も野菜をいれて大鍋で煮たおかずも、
「まあ食べていきなさい。好きなだけ食べなさい」と、大きな釜と鍋ごと与えていました。
乞食さんが食べ終わるまで、家族は待っていました。
「もう腹いっぱいになりましたか」と祖母は乞食さんに聞いて、
それから家族は残った分を食べていました。
今の世の中ではなかなか聞けそうもない話です。
ホームレスの方々はだいたい一所にかたまって生活しておられるでしょうし、
一軒一軒物乞いをして歩く乞食さんの姿も今日では見られません。
ましてやそういう人に施しをされる方もおられないでしょう。


             ~ 感謝・合掌 ~