クタバレ!専業主婦

仕事と子育て以外やってます。踊ったり、歌ったり、絵を描いたり、服を作ったり、文章を書いたりして生きています。

40代からはじめられること

2023-05-25 17:50:32 | エッセイ

この記事を書き始める前に一時間弱の休憩をとった。こうして自分のことを文章化することはとても勇気のいることで、それは他者に対しての勇気ではなく自分自身に対しての緊張を意味する。あらゆる感情の層をひとつひとつ超えて、自分の中にある「核」となる自分と対話することになるからだ。それは、どんな出会いよりも、あるいは学校や職場での試験や面接よりも緊張する。

 

まず、私が春までになんとなく自分の中で掲げていた目標は、これからアクションを起こしていくために、身体を整えること、生活リズムを見直すこと、体力をつけること、一ヶ月に身近な人以外の人間に一人でいいから会って、この一年間で12人の他人と会うもしくは新しく出会うことを目標に掲げた。どうせ無理だろうと思った。いつも私を裏切るのは私自身だったし、“どうせお前は”とか、“意味がない”とか、“価値がない”、そういった父からのマイナスな言葉たちが鳴り止まない騒音となって私の脳内を占拠していて、それだけで生きることに何倍もの重力を感じている。

 

2月に夫が海外出張へ行ったのをきっかけに、私は整骨院へ通い始めた。何をするにしてもまずはこの肉体を整えることから始める必要があった。すっかり体力を失ってしまった私は、何をしていても何もしていなくても身体中が重く、痛く、あらゆる不調をぶら下げて生活しており、脳みそにも心にもウジとハエがたかっているような状態だった。

 

掘り下げると小説になってしまいそうなほど書きたいことは山ほどあるが、完結に言ってこの選択がとても良かった。けれど、想像していたのとは180度違った。施術によってまるで魔法のように健康とパワーを手に入れられるはずだと期待していたけれど、実際に必要だったのは自分の努力と継続力といった相当に面倒臭い取り組みだった。ストレッチや簡単なトレーニングを継続して行い、日常の些細な動きや姿勢を意識して変えていくことにを指導をされた。“ご自身の力で健康を取り戻していく”、そういった考えの先生であった。何の根拠もないただ重ねた年齢の分だけ膨れ上がってしまったおごりとプライドを捨てて、取り組んだ。毎日少しの時間でも、旅先でも、疲れていても、成果を感じなくても、言われた通りに見様見真似でトレーニングを重ね、自分の身体と生活を変えていった。

 

4ヶ月経った昨日、私は整骨院を一旦卒業した。実に気持ちのいい終わり方をした。今までの人生、私は人との関係を突然絶ったり、問題を起こしたり、トラブルに巻き込まれたり、そんなことばかりを繰り返してきた。全てが嫌だった。自殺することばかりを夢見た。それでも、しつこく生きてきた。人から見たら何の価値もない、評価もされない、暇でいいわねと思われそうなことでも、自分にとって今必要だと感じることだけに集中している。

 

私の身体は変わった。通い初めの頃とは、鏡を見たら明らかに違う。姿勢が整い、筋力が付き、身体の悪い癖を意識するようになった。おかげで驚くほど動けるようになったし、更なる体力向上のためにやめていた水泳も再開した。生活リズムが整い、視界も意識もクリアになった。昨日先生にお礼のメールを送り、お互いの夢や目標を応援し、また会う日までとさよならをした。私は40歳にして人との関わり方を学んだ。

 

5月中はあらゆる場所へ足を運んだ。気になるものは全て体験レッスンや見学を申し出た。昨日数えたら、目標としていた12人の人に会うという目標をこの1ヶ月で達成してしまった。一気に増えた緊張の連続で心身共に疲労したけれど、私は諦めなかった。休息も挟みつつ、休息し過ぎないことも心がけた。緩んだ時間の隙間に必ず負の思考がぬるっと入ってくる。その穴を埋めるようにしてスケジュールを立てた。

 

・中国語体験レッスン(個人の先生)

・中国語体験レッスン(都会の中国語学校)

・中国語サークルの体験と見学(地元の方々のサークル)

・ピアノ教室の体験レッスン

・英会話の体験レッスン

・オンライン英会話の体験レッスン2回

・ガムランサークルの体験と見学(明日)

 

これらに足を運びつつ、間に独学で始めたギターの練習と、それを持って公園で何度も弾き語りの練習へ出掛けた。その度に声を掛けられ、見知らぬ人の身の上話や、人生の後悔や武勇伝、生活の吐露を聞いた。皆誰しも一見幸せそうに見えるの人ばかりなのに心はどこか孤独であった。そのことが私には不思議に思えた。そして必ず美しい笑顔で互いに手を振って別れた。どこの誰かはお互い告げない、次に偶然会える確率なんてほとんどない、それでもまた会いましょう!と別れた。私は、自分を信じることを強く心に誓った。自分が持つ自分だけの何かが、私の内側に潜むのを確かに感じた。

 

どこへ通うのか、何を学ぶのか、予算はどれぐらいかけられるのか、将来的にどんな可能性があるのか、毎日必死で考えている。闇雲に中国語の勉強を独学で始め、どちらか選べず英語の勉強も並行させている。テキストを買い、Youtubeや教えて頂いた語学アプリを使って勉強する傍らで、世界の人とハガキを交換する“POST CROSSING”というサービスの利用も始めた。まずは中国の方とアメリカの方に、英語でハガキを書いて投函した。そのうち世界の別の誰かから私宛にもハガキが届くシステム。私の言葉や文字や絵が、この地球の日本以外のどこかへ飛んでいく。私もいつか、そこへ行く?毎晩、妄想する。死に方を探す暇はもうない。まずは私の代わりにハガキが国境を越えていく。

 

年に何回か必ず外国人に道や事や物を尋ねられる。大勢の人がいてもなぜか私が選ばれる。去年はフェスに通りかかった5、6人の外国人が当日券で入りたいと声を掛けてきた。その時その場所を歩いていた人の数は、肩がぶつかるほどいたのに。別の日にモールのスーパーで抹茶ラテが飲みたいと声を掛けられた。抹茶椀で飲む抹茶と、ミルクや砂糖を入れて飲む抹茶ラテとはテイストが別なので、好みを聞いて甘くてミルクの入ったものをご紹介した。

 

これまでの人生でも、なぜ私?と思うようなシュチュエーションで外国人に声を掛けられ、その度に簡単な英語と日本語を交えて説明をし、それが通じると胸がときめいた。彼らから聞く日本以外の価値観や考え方やリアクションが素敵で、何度もパワーをもらった。日本人とはちっともうまくやれないのに、外国人との付き合いはとてもシンプルで、語学という壁以外細かいことを気にせずに楽でいられる。私はそこにこれからの人生の可能性を感じている。

 

まだ残っているスケジュールはある。明日ガムランチームの見学に行くのと、別の英会話教室の体験レッスン、別のオンライン英会話の体験レッスンを予定している。6月に入ったらある程度の方向性を決めて、具体的なスケジュールや目標を立てるつもりでいる。本格始動は梅雨明けのタイミングだろうと予想している。

 

そんなにいきなりやって大丈夫か?と普通は思うだろう。だけど私はそんな考えは捨てた。私には私の考えがある。瞬発力がある時は思う存分その力を発揮すべきだと感じている。もし先を案じてエネルギーをセーブしてしまったら、幾つかのチャンスを失ってしまう。気持ちが高まっている瞬間に逃した感情は、時間と共にパワーを失い、やがてめんどくさくなったり、消滅したり、忘れたりしてしまう。「本当にやりたいことなら、時間が経ってもやる気が失せないはずだ!」とか言われそうだけど、本当にやりたいことなら尚更疲れてでもその瞬間にチャレンジすべきだと私は思うし、仮に突然全てのやる気が失せたっていいとさえ思っている。また復活する、それだけ。

 

これは私が私に対する考え。色んな人の色んな考え方や方法があるはずだし、自分が思う自分のやり方や価値観に従うべきだし、かといって相手との違いにお節介な興味の持ち方をするのはタブーだと思っている。その人の考えや姿勢が素敵なら、相手に押し付けなくても人は勝手にそれを真似たり影響されていくものである。

 

私は自分の考え方を英語の先生と共有した。中国や英語圏で生活している人たちの考え方は自分と通ずるものがある。足並みを揃えることを重んじる日本の風潮に自分が40年掛けても順応出来なかった理由がすべてわかった気がした。よく外国人に声を掛けられる理由もわかった。なぜ自分がどんどんと病んでいったのか、そのこともクリアになった。

 

私は「音」がすきだ。歌、楽器、語学、すべてに音の響きと美しさがあって、同じ音を自分の声や演奏で出せた瞬間、脳みそがはち切れそうなほどの興奮を感じる。だから、この中から“すきなこと”と“役に立つこと”の両方を始めることにした。夢や妄想で一日を終え、英語の夢にうなされて目覚める朝を繰り返している。叶わない、叶えられないかもしれない夢や目標を夫に告げる。声に出すことで、脳はその言葉に向かって自然と行動を起こしていくらしい。だから「有言無実行」でも、「いつも口で言っているだけの奴」でもいいのだ。これは確か岡本太郎の本で読んだ内容だった気がする。ひとつでも実行できれば最高だ。

 

語学や音楽はおすすめだ。もし迷ったり苦しんでいる人がいるなら試してみて欲しい。語学と音楽には終わりも正解も間違いもない。うまいへたなんて気にしなくていい。一音でも、一語でも、覚えたり、発したり、通じたり、それだけでいい。何のためとか、意味なんて考えない方がいい。それを考え始めると、どんな素晴らしいことも意味も価値も失ってしまう。何事もいつか意味や価値に変わる。何語だって何音楽だっていいと思う。馬鹿にされたり笑われたり蔑まれたりしても、そんな価値観に傷付かなくていいと思う。そうじゃない価値観を持っている人は絶対にいる。出会えなくても、いる。だからお互いに、「あたりまえ」に負けないで欲しい。

 

— 海鷂鳥 —