最後の投稿から2週間以上が経過してしまった。ブログのIDもパスワードも忘れてしまい、ログインすらできない始末。意気込みが強いときほど私は私をあっさりと裏切るし、平気で約束も決意もばっくれる。詐欺師にもほどがあるけれど、もうそういうヤツだってわかってるし、自分へのエールのつもりで付けた「クタバレ!専業主婦」というブログ名すら、「はいはい、くたばりましたよ~」と開き直って布団から出てくる気配すらなくなるので、自分がそういうモードに突入すると実に厄介。
ここ数日“MCバトル”にハマっている。DJが流すビートに合わせてラッパーが1対1で即興でラップしてお互いをラップで倒していくバトル。これは拳を使わない格闘技であり、拳の代わりに言葉と頭を使って相手をK.O.していく音楽格闘技だ。歌のように歌詞に明確なメロディはなく、メロディ要素を取り入れてラップしている者もいるが、ほとんどが一定に近い音程で言葉に抑揚を付けたり韻を踏んだりしてリズムと言葉で殴り合う。腕力や体の大きさ、職業・年齢・立場は関係ない。言葉で相手を侮辱し、あげ足を取り、時に観客を巻き込んで、自分がどれほど強いかを見せ付け合うリングの上の音楽バトルなのだ。
こんな顔面数センチの距離で人に暴言を吐く機会はない、しかもビートに乗せて。「お前ムカつく消えろ」なんて思うことは山ほどあるけれど、ストレートに言葉で吐くことはないし、人生でそこまで批難したい相手ってたかが人数しれていて、恨む理由があればまだ罵る言葉も出てくるだろうけど、「ラップバトル」は相手に興味があろうがなかろうが、罵る理由も見つからんようなつまらん相手だろうが、disったらガチで殺されそうな怖い相手が目の前に立っていても精一杯disらないとそこで負けてしまうのだ。“嫌い”ってそもそも体力を使うし、嫌ってもいない相手を嫌わなきゃいけないって相当なエネルギーを要する。だから時にはラップレベルはそこそこでも気迫だけで勝ってしまうラッパーもいて、一瞬の“ひるみ”でK.O.されてしまう王者もいる。言葉ひとつで勝負がひっくり返ることもあるし、耐え切れずつい手が出てしまうラッパーもいる。とにかく見ていて心が汗だくになってしまう。
若い頃の私だったらこういった音楽は聴かなかったし、イメージだけで遠ざけてしまっていた。音楽もファッションも自分の嗜好を無視して、“人からどう見られるか”を重視して色々と誤魔化してきた。とりえず「流行り」を選んでおけば間違いないし、一番怖いのは「ナニソレ?」と失笑されてしまうことだった。今でこそ時代は“多様性”という言葉を「流行り」として多用しているけれど、実際には「あの曲いいよね!」「このファッションかわいいよね!」とそれらしく共感し合えるものを選んでおくことが無難だし、異端で孤独にならずに済む簡単な方法だ。「個性個性」と口にしながらも、極端に突き抜け過ぎないように周りの空気に合わせて整合性を保ちながら“個性の一部”を発揮しているのが日本の現状だと感じている。
何色が好きでどんな音楽を聴くのか…“すき”は自分の深層心理を晒すことだとも思っているので、なるべく隠しておいて大事な部分を傷付けられないようにしてきた。「ナニソレ?」「変なの」、その一言ですべてを否定されたような気になって傷付いてしまうのは私だけではないはずだ。しかし、アートが好きな人間が“異端にならずに済む方法”だなんて、相変わらず私は私に矛盾しているし、はなから無理なことに一生懸命に生きてしまったなぁ…と、過去の自分をカウンターの端から眺めている。
今は違う。好きな服を着るようになったし、自分で作るようになった。ジャンルを問わず聴きたい音楽を聴いて、見たいアートを見に行くようになった。それは昔の私と比べるような知人や友人とあまり会わなくなったことで発揮できるようになった個性でもある。とにかく「ナニソレ?」が怖い。一撃だ。本当の自分を偽物のように扱われるのはもう嫌だ。これから出会う人は今の私が基準になってくるので、もうあまり自分を偽りたくはない。
パンクロック、エレクトロニカ、ラップ、民族音楽、クラシックも聴くし、電子音楽もJ-POPも好きだ。中国の謎の曲にハマって耳コピして本気で歌ったり、ガムランという楽器そのものの音に魅了された音楽もある。盆踊りの音頭も好きだし、好き勝手でたらめに踊るのも好きだ。むしろジャンルなんてどうでもよくなったという方が正しくて、耳にした音楽が気持ち良いと感じたらそれがどんなジャンルだろうが、どこの国の誰が歌っていようが、流行っていようがマイナーだろうが古かろうが新しかろうが、犯罪者だろうが嫌われ者だろうが、“すき”以外のすべてはどうでもよくなってしまったのだ。一番くだらないのは、世間の評価に合わせて自分にとってのアートを制限したりジャッジしてしまうことだと思っている。
私はチャイナファッションが好きなので「らんま1/2」のような格好をして、コスプレとしてではなく普段着として出掛けている。売っていない物は自分で生地を買ってきて作るし、好きなアーティストのライブやレストランに行くときのドレスコードとしても兼用している。たまに「すげー格好してんな…」とか、「やば…」と聞こえてきて心臓が縮む瞬間もあるけれど、好きなものを我慢して普通のフリをして歩くよりよほどマシである。数えるほどしかないけど呼び止められて褒められたこともあるし、逆に呼び止めて声を掛けたいぶっ飛んだセンスの人を見るようになった。
それも都会へ行けば霞んでしまう。もっと派手で個性的なファッションをした人たちが山ほどいるからだ。名古屋の地下でピンクのロリータを着たおじさんが、まっすぐを前を見て歩いていく姿を見てかっこいいと感じた。あの人は周りが自分をどう見るか、その瞬間に何を思われて何を呟かれているかわかっているはずだ。笑う人もいるだろう。私は尊敬する。
私だってこの田舎で小さく個性を爆発させている。都会で派手な格好ができるのは当然だ。地方ではマイノリティとして扱われている人たちが、都会ではマジョリティとして扱われていて、それをおかしいと感じる人の数も圧倒的に減る。名もない私がこの田舎で個性的でいる為には、都会で同じように振る舞うよりも相当な覚悟がいる。だったら都会へ行けやと思われるかもしれないが、うーん…そうだねぇ…行ってみたいなって思ってる。「それ最高じゃん!」って言い合える仲間が欲しいのは正直なところで、ここにいて言われる言葉のほとんどが「すごい格好だね」だ。これは肯定されているようで否定の言葉だと思っていて、イコール「よくそんな格好で歩けるね」だ。だが、私はそれでいい。むしろ気持ちがいい。仲間が欲しい心細さもあるけれど、年相応の“らしい”ファッションをして周りの景色に同化したくはない。
太っていてもビキニを着たり、おばさんやおばあさんになっても二の腕や脚を出して踊ったり、タンクトップを着て太陽を浴びている海外の女性たちをかっこいいと思うし、日本人もそうなるべきだと思っている。見た目が若いか美しいかどうかが肌を出していい基準だったり、それを性的に消費されることが若さの象徴であったり、年齢や体重でみっともないと揶揄されたり、“年相応”なんてくだらない価値観でファッションの選択肢が小さくなるべきではないと思う。下着や恥部さえ隠れていれば、布一枚をまとうだけでもかっこいいと思うし、みんながパリコレクションみたいなファッションで街を歩けたら楽しいのにと思っている。男性が履くロングスカートは舞台衣装のようでかっこいいし、もっと広まってもいいと思う。
thanks for tonight kobe ! pic.twitter.com/Besdd8UkHX
— björk (@bjork) March 25, 2023
ついこの間、Bjorkという海外アーティストのライブを観るためにひとりで兵庫県へ行ってきた。ライブ会場へ行くといろんな人がファッションでもBjorkのライブを楽しんでいた。Bjorkのコスプレをしている人、グッズを着ている人、曲の世界観を自分なりにファッションで表現している人。私のファッションはどう見えているだろう?誰かの目に止まったりしただろうか?お互いの視線にドキドキした。誰よりもぶっ飛んだ衣装を着ていたのはやはりBjork本人だった。色んなアーティストのライブに行っているけれど、多くの人がアーティストのカラーに合わせてファッションと音楽を楽しんでいる。これがもし日常でも発揮できたなら日本はもっと明るくなる気がする。
なるべくそれなりに保守的に過ごしてきた私が小さく爆発するに至るまでには、幾人もの表現者たちの言葉や生き方や考え方に何度も後押しされてやっと今に辿り着いた。その中で友人や家族、知人の「こうしたら?」は、正直心には響かなかった。彼らは「安定して普通でいられる方法」や「時々日常から少しはみ出して人生を楽しむ方法」を教えてくれた。「普通」でいることだって苦痛と努力を伴うことは十分わかかった上で、私はそれを選択したいとは思わなかった。そしてその「普通」という呪いを解くために多くの時間を要した。けれどこうして気まぐれに文章を書いているだけの自分を俯瞰してみると、きまぐれに小さく個性を楽しんでいるだけの自分自身に対して、まるで至って「普通」過ぎて笑ってしまう。なんだ、つまらん奴だ。私自身の人間性も生き方も、言うほどちっともおもしろくないじゃないか。マインドだけでちっともまだ何もできていない。
ラップバトルにハマっても私自身はバトルしていないし、夫相手に一方的に即興ラップして褒められた後にうざがられ、色んな音楽を聴きながらも自分で曲を作りたいという願望を放棄し続けている。ファッションを自分の生活の範囲内だけで楽しんで、一着でもいいから世の中に向けて勝負する勇気を持てないし、色んなことを批判しておきながら書くことすら気まぐれで、「普通」が嫌だと言うわりにはわりと日々を普通以下で過ごしている。たまに突飛なことをして、特別に生きた気になってそれを思い出としてカメラロールに閉じ込めて、性欲を満たすようにSNSで承認欲求を満たして息が出来たような気になってごまかして生きる日々。つまらん。つまらん奴だ、君は。そのつまらんくだらん生活こそ勇気を出して文章にすべきだ。だが明日も君は私を裏切るだろう。これがラップバトルなら、私は私を一番disってやりたい。マザファッキュー!今、私は君のアンサーを聞きたい。
― 海鷂鳥 ―