2021/5/10
「観光ボランティアガイドを振り返って(ブログの再掲)」 自叙伝・他叙伝 人生を振り返る
以下、2020年9月のブログ再掲です。
観光ボランティアガイド活動と絡めて考えたことを記述していた内容でした。
半年以上も前の記述ですが、ボランティア活動が「いろいろ考える機会になったこと」が文脈を読み返し、自分自身でも認識できました。
「南宗寺」という禅宗寺院について調べたことや、(わが先祖とかかわりがあったかどうかは不明ですが)リアルにあれこれと想像してみたことは楽しいことでした。それで、再掲したくなった次第です。すでに読まれている方もおられると思いますが・・・。
ボランティア活動を終了した現在。再掲をお許しください。
*************************
南宗寺 ガイド担当
2020年9月24日 記(鬼井江)
久しぶりに南宗寺という堺では有名なお寺のボランティアガイドをした。
コロナの影響で、観光客は少ないが、東京から来られたご夫婦ともう一組をガイドした。南宗寺は「麒麟がくる」というNHK大河ドラマでも登場する「三好長慶」が父の元長を弔うために建てたお寺である。南宗寺には、三好一族の墓があり、千利休一族の供養塔もある。また、(伝説の)徳川家康の墓もある寺として、堺では有名な寺。
徳川家康は1615年「大坂夏の陣」で亡くなり、仮埋葬された地が南宗寺という伝説がある。南宗寺に残されている史料には、そのことが書かれている。
一方、教科書では、徳川家康は1616年に駿府(静岡県)で亡くなったと書かれているし、歴史の勉強ではそういう風に教えられている。1年のずれがある。
駿府でてんぷらを食べて食中毒で死んだというのが定説である。しかし、堺市民の一部は、1615年の「夏の陣」の時に亡くなって、南宗寺に一時的に葬られて、のちに遺骨を秘密裏に日光へ移動したという説を信じているのである。
驚くことに、南宗寺域にある建物の床下に徳川家康を埋葬した人物たち(堺の町人たち)の名前まで書かれている史料もある。その史料が、『中島錫胤(なかじまますたね)書論』とのことである。(私自身はその書物を読んでいないのだが)それによると、
『 家康を埋葬する際に、海部屋ら七人の町人が葬り、のちに遺骨を日光に移した・・・・ 』
と記述されているようだ。
海部屋! 「かいふや」という屋号は、私の先祖だから、驚いた。
初代の「海部屋利左衛門(かいふやりざえもん)」なる人は、慶長年間(豊臣秀吉の時代)に阿波(徳島県)から戦国時代の武将、三好一党の商人群として、堺にやってきている。慶長年間=1600年ごろのことだろうと、我が家の過去帳に書かれている。
阿波から堺に来てから、堺の商人として商売している。2代目の海部屋利左衛門は船3艘(幸祝丸・幸明丸・戎丸)を持ち、手広く商売をしたようだ。江戸時代初期のことである。
商っていたものは(中国などから輸入した)薬草らしい。「唐物薬種売買」と書かれているから。また、薬草以外に「糸割符(生糸輸入の仲間)」の権利も与えられている。
ということから、海部屋一族の誰かが、徳川家康が(堺の南宗寺にて)埋葬されるにあたって、三好長慶が立てた寺ゆえに、その役を与えられたのかもしれない。記述内容や過去帳を眺めながら、勝手に想像している次第。
商売人・海部屋利左衛門(おそらく初代、利左衛門)に命じたと考えられる。大坂夏の陣の1615年当時の年齢は、(過去帳に記載された誕生年から推定して)33歳の時と考えられ、働き盛りの頃であるから。
徳島県の海沿いに、海部町という地名の場所がある。たぶん海部町で商売していたので、堺に来ても、屋号は「海部屋」だと名乗ったのだろう。徳島と堺は海でつながっている位置になる。歴史でも証明されているが、堺が繁栄したのは、三好一族が援護していたからである。三好長慶が病死した後、堺は織田信長の圧力に屈して、戦費2万貫(現代のお金にして、約30億円)を(堺商人たちが)織田信長に払っている。払わなければ、堺の町は織田信長によって、焼かれたことであろう。とにかく、三好一族が力をなくした後、織田信長が力をつけてきたことは歴史の定説通りであろう。(NHK大河ドラマ『麒麟がくる』においても、そろそろその時代が放送される予定。)
ちなみに、千利休もほぼ同時代の人だが、千利休は生まれた時の名が、「田中与四郎」。屋号は魚屋(ととや)で、1522年、魚屋(田中家)の長男として生まれている。
祖父が千阿弥という方で、祖父の千を名乗るようになる。禅宗寺院・南宗寺で修業をして、いただいた名が、宗易(そうえき)。青年時代から、田中与四郎から千宗易と名乗るようになった。
満年齢63歳になり、京都・皇居での茶会に際して、千利休居士と名乗ることを天皇から許され、茶会に参加。その後、満年齢69歳の時、秀吉から切腹を命じられた。千利休と名乗って、活躍したのは、たったの6年間だった。1591年に死亡。(享年70歳)
我が先祖の初代・海部屋利左衛門が堺にやってきたのは、千利休が亡くなった頃と推測できる。「同じ堺の商人」として商売したのは、ほぼ同時代ということになる。
天下人・豊臣秀吉の補佐官的立場で活躍した千利休は茶道の第一人者であるとともに、商売においても稼いだことであろう。かたや、海部屋は三好一党に組み入れられて堺に来ているので、三好一党の没落に伴って、それほどでもない商売人になっていったようである。海部屋が没落していった様子が、過去帳からも推測できる。
(ちなみに、私には財産らしいものはまったくない。親の家が太平洋戦争で焼かれてしまってから、わが親は苦労したようである。父は戦地シンガポールで終戦。捕虜となり、帰国が遅れた。母は住むところもなく、転々としたようで、苦労したようだ。敗戦国、日本中のみんなが苦労した時代。帰国した父は大工として働き、なんとか食べてこれたようだ。戦後、昭和23年に私は石川県(母の生まれ故郷)で誕生。父母の苦労が想像できる。
ということで、江戸時代に商売をして少し栄えていた海部屋も、時の流れとともに没落していったようだ。)
(魚屋)千利休生誕地=堺市宿院町 と (海部屋)利左衛門が住んでいた地(堺市市之町)との距離は約300m。当時の堺の中心地であった。
海部屋は薬種や生糸などを扱い、魚屋(ととや)は、海産物・干物などを扱っていたと屋号から推測できる。のちに、千利休は織田信長にかわいがられ、鉄砲の弾なども信長と商売している。その記録が残っているようだ。
なんといっても、堺の商人たちはいろいろなものを商って儲けていたようだ。現代の「商事会社」と言えそうだ。
* ここから続きです。長い文章になっていますが、よろしくお願いいたします。
徳川家康の死亡場所については、約400年以上前の話だから、真実はわかりにくい。
南宗寺にしても、「大坂夏の陣」で堺全体が焼かれている。豊臣側の武将によって、旧堺市内全域(東西1km、南北3kmの地域)放火され、焦土になってしまっている。堺が徳川幕府側に味方したと豊臣側にみなされ、堺の町は焼かれてしまったのである。
現在の堺市を流れている大和川は、江戸時代の中期(1704年頃)に人力で掘られた川(運河のようなもの)で、江戸時代初期には、川はなかった。だから、大坂城から堺の町へは簡単に馬でやってくることができた時代であった。町全体の放火も簡単だったことであろう。(新大和川が完成した1704年以後は紀州街道(大阪と和歌山を結ぶ街道)に一つの橋を架けただけで、新大和川を越えることは難しくなった。その橋以外を馬で渡ることは困難。一つの橋が関所の役割をした。
1615年(大坂夏の陣の年)に堺の町は全滅した。堺のほとんどの寺も焼かれ、南宗寺も焼かれた。南宗寺は移転して再興された場所が、現在の場所なのである。
そういう背景を考えると、歴史は脚色されている場合がある。のちに話が変化していることが結構あるものらしい。
弥生時代や古墳時代の歴史を調べるにつれ、「作られた歴史(うそ)」が結構多いことに気づかされる。大和朝廷に関する歴史は「どうも怪しいぞ!」と思われることが多い。
同じように、中世の戦国時代ごろの歴史も、「勝者の視点」から書かれていることが多く、「敗者の視点」からは少ないようだ。勝者は美化するし、大げさに書こうとするようだ。
南宗寺史に書かれていることが、真実なのかどうかについて、素人の私には疑念がある。一応、「伝説」ということで、ガイドしていますが…。断定はしていない。
歴史には諸説ある。だから、その追求をしていく過程がおもしろい。
徳川家康を埋葬した堺の町人(七人)の一人が「海部屋」と名乗る人物らしいが・・・。それも誰かの作り話かもしれない。
まあ、そうとはいえ、歴史探求はおもしろい。
来月、機会を見て、弥生時代の人骨が300体発見された「土井ヶ浜遺跡」(山口県)や壱岐島(長崎県)の遺跡を見学しに行きたいと思っています。
近年、遺跡巡りにはまってきたようです。コロナが収まってくれることを願っています。
まとめになっていませんが、今回のブログ、了とします。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 】
戦国時代の武将・三好長慶が建立した南宗寺 パンフレット
甘露門という山門と枯山水の庭園 が表紙に
案内図 千利休一族の供養塔 三好長慶などの墓 (伝説の)徳川家康の墓などの配置が分かる。ガイドは約30分~60分かけて丁寧に行っている。
織田信長よりも先に近畿地方一帯をおさえ、「堺幕府」なるものが存在した期間があった。
短期間だったので、あまり取り上げられないが、「三好長慶」を主人公にした大河ドラマを待望している人もいる。そのグループがその運動をしている。
また、千利休を主人公に大河ドラマを、という要望もかなりあるようだ。NHK大河ドラマ制作者もいろいろ全国から要望があるようで、選択するのがたいへんだろう。
太平洋戦争以前の古い写真でわかりにくいが、卵型の石。開山堂(太平洋戦争で焼失)があった場所の床下部分に設置されている。これが、徳川家康を埋葬した位置を示しているようだ。石の高さは約70cm。それほど大きくはない。
こちらの写真も戦前のもの。写真右手には、「東照宮」があった。戦争で焼失したので、現在はない。東照宮があった位置にかなり大きな『徳川家康の墓』(高さ約3メートル)が設置されている。
設置者は、水戸徳川家・初代家老の末裔の方である。この墓設置には、(設置当時の)堺市長・茨城県知事・国務大臣の一人・さらに、(民間人としては)松下幸之助の名前が墓石(の裏)に刻まれている。おそらく松下幸之助氏が多額の寄付をしたと考えられる。
松下幸之助氏は会社創業当初、二股ソケットがあまり売れずに苦労されていた。その時に、家老の末裔の方に大変お世話になったとのことである。家老の末裔の方にいろいろ助けられ、会社を大きくすることができた。その恩返しのつもりもあったらしく、『水戸黄門』のテレビ番組のスポンサーは、長年『ナショナル』一社だけで放送していた。年配の方々はそのことを覚えておられることであろう。
松下幸之助氏は水戸徳川家・初代家老の末裔の方に、大変お世話になっているのである。
先祖の記録である「過去帳」(米軍の堺空爆により家は焼けたが、過去帳は残った。現在、私が保管中。) 表紙に当たる書き出し。
海部屋利左衛門(→後改め・善兵衛) 阿州(阿波=徳島県阿波)海部の人 との記述有。
唐物薬種売買 糸割符 などの記述が読み取れる。
2代目海部屋利左衛門の記録 船3艘で商売していたことが記述されている。
観光ボランティアガイド活動と絡めて考えたことを記述していた内容でした。
半年以上も前の記述ですが、ボランティア活動が「いろいろ考える機会になったこと」が文脈を読み返し、自分自身でも認識できました。
「南宗寺」という禅宗寺院について調べたことや、(わが先祖とかかわりがあったかどうかは不明ですが)リアルにあれこれと想像してみたことは楽しいことでした。それで、再掲したくなった次第です。すでに読まれている方もおられると思いますが・・・。
ボランティア活動を終了した現在。再掲をお許しください。
*************************
南宗寺 ガイド担当
2020年9月24日 記(鬼井江)
久しぶりに南宗寺という堺では有名なお寺のボランティアガイドをした。
コロナの影響で、観光客は少ないが、東京から来られたご夫婦ともう一組をガイドした。南宗寺は「麒麟がくる」というNHK大河ドラマでも登場する「三好長慶」が父の元長を弔うために建てたお寺である。南宗寺には、三好一族の墓があり、千利休一族の供養塔もある。また、(伝説の)徳川家康の墓もある寺として、堺では有名な寺。
徳川家康は1615年「大坂夏の陣」で亡くなり、仮埋葬された地が南宗寺という伝説がある。南宗寺に残されている史料には、そのことが書かれている。
一方、教科書では、徳川家康は1616年に駿府(静岡県)で亡くなったと書かれているし、歴史の勉強ではそういう風に教えられている。1年のずれがある。
駿府でてんぷらを食べて食中毒で死んだというのが定説である。しかし、堺市民の一部は、1615年の「夏の陣」の時に亡くなって、南宗寺に一時的に葬られて、のちに遺骨を秘密裏に日光へ移動したという説を信じているのである。
驚くことに、南宗寺域にある建物の床下に徳川家康を埋葬した人物たち(堺の町人たち)の名前まで書かれている史料もある。その史料が、『中島錫胤(なかじまますたね)書論』とのことである。(私自身はその書物を読んでいないのだが)それによると、
『 家康を埋葬する際に、海部屋ら七人の町人が葬り、のちに遺骨を日光に移した・・・・ 』
と記述されているようだ。
海部屋! 「かいふや」という屋号は、私の先祖だから、驚いた。
初代の「海部屋利左衛門(かいふやりざえもん)」なる人は、慶長年間(豊臣秀吉の時代)に阿波(徳島県)から戦国時代の武将、三好一党の商人群として、堺にやってきている。慶長年間=1600年ごろのことだろうと、我が家の過去帳に書かれている。
阿波から堺に来てから、堺の商人として商売している。2代目の海部屋利左衛門は船3艘(幸祝丸・幸明丸・戎丸)を持ち、手広く商売をしたようだ。江戸時代初期のことである。
商っていたものは(中国などから輸入した)薬草らしい。「唐物薬種売買」と書かれているから。また、薬草以外に「糸割符(生糸輸入の仲間)」の権利も与えられている。
ということから、海部屋一族の誰かが、徳川家康が(堺の南宗寺にて)埋葬されるにあたって、三好長慶が立てた寺ゆえに、その役を与えられたのかもしれない。記述内容や過去帳を眺めながら、勝手に想像している次第。
商売人・海部屋利左衛門(おそらく初代、利左衛門)に命じたと考えられる。大坂夏の陣の1615年当時の年齢は、(過去帳に記載された誕生年から推定して)33歳の時と考えられ、働き盛りの頃であるから。
徳島県の海沿いに、海部町という地名の場所がある。たぶん海部町で商売していたので、堺に来ても、屋号は「海部屋」だと名乗ったのだろう。徳島と堺は海でつながっている位置になる。歴史でも証明されているが、堺が繁栄したのは、三好一族が援護していたからである。三好長慶が病死した後、堺は織田信長の圧力に屈して、戦費2万貫(現代のお金にして、約30億円)を(堺商人たちが)織田信長に払っている。払わなければ、堺の町は織田信長によって、焼かれたことであろう。とにかく、三好一族が力をなくした後、織田信長が力をつけてきたことは歴史の定説通りであろう。(NHK大河ドラマ『麒麟がくる』においても、そろそろその時代が放送される予定。)
ちなみに、千利休もほぼ同時代の人だが、千利休は生まれた時の名が、「田中与四郎」。屋号は魚屋(ととや)で、1522年、魚屋(田中家)の長男として生まれている。
祖父が千阿弥という方で、祖父の千を名乗るようになる。禅宗寺院・南宗寺で修業をして、いただいた名が、宗易(そうえき)。青年時代から、田中与四郎から千宗易と名乗るようになった。
満年齢63歳になり、京都・皇居での茶会に際して、千利休居士と名乗ることを天皇から許され、茶会に参加。その後、満年齢69歳の時、秀吉から切腹を命じられた。千利休と名乗って、活躍したのは、たったの6年間だった。1591年に死亡。(享年70歳)
我が先祖の初代・海部屋利左衛門が堺にやってきたのは、千利休が亡くなった頃と推測できる。「同じ堺の商人」として商売したのは、ほぼ同時代ということになる。
天下人・豊臣秀吉の補佐官的立場で活躍した千利休は茶道の第一人者であるとともに、商売においても稼いだことであろう。かたや、海部屋は三好一党に組み入れられて堺に来ているので、三好一党の没落に伴って、それほどでもない商売人になっていったようである。海部屋が没落していった様子が、過去帳からも推測できる。
(ちなみに、私には財産らしいものはまったくない。親の家が太平洋戦争で焼かれてしまってから、わが親は苦労したようである。父は戦地シンガポールで終戦。捕虜となり、帰国が遅れた。母は住むところもなく、転々としたようで、苦労したようだ。敗戦国、日本中のみんなが苦労した時代。帰国した父は大工として働き、なんとか食べてこれたようだ。戦後、昭和23年に私は石川県(母の生まれ故郷)で誕生。父母の苦労が想像できる。
ということで、江戸時代に商売をして少し栄えていた海部屋も、時の流れとともに没落していったようだ。)
(魚屋)千利休生誕地=堺市宿院町 と (海部屋)利左衛門が住んでいた地(堺市市之町)との距離は約300m。当時の堺の中心地であった。
海部屋は薬種や生糸などを扱い、魚屋(ととや)は、海産物・干物などを扱っていたと屋号から推測できる。のちに、千利休は織田信長にかわいがられ、鉄砲の弾なども信長と商売している。その記録が残っているようだ。
なんといっても、堺の商人たちはいろいろなものを商って儲けていたようだ。現代の「商事会社」と言えそうだ。
* ここから続きです。長い文章になっていますが、よろしくお願いいたします。
徳川家康の死亡場所については、約400年以上前の話だから、真実はわかりにくい。
南宗寺にしても、「大坂夏の陣」で堺全体が焼かれている。豊臣側の武将によって、旧堺市内全域(東西1km、南北3kmの地域)放火され、焦土になってしまっている。堺が徳川幕府側に味方したと豊臣側にみなされ、堺の町は焼かれてしまったのである。
現在の堺市を流れている大和川は、江戸時代の中期(1704年頃)に人力で掘られた川(運河のようなもの)で、江戸時代初期には、川はなかった。だから、大坂城から堺の町へは簡単に馬でやってくることができた時代であった。町全体の放火も簡単だったことであろう。(新大和川が完成した1704年以後は紀州街道(大阪と和歌山を結ぶ街道)に一つの橋を架けただけで、新大和川を越えることは難しくなった。その橋以外を馬で渡ることは困難。一つの橋が関所の役割をした。
1615年(大坂夏の陣の年)に堺の町は全滅した。堺のほとんどの寺も焼かれ、南宗寺も焼かれた。南宗寺は移転して再興された場所が、現在の場所なのである。
そういう背景を考えると、歴史は脚色されている場合がある。のちに話が変化していることが結構あるものらしい。
弥生時代や古墳時代の歴史を調べるにつれ、「作られた歴史(うそ)」が結構多いことに気づかされる。大和朝廷に関する歴史は「どうも怪しいぞ!」と思われることが多い。
同じように、中世の戦国時代ごろの歴史も、「勝者の視点」から書かれていることが多く、「敗者の視点」からは少ないようだ。勝者は美化するし、大げさに書こうとするようだ。
南宗寺史に書かれていることが、真実なのかどうかについて、素人の私には疑念がある。一応、「伝説」ということで、ガイドしていますが…。断定はしていない。
歴史には諸説ある。だから、その追求をしていく過程がおもしろい。
徳川家康を埋葬した堺の町人(七人)の一人が「海部屋」と名乗る人物らしいが・・・。それも誰かの作り話かもしれない。
まあ、そうとはいえ、歴史探求はおもしろい。
来月、機会を見て、弥生時代の人骨が300体発見された「土井ヶ浜遺跡」(山口県)や壱岐島(長崎県)の遺跡を見学しに行きたいと思っています。
近年、遺跡巡りにはまってきたようです。コロナが収まってくれることを願っています。
まとめになっていませんが、今回のブログ、了とします。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 】
戦国時代の武将・三好長慶が建立した南宗寺 パンフレット
甘露門という山門と枯山水の庭園 が表紙に
案内図 千利休一族の供養塔 三好長慶などの墓 (伝説の)徳川家康の墓などの配置が分かる。ガイドは約30分~60分かけて丁寧に行っている。
織田信長よりも先に近畿地方一帯をおさえ、「堺幕府」なるものが存在した期間があった。
短期間だったので、あまり取り上げられないが、「三好長慶」を主人公にした大河ドラマを待望している人もいる。そのグループがその運動をしている。
また、千利休を主人公に大河ドラマを、という要望もかなりあるようだ。NHK大河ドラマ制作者もいろいろ全国から要望があるようで、選択するのがたいへんだろう。
太平洋戦争以前の古い写真でわかりにくいが、卵型の石。開山堂(太平洋戦争で焼失)があった場所の床下部分に設置されている。これが、徳川家康を埋葬した位置を示しているようだ。石の高さは約70cm。それほど大きくはない。
こちらの写真も戦前のもの。写真右手には、「東照宮」があった。戦争で焼失したので、現在はない。東照宮があった位置にかなり大きな『徳川家康の墓』(高さ約3メートル)が設置されている。
設置者は、水戸徳川家・初代家老の末裔の方である。この墓設置には、(設置当時の)堺市長・茨城県知事・国務大臣の一人・さらに、(民間人としては)松下幸之助の名前が墓石(の裏)に刻まれている。おそらく松下幸之助氏が多額の寄付をしたと考えられる。
松下幸之助氏は会社創業当初、二股ソケットがあまり売れずに苦労されていた。その時に、家老の末裔の方に大変お世話になったとのことである。家老の末裔の方にいろいろ助けられ、会社を大きくすることができた。その恩返しのつもりもあったらしく、『水戸黄門』のテレビ番組のスポンサーは、長年『ナショナル』一社だけで放送していた。年配の方々はそのことを覚えておられることであろう。
松下幸之助氏は水戸徳川家・初代家老の末裔の方に、大変お世話になっているのである。
先祖の記録である「過去帳」(米軍の堺空爆により家は焼けたが、過去帳は残った。現在、私が保管中。) 表紙に当たる書き出し。
海部屋利左衛門(→後改め・善兵衛) 阿州(阿波=徳島県阿波)海部の人 との記述有。
唐物薬種売買 糸割符 などの記述が読み取れる。
2代目海部屋利左衛門の記録 船3艘で商売していたことが記述されている。
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タグ: ガイドを終えて
2021/4/30
「ブログのスタートは15年前だった。」 自叙伝・他叙伝 人生を振り返る
ブログのスタートは2006年2月17日でした。
スタートしたときのブログ名『鬼井江の世界』でした。まだ現役の時代でした。以下、そのブログの再掲です。
何年か後の退職後に向けて
(投稿日: 2006年2月17日 作成者: 鬼井江)
何年か後に退職したら、旅行記を書こうと思っている。うまくかけないかもしれないが、わかりやすい文章になるように心がけたい。松尾芭蕉が旅行を好んだように、私も残りの人生を旅行で楽しみたいと思っている。目的がはっきりしない旅行をしたいと思っている。それにはロングステイという形が一番現代的である。豪華なホテルではなく、経済的なホテルで10日間ほど過ごす。過ごすことによって何かを感じ、何かを書きたくなる。書きたいことを書くということは、幸せなことだ。だから、旅行をすることは「生きる」ことだともいえる。人生は旅のようなものだと松尾芭蕉は考えていた。芭蕉のように深く考えている私ではないが、ロングステイという形の旅で「したいこと」「書きたいこと」に出会うことができるような気がする。だから何年か後の退職後が楽しみだ。退職後の退職年金としてもらえるお金は少ないが、少ないお金でもロングステイを楽しむことができるらしい。私は、お酒を飲めないし、いい車に乗りたいという希望もないし、住んでいる家は今の古くて狭いマンションで十分だと思っているので、使えるお金はすべて旅行費用に回そうと思っている。いくらぐらい回せるかは退職後の年金をもらってみないと分からないが、質素なロングステイならば何とか実現できるような気がしている。今も質素な生活をしているので、仕事を辞めても今とあまり変わらない感覚で生活できるのではないかと期待している。
******************
以上が、最初のブログで書かれていた内容であった。
この文章をスタートにブログ『鬼井江の世界』が始まっていた。15年も前に、何を書いたのかすっかり忘れていたが、今回、柏獅子さんからいただいた質問がきっかけで、調べることができた。
「そうか、15年前に、こんなことを書いていたのか・・・」と、「15年前の自分に出会うことができた」気分になった。柏獅子さんに感謝します。
最初のブログ管理会社が、ブログ管理をやめてしまったので、無料で使える新しい会社に移ったのが、2010年だった。
現在の管理会社は「teacup(ティーカップ)」という会社である。一応、長年つぶれずに管理運営してくれている。おかげで『鬼井江の世界(リニューアル)』は消えることなく、ネット上に存在している。
「teacup」がいつまでも存在してほしいものです。もし、つぶれてしまったら、私のブログもどうなるかな? おそらく完全には消えないだろうが、ネットでの検索は難しくなるだろう。
旧ブログ『鬼井江の世界』の内容をネットで見つけにくい。たぶん、倒産した会社が管理しているブログ内容は、見つけにくいからだろう。ヤフーで『鬼井江の世界』を検索しても見つけにくい。『鬼井江の世界(リニューアル)』はすぐに見つかるのだが・・・。
今回、10年前のブログ・15年前のブログを再読することができて、つくづく「ブログって便利だなあ!」と思いました。
ちなみに、旧ブログ『鬼井江の世界』は、ネット上には(文章だけは)残っているようです。写真は省かれてしまいました。(残念な思いです。)
ブログを始める人は、大手の会社がいいかもしれません。
もっとも、私は慣れている「teacup」をいつまでも(会社がある限り)使用し続けるつもりです。
人生=旅
私が達成したことは、「東海道五十三次歩き旅」を達成したことです。
江戸・日本橋で出迎えてくれたのは、柏獅子さんでした。あの日の感激・達成感は、「人生の宝」の一つです。
これといった詩や小説を書けないままに人生を終えるかもしれませんが、ブログは続けようと思っています。ブログは「認知症対策」にもなることでしょう。
コロナの影響で、歩き旅は(中山道の約半分のままで)休止したままになっていますが、いつか再開できることでしょう。ワクチンを打って、歩き旅をしたい!
スタートしたときのブログ名『鬼井江の世界』でした。まだ現役の時代でした。以下、そのブログの再掲です。
何年か後の退職後に向けて
(投稿日: 2006年2月17日 作成者: 鬼井江)
何年か後に退職したら、旅行記を書こうと思っている。うまくかけないかもしれないが、わかりやすい文章になるように心がけたい。松尾芭蕉が旅行を好んだように、私も残りの人生を旅行で楽しみたいと思っている。目的がはっきりしない旅行をしたいと思っている。それにはロングステイという形が一番現代的である。豪華なホテルではなく、経済的なホテルで10日間ほど過ごす。過ごすことによって何かを感じ、何かを書きたくなる。書きたいことを書くということは、幸せなことだ。だから、旅行をすることは「生きる」ことだともいえる。人生は旅のようなものだと松尾芭蕉は考えていた。芭蕉のように深く考えている私ではないが、ロングステイという形の旅で「したいこと」「書きたいこと」に出会うことができるような気がする。だから何年か後の退職後が楽しみだ。退職後の退職年金としてもらえるお金は少ないが、少ないお金でもロングステイを楽しむことができるらしい。私は、お酒を飲めないし、いい車に乗りたいという希望もないし、住んでいる家は今の古くて狭いマンションで十分だと思っているので、使えるお金はすべて旅行費用に回そうと思っている。いくらぐらい回せるかは退職後の年金をもらってみないと分からないが、質素なロングステイならば何とか実現できるような気がしている。今も質素な生活をしているので、仕事を辞めても今とあまり変わらない感覚で生活できるのではないかと期待している。
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以上が、最初のブログで書かれていた内容であった。
この文章をスタートにブログ『鬼井江の世界』が始まっていた。15年も前に、何を書いたのかすっかり忘れていたが、今回、柏獅子さんからいただいた質問がきっかけで、調べることができた。
「そうか、15年前に、こんなことを書いていたのか・・・」と、「15年前の自分に出会うことができた」気分になった。柏獅子さんに感謝します。
最初のブログ管理会社が、ブログ管理をやめてしまったので、無料で使える新しい会社に移ったのが、2010年だった。
現在の管理会社は「teacup(ティーカップ)」という会社である。一応、長年つぶれずに管理運営してくれている。おかげで『鬼井江の世界(リニューアル)』は消えることなく、ネット上に存在している。
「teacup」がいつまでも存在してほしいものです。もし、つぶれてしまったら、私のブログもどうなるかな? おそらく完全には消えないだろうが、ネットでの検索は難しくなるだろう。
旧ブログ『鬼井江の世界』の内容をネットで見つけにくい。たぶん、倒産した会社が管理しているブログ内容は、見つけにくいからだろう。ヤフーで『鬼井江の世界』を検索しても見つけにくい。『鬼井江の世界(リニューアル)』はすぐに見つかるのだが・・・。
今回、10年前のブログ・15年前のブログを再読することができて、つくづく「ブログって便利だなあ!」と思いました。
ちなみに、旧ブログ『鬼井江の世界』は、ネット上には(文章だけは)残っているようです。写真は省かれてしまいました。(残念な思いです。)
ブログを始める人は、大手の会社がいいかもしれません。
もっとも、私は慣れている「teacup」をいつまでも(会社がある限り)使用し続けるつもりです。
人生=旅
私が達成したことは、「東海道五十三次歩き旅」を達成したことです。
江戸・日本橋で出迎えてくれたのは、柏獅子さんでした。あの日の感激・達成感は、「人生の宝」の一つです。
これといった詩や小説を書けないままに人生を終えるかもしれませんが、ブログは続けようと思っています。ブログは「認知症対策」にもなることでしょう。
コロナの影響で、歩き旅は(中山道の約半分のままで)休止したままになっていますが、いつか再開できることでしょう。ワクチンを打って、歩き旅をしたい!
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2021/4/29
「10年前を振り返って」 自叙伝・他叙伝 人生を振り返る
10年前の4月ごろはどうしていたのだろうか? 何を考えていたのだろうか?
と、ふと思って、2011年4月25日のブログを読み返してみた。
「ブログは過去を振り返るのに便利だなあ・・・」と思った。
以下、10年前のブログの再掲です。
家庭菜園検定試験(2級)の合格通知が届いたころの様子を思い出すことができた。
ブログ(公開日記)のおかげで、10年前を思い出すことができました。手書きの日記もいいですが、ブログもいいものですね。
2011年4月25日 記
【 家庭菜園検定試験(2級)の結果が届いた。合格していた。2回目の受験で合格できてよかった。趣味の世界の検定試験とはいえ、やはり合格するとうれしい! 去年は(49点で)1点足らずの不合格だった試験。去年の4月は残念な思いをしたが、今年は満足な結果であった。ちなみに、今年の結果は63点(満点70点)であった。
1級は受験予定をしていない。あまりにも難しすぎるので、2級に合格できただけで十分満足している。
試験に合格できた人が「野菜作りがうまい」とは限らない。野菜作りはなんといっても経験がものをいう世界である。3年ぐらいの経験では、未熟も未熟。野菜作りのベテランはみんなすごく上手なので、いつもアドバイスをいただいている。
とにかく、家庭菜園検定試験の「受験勉強」は今年で終わった。一区切りついた。
今日のニュースによると、若くして乳癌で亡くなられた有名人(歌手・女優)のお葬式があった。
自分より若い方が亡くなると、死について意識させられる度合いが大きい。
自分が死ぬ日は誰にもわからない。わからないからいいのだろう。わかっていたら、その恐怖に耐えられないことであろう。人間は必要以上にあれこれと想像してしまい、苦しみ・不安の悪循環に陥っていく存在であるから。永遠に死なないという人間もいない。永遠に死なないということは、死以上に恐ろしいことであろう。とにかく、死は誰にもやってくる。これは永遠の事実である。
突然発症する病気があるように、死も突然やってくるかもしれない・・・。その日がやってくるまで、一日一日を感謝して生きていこう。 】
以上、10年前のブログの転載です。
と、ふと思って、2011年4月25日のブログを読み返してみた。
「ブログは過去を振り返るのに便利だなあ・・・」と思った。
以下、10年前のブログの再掲です。
家庭菜園検定試験(2級)の合格通知が届いたころの様子を思い出すことができた。
ブログ(公開日記)のおかげで、10年前を思い出すことができました。手書きの日記もいいですが、ブログもいいものですね。
2011年4月25日 記
【 家庭菜園検定試験(2級)の結果が届いた。合格していた。2回目の受験で合格できてよかった。趣味の世界の検定試験とはいえ、やはり合格するとうれしい! 去年は(49点で)1点足らずの不合格だった試験。去年の4月は残念な思いをしたが、今年は満足な結果であった。ちなみに、今年の結果は63点(満点70点)であった。
1級は受験予定をしていない。あまりにも難しすぎるので、2級に合格できただけで十分満足している。
試験に合格できた人が「野菜作りがうまい」とは限らない。野菜作りはなんといっても経験がものをいう世界である。3年ぐらいの経験では、未熟も未熟。野菜作りのベテランはみんなすごく上手なので、いつもアドバイスをいただいている。
とにかく、家庭菜園検定試験の「受験勉強」は今年で終わった。一区切りついた。
今日のニュースによると、若くして乳癌で亡くなられた有名人(歌手・女優)のお葬式があった。
自分より若い方が亡くなると、死について意識させられる度合いが大きい。
自分が死ぬ日は誰にもわからない。わからないからいいのだろう。わかっていたら、その恐怖に耐えられないことであろう。人間は必要以上にあれこれと想像してしまい、苦しみ・不安の悪循環に陥っていく存在であるから。永遠に死なないという人間もいない。永遠に死なないということは、死以上に恐ろしいことであろう。とにかく、死は誰にもやってくる。これは永遠の事実である。
突然発症する病気があるように、死も突然やってくるかもしれない・・・。その日がやってくるまで、一日一日を感謝して生きていこう。 】
以上、10年前のブログの転載です。
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2020/5/16
「清風南海学園 図書館報第23号より」 自叙伝・他叙伝 人生を振り返る
以下、2008年(平成20年)2月に発行された図書館報の記事の転載です。
* 過去にいろいろ書いてきた文章などを「断捨離」しています。今後、いくつかをブログに転載した後、現物(本・冊子・写真・文章など)を処分していく予定です。転載作業をしつつ人生を振り返ろうと思います。
『20年目に流れた涙』 中村英治
私の教え子が1年前に刊行した本(本校の図書館にもあります)を紹介したいと思います。2007年2月に文芸社より刊行された『涙の雨』(友平有姫著)という本です。重度の鬱(うつ)病に苦しみぬいた教え子の心の軌跡が、私の心に響いた本です。手にすると、一気に読んでしまいました。彼女はこの本を刊行することに、きっと大きな戸惑いを感じたことでしょう。しかし、「刊行されてよかった」と思った人として、まず私がいることを、青春を苦しんできた彼女に伝えたいと思います。
この本の内容である「鬱病の告白」は、一般になかなかしにくいものです。自分のマイナス面をさらけ出すわけですから。この著者を担任したのは、この清風南海学園でのことではなく、以前に勤めていた学校でのことです。私が40歳ごろ(もうすぐ私は60歳です)だったと思います。著者が、すでに中学時代から「顔は笑っていても、心は泣いている」のだとは、私にはわかりませんでした。何かサインを送ってくれていたのかもしれませんが、その当時の私は気づきませんでした。私の心が教師(担任でありながら)としては鈍くて、彼女の苦しみを推し量れなかったのです。
「こんなに苦しんでいたんだなぁ……」と気づいたのは、この本を読んだからです。20年目にして、やっと「生徒の心」を理解することができたのです。教師という仕事の難しさを自覚させられました。しかし、彼女がこの本のあるページに「私の傷ついた心に一筋の光を与えてくれた中村先生には今でも心から感謝している。」と書かれていることに、びっくりしました。そして、うれしく思いました。20年目にして、涙が流れました。私は(自覚としては)何もしてやれなかったのに……と思いつつ、このページにはジーンとくるものがありました。
人間とは罪深い存在だと思います。「良かれ」と思ってしていることが、逆に相手を傷つけていることがあるからです。私は「感受性」の大切さを言い続けてきました。それは、自分に言い聞かせるためでもありました。「感受性」という言葉を、はっきりとして自覚し始めたのは、たしか大阪ガスの工場を見学してからです。工場の門に、垂れ幕として「感受性」が掲げられているのを見たことがきっかけになりました。ガス会社が、この言葉を大切にして仕事をしているのだなあ、と感動したのでした。
感受性の鈍い人間は罪深い存在だと思います。まわりの人間の「感受性無き行為」「感受性無き言葉」が、今回紹介した本の著者の心をぼろぼろにしていったのだと思います。こういうことは私たちの身の周りにもあることでしょう。一人でも多くの若者たちが、感受性豊かな人間となり、「共感共生」できる人間の集まりになってくれることを願っています。そのためには、まず私自身が「感受性豊かな人間」になるように、気をつけて生きていきます。それが、この本刊行へのお返しになると信じつつ……。残り少ない教師生活になりましたが、教師を辞めても「生徒の心」を大切に生きていきたいと思っています。
(以上、満59歳・2008年2月 退職直前の頃に書いていた文章です。)
涙の雨(友平有姫著)
* 過去にいろいろ書いてきた文章などを「断捨離」しています。今後、いくつかをブログに転載した後、現物(本・冊子・写真・文章など)を処分していく予定です。転載作業をしつつ人生を振り返ろうと思います。
『20年目に流れた涙』 中村英治
私の教え子が1年前に刊行した本(本校の図書館にもあります)を紹介したいと思います。2007年2月に文芸社より刊行された『涙の雨』(友平有姫著)という本です。重度の鬱(うつ)病に苦しみぬいた教え子の心の軌跡が、私の心に響いた本です。手にすると、一気に読んでしまいました。彼女はこの本を刊行することに、きっと大きな戸惑いを感じたことでしょう。しかし、「刊行されてよかった」と思った人として、まず私がいることを、青春を苦しんできた彼女に伝えたいと思います。
この本の内容である「鬱病の告白」は、一般になかなかしにくいものです。自分のマイナス面をさらけ出すわけですから。この著者を担任したのは、この清風南海学園でのことではなく、以前に勤めていた学校でのことです。私が40歳ごろ(もうすぐ私は60歳です)だったと思います。著者が、すでに中学時代から「顔は笑っていても、心は泣いている」のだとは、私にはわかりませんでした。何かサインを送ってくれていたのかもしれませんが、その当時の私は気づきませんでした。私の心が教師(担任でありながら)としては鈍くて、彼女の苦しみを推し量れなかったのです。
「こんなに苦しんでいたんだなぁ……」と気づいたのは、この本を読んだからです。20年目にして、やっと「生徒の心」を理解することができたのです。教師という仕事の難しさを自覚させられました。しかし、彼女がこの本のあるページに「私の傷ついた心に一筋の光を与えてくれた中村先生には今でも心から感謝している。」と書かれていることに、びっくりしました。そして、うれしく思いました。20年目にして、涙が流れました。私は(自覚としては)何もしてやれなかったのに……と思いつつ、このページにはジーンとくるものがありました。
人間とは罪深い存在だと思います。「良かれ」と思ってしていることが、逆に相手を傷つけていることがあるからです。私は「感受性」の大切さを言い続けてきました。それは、自分に言い聞かせるためでもありました。「感受性」という言葉を、はっきりとして自覚し始めたのは、たしか大阪ガスの工場を見学してからです。工場の門に、垂れ幕として「感受性」が掲げられているのを見たことがきっかけになりました。ガス会社が、この言葉を大切にして仕事をしているのだなあ、と感動したのでした。
感受性の鈍い人間は罪深い存在だと思います。まわりの人間の「感受性無き行為」「感受性無き言葉」が、今回紹介した本の著者の心をぼろぼろにしていったのだと思います。こういうことは私たちの身の周りにもあることでしょう。一人でも多くの若者たちが、感受性豊かな人間となり、「共感共生」できる人間の集まりになってくれることを願っています。そのためには、まず私自身が「感受性豊かな人間」になるように、気をつけて生きていきます。それが、この本刊行へのお返しになると信じつつ……。残り少ない教師生活になりましたが、教師を辞めても「生徒の心」を大切に生きていきたいと思っています。
(以上、満59歳・2008年2月 退職直前の頃に書いていた文章です。)
涙の雨(友平有姫著)
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2020/4/1
「人生を振り返って」 自叙伝・他叙伝 人生を振り返る
やや高齢になり、人生を振り返る。残りの日々を大切に生きていくために。
詩や小説を書きたい思いで過ごしてきましたが、文才のなさゆえに・・・まったく何も書けていません。以下、12年ほど前の思い(詩)を読み返していますが・・・
*********************************
詩への片思い・小説への片思い
鬼井江
私の書いた詩が
あなたの心にとどまるとき
詩の中にいる言霊(ことだま)が私の存在をあなたの心に宿らせる
そう、それは
私の言いたかったことがあなたに伝わるときがやってきたのだ
普通の言葉では伝わらなかったことが
詩が伝えてくれたのだ!
私の書いた小説が
あなたの心をゆさぶるとき
小説の中にいる言霊が私の存在とあなたの心を共振させる
そう、それは
私の人生でこみ上げてきた激情があなたに伝わるときがやってきたのだ
普通の言葉では伝わらなかったことが
小説が伝えてくれたのだ!
そんな詩や小説が書けることを夢にみて
今もどこかを放浪している
*********************************
以上、過去に書いた詩。
人生は旅。畑中心の定着生活が続いているが、心は「放浪」している。
下手な詩や駄文を時々書いて、自分の人生を振り返っている。
反省の多い日々が過ぎていく・・・
詩や小説を書きたい思いで過ごしてきましたが、文才のなさゆえに・・・まったく何も書けていません。以下、12年ほど前の思い(詩)を読み返していますが・・・
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詩への片思い・小説への片思い
鬼井江
私の書いた詩が
あなたの心にとどまるとき
詩の中にいる言霊(ことだま)が私の存在をあなたの心に宿らせる
そう、それは
私の言いたかったことがあなたに伝わるときがやってきたのだ
普通の言葉では伝わらなかったことが
詩が伝えてくれたのだ!
私の書いた小説が
あなたの心をゆさぶるとき
小説の中にいる言霊が私の存在とあなたの心を共振させる
そう、それは
私の人生でこみ上げてきた激情があなたに伝わるときがやってきたのだ
普通の言葉では伝わらなかったことが
小説が伝えてくれたのだ!
そんな詩や小説が書けることを夢にみて
今もどこかを放浪している
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以上、過去に書いた詩。
人生は旅。畑中心の定着生活が続いているが、心は「放浪」している。
下手な詩や駄文を時々書いて、自分の人生を振り返っている。
反省の多い日々が過ぎていく・・・
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