クタバレ!専業主婦

仕事と子育て以外やってます。踊ったり、歌ったり、絵を描いたり、服を作ったり、文章を書いたりして生きています。

やりたいことを取るか、将来役に立つことを選ぶか

2023-04-26 01:44:51 | エッセイ

更新が滞ったまま、とうとう40歳になりました。「嫌だ!私は30代の船を降りないぞ!」と、地団駄踏んで泣きました。床に転がってギャーギャー喚いて、まだ精神が追い付いていないだの、見た目もあと数年は30代でも通用するはずだのと時の経過に逆らおうとしましたが、4月19日0時00分にブォー!と汽笛が鳴ると、3人がかりで私は30代の船から引きずり降ろされ、

 

「アキラメロ!オマエ、40サイ!」

 

と吐き捨てられ、船は新しく30代を迎える若者たちを迎えに出向していきました。

 

「わだじどうすればいいのおぉぉおおおおおおおお!!!」

 

顔から出るすべての体液をその場に垂れ流しながら立ち上がれずにいると、すぐさま40代の船が私の目の前に着船しました。

 

「オイ!オマエ!ノレ!40サイ!」

 

その場で足を突っ張って抵抗していると、手足を拘束され頭から黒い布を被せられ無理やり40代の船へと担ぎ込まれました。

 

「ウルサイ!ダマレ!40サイ!イキロ!」

 

誘拐です…拉致です…本人の意思なく、私は40代という未開の地へと連れてこられました。納得いきません。私の心はまるでピュアであります。心のオムツはまだ取れていません。私は一生大人にはなれませんし、なりません。魂に年齢など関係ないのです。とはいえ、私は40歳になりました。おめでとう、私。ありがとう、私。ご愁傷様、私。

 

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昨日まで夫と横浜旅行に行っていました。

 

結局「コレ」というものが見つからないままで新時代を迎えてしまったわけですが、どうも私の中で共通している“すき”が中国であることは確かなのです。

 

子どもの頃に愛知県犬山市の「リトルワールド」で見た中国雑技団の方々が着ていた赤や金のきらびやかなチャイナドレス。それを見て私は、中国の女性の方は全員チャイナドレスを着て生活しているのだと思い込みました。男性はジャッキーチェンのように壁を走れて、年寄りは酔拳で道を歩いていて、真夜中にはお札を貼られたキョンシーが街を徘徊しているのだと思い、もし中国に行ってお札が剥がれた凶暴キョンシーと出くわしてしまったら、果たして自分は何秒間息を止めていられるだろうか…(息を止めている間はキョンシーには見つからない)と、練習したりしていました。

※「来来キョンシーズ」参照

 

 

日本にはまだ侍や忍者がいて、ちょんまげや日本髪を結った人たちが着物で生活していると思い込んでいる外国人と同じです。ある程度の年齢になったときに中国のテレビ中継を見て、

 

「チャイナドレス着てないやん!」

 

と、大変ショックを受けました。それでもやはりチャイナドレスの美しさへの憧れは消えることはありませんでした。私も着たい。見たい。触りたい。どこへ行けば“アレ”が手に入るのか…と考えていました。

 

最初に買ったチャイナドレスはいわゆるコスプレ用の簡易な衣装でしたが、ベルベット生地の本格的な正装用のチャイナドレスも購入しました。けれど、当時はどうしてもコスプレとして認識されることに心が折れてしまい手放してしまいました。今の時代はコスプレもファッションであり表現であり服であることに変わりはなく、装いを恥じることなど一切無いのですが、私はなるべく自分を捨てる努力をして生きてしまいましたので、今になってそんな自分を過去のゴミ捨て場からそっと持ち帰り、今更ながら装うことの喜びを大切にしております。

 

憧れたのは衣服だけではなく、言葉や文化にも興味を持ちました。1984年「西太后」、1989年「続・西太后」、1996年「スワロウテイル」、これらの映画を字幕で見たとき、中国語のリズムと発する音の色っぽさが、話しているというよりは歌っているように聴こえました。好きな曲を覚えるようにして真似して発音してみたかったのですがさっぱり聞き取れず、音を言葉で真似しても再現しようのない発音で、高校の授業で中国語を選択しました。

 

まず「謝謝(ありがとう)」の発音は、“シェイシェイ”ではなく、“シエーシェ”であることを学びました。発声は日本語とも英語ともほど遠く難しく、使ったことのない口の動きをしないと同じ「音」が出せません。それでも一生懸命取り組んだ結果、成績は良好ではありましたが、学校をサボりがちになるとあっという間に転落してしまい、少し触れたただけでその時は終わってしまいました…。

 

何がやりたいのか、何が好きなのか、いまいちよくわからないまま生きて、それでも私の中で心が躍るのは「音楽」と「中国」というふたつのキーワードでした。

 

 

今年に入りたまたまネットで知った「変面ショー」という一瞬で面が何度も変わるという中国の伝統芸能に心を奪われてしまい、その日以来連日連夜「変面ショー」の映像を見続け、夫に「その曲、気が狂いそうだわ…」と言われても、メインテーマである「Mask Chang」という中国語の曲を大音量で延々リピート再生。遂には耳コピだけで歌い始めて、自分の口から出る中国語の“音”に、アドレナリンが怒波!怒波!(ドバドバ)出てしまい、そこから中国語のレッスンの動画を見始めました。高校生の頃に学んだことも思い出しながら、単語や短い文章を真似して発声しています。音を真似ることが好きなのです。

 

ちゃんと話せるようになりたい…と、思いました。

 

けれど、先月Bjorkのライブで神戸へひとりで行ったとき、ライブ会場までの満員電車の中で聞こえてきたご婦人の言葉を思い出して迷ってしまいました。この時点では、自分が得意とする英語を習うつもりで考えていました。

 

「私、K-POPの○○も好きでしょう?彼が話してる言葉と同じ言葉を話したくて、韓国語を習いに行きたいんだけど、家族が“だったら英語を習った方がいい”って言うのよ。英語なら世界で通じるし、英語の方がためになるって。英語が話せれば韓国でも通じるけど、韓国語は他の国では通じないから、将来色んな国へ旅行に行くなら英語の方が役に立つって。でも…役に立つかどうかじゃなくて、私が話したいのは韓国語なのよねぇ…。」

 

私は誰かの助けになろうとか、役に立とうと考えると、心が潰れそうになります。私の中で自分を想うことと、相手を想うことはイコールにならず、どちらかに傾いて疲れたり傷付いてしまうのです。相手に対して称賛や見返りを求めて寂しくなったり、心で相手を責めてしまったり、そんな器の小さな自分のことも同時に責めたりして落ち込んでしまいます。誰かの役に立ちたいし、世間の役に立ちたいと思う一方で、その気持ちで行動すると逆に相手にはtoo muchで迷惑になってしまったり、勝手に疲れてしまったり、反動ですべてを壊してしまうような人間です。私は世間の人たちが一体どういう感覚で、どんな風に折り合いを付けて、疲労と幸福のバランスを保って生きているのかさっぱりわかりません。けれど、役に立つかどうかで“すき”が潰れていくのは、とても悲しいことだと感じました。

 

あのご婦人の声は、まるで私自身の自問自答の声のように聞こえました。迷いがあるのです。自分がやりたいことと、役に立つかどうかの狭間で選択肢は揺れています。どちらが正解とも言い切れない自分がいます。どこかで“意味のある選択をしなければ”という脅迫心に駆られて、選択しようとすることに疲労困憊し、決定することを一旦放棄し、何百キロも道草をくった末にノロノロと戻ってきて、やっとこさ決めるのです。亀の方が私より歩くのが速いはずです。が、時に音速で飛んでいく日もあります。地表をのそのそと歩く亀をその風圧で吹っ飛ばします。大変ややこしい人間です。

 

けれどもう心は決まっているのです。自分のことだけ考えて生きます。私はそれでいいのです。自覚のない所で自分のしたことが結果的に誰かや何かの為になれていたとしたら、私はそれを知らずに生きていくことを幸福と呼びます。

 

― 海鷂鳥 ―