2022/4/28
「50年ほど前の記憶 ウトロ港から羅臼港へ」 旅行記録
大学生のころ(50年ほど前だった)、「北海道周遊券」という切符が発売されていた時代だった。
友人のサンドラブログさんと二人で、北海道のほぼ一周旅行をした記憶があります。
北は、稚内のノシャップ岬の灯台の下でテントを張って過ごしたことを覚えています。そして、利尻島へフェリーで渡り、利尻山(標高1721m)登山をしたことも記憶にあります。
どちらかといえば、走ったり登山をしたりすることが苦手な私。(一方、サンドラブロクさんは登山が得意だったようです。)登山が苦手な私でしたが、サンドラさんに励まされつつ、頂上まで登ることができました。
利尻富士の登山口(バス停で降りたところ)は海抜0mの海岸でした。標高1721mをすべて歩いて登った山でした。頂上から利尻島の周りすべてを見回すことができました。富士山に似た形の山だったので、「利尻富士」とも呼ばれている山です。
「利尻富士」がテレビなどで取り上げられていると、つい、若かりし日を思い出しています。
利尻島登山を終えた後、礼文島にもわたり、「桃岩」という高原植物の美しい丘を散策したように思います。「桃岩」からの利尻富士は素晴らしい眺めでした。
稚内へ戻った後、(現在、毎日ニュースで取り上げられている)知床半島のウトロ港へ行ったように記憶しています。(大学時代の写真など、引っ越しが多かったせいか、紛失してしまって・・・。記憶を手掛かりにして思い出しています。)
ウトロ港から羅臼港への遊覧船に乗りました。早朝から切符を手に入れるために並んだことを覚えています。(遊覧船に乗れる人数は決まっており、早朝から並ぶ必要がありました。切符を買えなかったら、旅行コースがうまくいかなくなるので、心配でした。おそらく午前5時ごろから並んだように思います。)
現在、ウトロ港から羅臼港行きの遊覧船は運航されているかどうかは知りません。たぶん、利用者が少ないので、運航されていないのだと思います。
現在は、ウトロ港発・ウトロ港着の遊覧船のみになっているように思われます。ウトロ港から一番遠く(知床半島先端部)へ行くコースや、先端部までいかないで、途中で引き返すコースなどの遊覧船が運航されているようです。
(先日、沈没した遊覧船が一日でも早く発見されることを祈っております。
私個人の感想としては、「海を甘く見た結果の事故」だったように感じています。『儲け』が先走ったのでしょう。しっかりとしたお詫び、反省、補償は当然のことでしょう。)
(4月30日現在、船体は知床半島西部海域の水深120mの海底で発見されているが、乗客・乗員の全員は見つかっていない。海流・潮流に流されている状況らしい。国後島方面へ流されて発見された人もいるとのニュースあり。海流・潮流など、海は恐ろしい。一日も早く全員が発見されるようにと祈っています。)
*ここからブログの続きです。
ウトロ港から知床岬までの海岸線は、まさに「絶壁の連続」だったように覚えています。知床が「世界自然遺産」に認定されてから、観光客が激増していったようです。私が大学生だったころは、「世界遺産」に認定されていなかったのですが、それでも、人気のある観光地でした。
夏休み中だったので、(知床観光の旅行者は多く)早朝から並んで遊覧船の切符を手に入れることができ、「絶壁の連続」を見ることができました。絶壁は全国いろいろなところで見ることができますが、「絶壁の連続」は、(私が見てきた場所の中では)知床が№1だと思っています。すごい絶壁でしたね。(ちなみに、№2は三陸海岸の「北山崎」周辺だと思います。遊覧船からの眺めとして、素晴らしいところですね。)
私が乗ったウトロ港発羅臼(ラウス)港行きの遊覧船は、知床岬を回った後、羅臼港までの眺めは(絶景はなくなり)のんびりとした風景でした。国後島が見えていたようですが、はっきりと覚えていません。
羅臼港に到着後、港の近くに「ひかりごけ」のある洞窟があるとのことで、その見学をしに行きました。戦後派作家の武田泰淳作の『ひかりごけ』を読み、影響を受けていたころだったので、「ひかりごけ」という苔を実際に見てみたかったのです。薄暗い時に苔が光っているように見えるようでしたが、私が見に行った時刻は昼だったので、よくわかりませんでした。光っている苔の存在をしっかり認識できなかったことを覚えています。残念な思いをした「羅臼訪問」でした。
この『ひかりごけ』という作品は、「船が遭難し、飢えた人間が死亡した人の肉を食べることによって生きることができた事件を題材にした小説」で、人間の生と死、罪について、考えさせられる名作です。現在、人気作家ではなくなりましたが、私が大学生のころは人気作家の一人でした。ちなみに、私は椎名麟三という戦後派作家の影響を受け、大学の卒業論文も椎名麟三について書きました。
論文そのものは評価の低いものでしたが、椎名麟三・武田泰淳・遠藤周作・トルストイ・ドストエフスキー・ヤスパース・キルケゴールなどの書物は、高校時代・大学時代のころによく読んだものでした。キルケゴールの『死に至る病』は、特に心を揺さぶられました。
羅臼町の「ひかりごけ洞窟」を見学後、釧路方面へ向かったように記憶しています。そして、「厚内」という駅が、乗車した列車の終着駅だったように記憶しています。
その駅前でテントを張り、眠ったのを覚えています。朝になったら、テントの近くを人がぞろぞろと歩いていくので、テントの外に出てみたら、通勤路の近くにテントを張っていたことに気が付きました。通る人みんながテントをじろじろ見ながら通るので、恥ずかしくなり、急いでテントをたたんだことを覚えています。
(普通、こんなところにテントは張らないだろう?!) と、じろじろ見られていたようです。
若さゆえの行動だったようです。「厚内」という駅に、あれから後、訪れたことはないのですが、一度行ってみたい気もしています。
この後、列車で大阪に戻ったのですが、具体的にどのルートで帰ったのかは、まったく思い出せないのです。同行したサンドラブログさんなら、覚えているかもしれません。機会があったら、この時のことを話題にしてみたいと思っています。
サンドラブロクさん、記憶している内容は違うかもしれませんが、思い出したことがあれば、よろしくね。
「記憶」はあまりあてになりませんね。でも、「記憶」は大切にしたいものです。
(今回のブログ、「ウトロ港」に関連して、(大学時代の)北海道旅行の記憶を手掛かりに書いてみました。北海道へは、(学校行事=下見や引率、それに旅行などで延べ10回ほど行っています。一番印象深いところは「神威岬(かむいみさき)」という灯台のある地です。好きな地なので、3回訪れています。初めて訪れたときは、寂れた行きにくい地でした。現在は遊歩道が整備され、観光客がたくさん訪れる地になっています。)
友人のサンドラブログさんと二人で、北海道のほぼ一周旅行をした記憶があります。
北は、稚内のノシャップ岬の灯台の下でテントを張って過ごしたことを覚えています。そして、利尻島へフェリーで渡り、利尻山(標高1721m)登山をしたことも記憶にあります。
どちらかといえば、走ったり登山をしたりすることが苦手な私。(一方、サンドラブロクさんは登山が得意だったようです。)登山が苦手な私でしたが、サンドラさんに励まされつつ、頂上まで登ることができました。
利尻富士の登山口(バス停で降りたところ)は海抜0mの海岸でした。標高1721mをすべて歩いて登った山でした。頂上から利尻島の周りすべてを見回すことができました。富士山に似た形の山だったので、「利尻富士」とも呼ばれている山です。
「利尻富士」がテレビなどで取り上げられていると、つい、若かりし日を思い出しています。
利尻島登山を終えた後、礼文島にもわたり、「桃岩」という高原植物の美しい丘を散策したように思います。「桃岩」からの利尻富士は素晴らしい眺めでした。
稚内へ戻った後、(現在、毎日ニュースで取り上げられている)知床半島のウトロ港へ行ったように記憶しています。(大学時代の写真など、引っ越しが多かったせいか、紛失してしまって・・・。記憶を手掛かりにして思い出しています。)
ウトロ港から羅臼港への遊覧船に乗りました。早朝から切符を手に入れるために並んだことを覚えています。(遊覧船に乗れる人数は決まっており、早朝から並ぶ必要がありました。切符を買えなかったら、旅行コースがうまくいかなくなるので、心配でした。おそらく午前5時ごろから並んだように思います。)
現在、ウトロ港から羅臼港行きの遊覧船は運航されているかどうかは知りません。たぶん、利用者が少ないので、運航されていないのだと思います。
現在は、ウトロ港発・ウトロ港着の遊覧船のみになっているように思われます。ウトロ港から一番遠く(知床半島先端部)へ行くコースや、先端部までいかないで、途中で引き返すコースなどの遊覧船が運航されているようです。
(先日、沈没した遊覧船が一日でも早く発見されることを祈っております。
私個人の感想としては、「海を甘く見た結果の事故」だったように感じています。『儲け』が先走ったのでしょう。しっかりとしたお詫び、反省、補償は当然のことでしょう。)
(4月30日現在、船体は知床半島西部海域の水深120mの海底で発見されているが、乗客・乗員の全員は見つかっていない。海流・潮流に流されている状況らしい。国後島方面へ流されて発見された人もいるとのニュースあり。海流・潮流など、海は恐ろしい。一日も早く全員が発見されるようにと祈っています。)
*ここからブログの続きです。
ウトロ港から知床岬までの海岸線は、まさに「絶壁の連続」だったように覚えています。知床が「世界自然遺産」に認定されてから、観光客が激増していったようです。私が大学生だったころは、「世界遺産」に認定されていなかったのですが、それでも、人気のある観光地でした。
夏休み中だったので、(知床観光の旅行者は多く)早朝から並んで遊覧船の切符を手に入れることができ、「絶壁の連続」を見ることができました。絶壁は全国いろいろなところで見ることができますが、「絶壁の連続」は、(私が見てきた場所の中では)知床が№1だと思っています。すごい絶壁でしたね。(ちなみに、№2は三陸海岸の「北山崎」周辺だと思います。遊覧船からの眺めとして、素晴らしいところですね。)
私が乗ったウトロ港発羅臼(ラウス)港行きの遊覧船は、知床岬を回った後、羅臼港までの眺めは(絶景はなくなり)のんびりとした風景でした。国後島が見えていたようですが、はっきりと覚えていません。
羅臼港に到着後、港の近くに「ひかりごけ」のある洞窟があるとのことで、その見学をしに行きました。戦後派作家の武田泰淳作の『ひかりごけ』を読み、影響を受けていたころだったので、「ひかりごけ」という苔を実際に見てみたかったのです。薄暗い時に苔が光っているように見えるようでしたが、私が見に行った時刻は昼だったので、よくわかりませんでした。光っている苔の存在をしっかり認識できなかったことを覚えています。残念な思いをした「羅臼訪問」でした。
この『ひかりごけ』という作品は、「船が遭難し、飢えた人間が死亡した人の肉を食べることによって生きることができた事件を題材にした小説」で、人間の生と死、罪について、考えさせられる名作です。現在、人気作家ではなくなりましたが、私が大学生のころは人気作家の一人でした。ちなみに、私は椎名麟三という戦後派作家の影響を受け、大学の卒業論文も椎名麟三について書きました。
論文そのものは評価の低いものでしたが、椎名麟三・武田泰淳・遠藤周作・トルストイ・ドストエフスキー・ヤスパース・キルケゴールなどの書物は、高校時代・大学時代のころによく読んだものでした。キルケゴールの『死に至る病』は、特に心を揺さぶられました。
羅臼町の「ひかりごけ洞窟」を見学後、釧路方面へ向かったように記憶しています。そして、「厚内」という駅が、乗車した列車の終着駅だったように記憶しています。
その駅前でテントを張り、眠ったのを覚えています。朝になったら、テントの近くを人がぞろぞろと歩いていくので、テントの外に出てみたら、通勤路の近くにテントを張っていたことに気が付きました。通る人みんながテントをじろじろ見ながら通るので、恥ずかしくなり、急いでテントをたたんだことを覚えています。
(普通、こんなところにテントは張らないだろう?!) と、じろじろ見られていたようです。
若さゆえの行動だったようです。「厚内」という駅に、あれから後、訪れたことはないのですが、一度行ってみたい気もしています。
この後、列車で大阪に戻ったのですが、具体的にどのルートで帰ったのかは、まったく思い出せないのです。同行したサンドラブログさんなら、覚えているかもしれません。機会があったら、この時のことを話題にしてみたいと思っています。
サンドラブロクさん、記憶している内容は違うかもしれませんが、思い出したことがあれば、よろしくね。
「記憶」はあまりあてになりませんね。でも、「記憶」は大切にしたいものです。
(今回のブログ、「ウトロ港」に関連して、(大学時代の)北海道旅行の記憶を手掛かりに書いてみました。北海道へは、(学校行事=下見や引率、それに旅行などで延べ10回ほど行っています。一番印象深いところは「神威岬(かむいみさき)」という灯台のある地です。好きな地なので、3回訪れています。初めて訪れたときは、寂れた行きにくい地でした。現在は遊歩道が整備され、観光客がたくさん訪れる地になっています。)
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2021/7/29
「心に残る場所 その1 」 旅行記録
人生は旅
私の心に刻まれている箇所を順次、写真で紹介します。
長崎県福江島・大瀬崎灯台
(ピントが甘いが、写真中心部の白い建物)
大瀬崎灯台のアップ
長崎県上五島町・頭ヶ島(かしらがしま)教会
石造りの教会
天主堂内部
北海道・道東 霧多布岬
霧の多い岬だった
沖縄県・波照間島 高那崎(たかなざき)
波照間島=(有人の島で)日本最南端の島
青森県下北半島 仏ヶ浦(ほとけがうら)
仏ヶ浦アップ 近景(カメラに入りきらない巨大岩群)
私の心に刻まれている箇所を順次、写真で紹介します。
長崎県福江島・大瀬崎灯台
(ピントが甘いが、写真中心部の白い建物)
大瀬崎灯台のアップ
長崎県上五島町・頭ヶ島(かしらがしま)教会
石造りの教会
天主堂内部
北海道・道東 霧多布岬
霧の多い岬だった
沖縄県・波照間島 高那崎(たかなざき)
波照間島=(有人の島で)日本最南端の島
青森県下北半島 仏ヶ浦(ほとけがうら)
仏ヶ浦アップ 近景(カメラに入りきらない巨大岩群)
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2020/1/19
「暗越奈良街道歩き旅(日帰り)」 旅行記録
2020年1月19日、友人M君と二人で暗峠越えの奈良街道を歩いてきた。
歩き旅のスタートは、奈良県生駒市の近鉄・南生駒駅。地下に改札口がある駅であった。改札口で待ち合わせ、午前9時前から歩き始めた。
生駒山脈の頂上部に向かって、緩やかな坂道が続いていた。南生駒駅地点は奈良街道の途中に当たる。奈良県側のスタート地点はJR奈良駅近くの『奈良県道路元標』(石柱)がある位置と推定される。
暗越奈良街道のスタート地点(終着地点)は伊勢街道へと続いている。松尾芭蕉は1694年に伊賀上野から伊勢街道を歩き、そして暗越奈良街道へと進んで行った。
奈良街道を通って生駒山脈の暗峠を越えて、大坂に向かった。
その芭蕉が歩いた道筋を芭蕉の気分になって、(同じ風景を見て、芭蕉の感性を想像しながら)歩いてみたのだった。
ここから続きです。
緩やかな舗装された坂道を登っていった。人家もあり、交通量は少ないが、数台の車とすれ違った。この道は国道308号線。奈良県側の「暗越(くらがりごえ)奈良街道」はコミュニティーバスも通っていた。道幅の狭いところもあったが、1車線半ほどの道が続いていた。バス停で一日の運行本数を調べてみたら、4本だった。公民館らしき建物があり、コミュニティバスを利用する人がいるのだろう。登っている間、バスにすれ違うことはなかったが・・・。田畑や民家が少しだけあった。
暗峠(標高455m)が近づくにつれ、奈良盆地方面の景色が遠くまで見通せるようになった。
さらに峠が近づいた所に、『暗峠のたまご』という小さな看板があった。看板の近くに卵が置いてあるのかな、と思って覗き込んだが、卵はなかった。(きっと置いている日もあるのかな?)
看板の近くに説明書きもあった。【平飼いの鶏肉 手間をおしまず心を込めて育てました。 親どり(ひね)1羽パック2000円 ミンチ肉400g1000円・・・・】
(こんな急斜面の場所に小さな鶏舎があり、平飼いで鶏を育て、商売が成り立っているのだなあ・・・。細い国道308号線沿いだから、リピーターがいるのだろう。)と想像した。
鶏卵販売の看板を過ぎて、5分ほど登っていったところに喫茶店のような建物があった。人も入っているようだった。冬季にかかわらず、営業中だった。峠のすぐ近くまで登ってきているように思われたので、とにかく暗峠(県境)まで行ってみることにした。(『峠の茶屋』が閉まっていたら、この店にもどろう・・・)
コンクリートのトンネル(トンネルの上はスカイラインの車道だった)をくぐったところが、暗峠そのものだった。暗峠(=『峠の茶屋』がある場所)付近の道はコンクリートの道ではなく、石畳の道だった。約100mほど、道が石畳のまま残っていた。幅は1車線ギリギリ。この石畳道も国道308号線。一方通行ではないので、すれ違う時はたいへんだ!! 無茶苦茶狭いところでバックしたら・・・脱輪するかも? 車で行かれる方はくれぐれも気をつけて下さいよ。(ほぼ1車線の急坂道でありながら、対向しなければならない国道ですから!)
ある本の解説によると、JAFによる国道308号線への救出対応はたいへんなようです。JAF車も困難な道らしい。大阪側の308号線の坂の傾斜は37度もあるとのこと。『日本一の急坂国道(酷道)』とも言われている。
昼食には少し早い時刻に暗峠に到着できた。日曜日だったからでしょうか、『峠の茶屋』は営業していた。峠でゆっくりしたかったので、ぜんざいを注文し椅子に腰かけて食することができた。『峠の茶屋』は古くからやっている店だった。(江戸時代からかもしれない・・・そんな雰囲気のところだった。ひょっとしたら、松尾芭蕉もここで休憩したかもしれない・・・。)
なんてことを想像しながら休憩した。休憩中、時々車が通った。(おっ、やっぱり国道なのだ!)
車1台がやっと通れる石畳の道。これが国道(308号線)なんだから、珍しい。
暗峠、車の交通量はごくわずかだった。しかし、歩いてくる人は多かった。人気のハイキングコースと言えるだろう。暗峠(455m)から生駒山頂上(642m)へ登っていく道もあった。
暗峠で休憩した後、大阪平野を目指して下って行った。暗峠を越えると、大阪府東大阪市内に入った。奈良県とはおさらばだった。
石畳道を過ぎれば、コンクリートの道が緩やかに下っていた。短時間で緩やかな道はなくなり、急坂な道になった。斜度37度の道も歩いた。タイヤがスリップしたか、こすれたのか・・・道路の斜面のあっちこっちが黒くなっていた。
(こりゃ、とんでもない道だ! これは国道ではなく、酷道と言われるはずだ!)
歩いて急いで下ることも恐い気がした。走ると大けがするかも・・・と、気にしながら足の裏にブレーキをかけて下りて行った。
木々の切れ目に大阪平野が見えた。アベノハルカスのビルは見えなかったが、大阪駅周辺のビル群が、目に入ってきた。素晴らしいビル群だった。このビル群のない平野を松尾芭蕉は見ながら下って行ったのだろう。緑の多い平野も素晴らしい風景だったに違いない。
江戸時代の暗越奈良街道を、用意していた地図を頼りに探りながら、なんとか見つけることができた。うっかりすると、現在の広い道を歩きそうになった。その道は「昔の街道」ではないことが多い。
少し道を間違えたが、なんとか布施駅近くまで「街道歩き」をすることができた。午後5時前であった。
今日は布施駅周辺でゴールとした。日帰り歩き旅を終えた。
本日の歩きは、家を出た時から帰宅までで、34898歩だった。約20km歩いたことになる。街道歩きそのものは、約16kmの行程だった。
友人と語らいながらの楽しい歩き旅になりました。 完
南生駒駅近く 奈良街道暗峠への登り口
暗峠に近づいた地点より 奈良盆地の一部が見えていた。
看板の背後に鶏舎が見えている。急斜面の地。
暗峠 現在でも、日陰は暗かった!
『峠の茶屋』 冬季は閉店しているらしいが・・・この日は営業していた。ぜんざいが美味しかった。
大阪府・東大阪市側から 峠道(国道308号)を撮る
梅田周辺のビル群が見えた。
さらに下ってきた地点。東大阪市街地がはっきりと見えていた。
奈良街道の道標 「左 大坂道 右 ならいせ道」
この道標を芭蕉も見たかも? 大坂という字だから・・・
石碑も立てられていた。この地域の人たちは、奈良街道を大切にしているように思われた。
歩き旅のスタートは、奈良県生駒市の近鉄・南生駒駅。地下に改札口がある駅であった。改札口で待ち合わせ、午前9時前から歩き始めた。
生駒山脈の頂上部に向かって、緩やかな坂道が続いていた。南生駒駅地点は奈良街道の途中に当たる。奈良県側のスタート地点はJR奈良駅近くの『奈良県道路元標』(石柱)がある位置と推定される。
暗越奈良街道のスタート地点(終着地点)は伊勢街道へと続いている。松尾芭蕉は1694年に伊賀上野から伊勢街道を歩き、そして暗越奈良街道へと進んで行った。
奈良街道を通って生駒山脈の暗峠を越えて、大坂に向かった。
その芭蕉が歩いた道筋を芭蕉の気分になって、(同じ風景を見て、芭蕉の感性を想像しながら)歩いてみたのだった。
ここから続きです。
緩やかな舗装された坂道を登っていった。人家もあり、交通量は少ないが、数台の車とすれ違った。この道は国道308号線。奈良県側の「暗越(くらがりごえ)奈良街道」はコミュニティーバスも通っていた。道幅の狭いところもあったが、1車線半ほどの道が続いていた。バス停で一日の運行本数を調べてみたら、4本だった。公民館らしき建物があり、コミュニティバスを利用する人がいるのだろう。登っている間、バスにすれ違うことはなかったが・・・。田畑や民家が少しだけあった。
暗峠(標高455m)が近づくにつれ、奈良盆地方面の景色が遠くまで見通せるようになった。
さらに峠が近づいた所に、『暗峠のたまご』という小さな看板があった。看板の近くに卵が置いてあるのかな、と思って覗き込んだが、卵はなかった。(きっと置いている日もあるのかな?)
看板の近くに説明書きもあった。【平飼いの鶏肉 手間をおしまず心を込めて育てました。 親どり(ひね)1羽パック2000円 ミンチ肉400g1000円・・・・】
(こんな急斜面の場所に小さな鶏舎があり、平飼いで鶏を育て、商売が成り立っているのだなあ・・・。細い国道308号線沿いだから、リピーターがいるのだろう。)と想像した。
鶏卵販売の看板を過ぎて、5分ほど登っていったところに喫茶店のような建物があった。人も入っているようだった。冬季にかかわらず、営業中だった。峠のすぐ近くまで登ってきているように思われたので、とにかく暗峠(県境)まで行ってみることにした。(『峠の茶屋』が閉まっていたら、この店にもどろう・・・)
コンクリートのトンネル(トンネルの上はスカイラインの車道だった)をくぐったところが、暗峠そのものだった。暗峠(=『峠の茶屋』がある場所)付近の道はコンクリートの道ではなく、石畳の道だった。約100mほど、道が石畳のまま残っていた。幅は1車線ギリギリ。この石畳道も国道308号線。一方通行ではないので、すれ違う時はたいへんだ!! 無茶苦茶狭いところでバックしたら・・・脱輪するかも? 車で行かれる方はくれぐれも気をつけて下さいよ。(ほぼ1車線の急坂道でありながら、対向しなければならない国道ですから!)
ある本の解説によると、JAFによる国道308号線への救出対応はたいへんなようです。JAF車も困難な道らしい。大阪側の308号線の坂の傾斜は37度もあるとのこと。『日本一の急坂国道(酷道)』とも言われている。
昼食には少し早い時刻に暗峠に到着できた。日曜日だったからでしょうか、『峠の茶屋』は営業していた。峠でゆっくりしたかったので、ぜんざいを注文し椅子に腰かけて食することができた。『峠の茶屋』は古くからやっている店だった。(江戸時代からかもしれない・・・そんな雰囲気のところだった。ひょっとしたら、松尾芭蕉もここで休憩したかもしれない・・・。)
なんてことを想像しながら休憩した。休憩中、時々車が通った。(おっ、やっぱり国道なのだ!)
車1台がやっと通れる石畳の道。これが国道(308号線)なんだから、珍しい。
暗峠、車の交通量はごくわずかだった。しかし、歩いてくる人は多かった。人気のハイキングコースと言えるだろう。暗峠(455m)から生駒山頂上(642m)へ登っていく道もあった。
暗峠で休憩した後、大阪平野を目指して下って行った。暗峠を越えると、大阪府東大阪市内に入った。奈良県とはおさらばだった。
石畳道を過ぎれば、コンクリートの道が緩やかに下っていた。短時間で緩やかな道はなくなり、急坂な道になった。斜度37度の道も歩いた。タイヤがスリップしたか、こすれたのか・・・道路の斜面のあっちこっちが黒くなっていた。
(こりゃ、とんでもない道だ! これは国道ではなく、酷道と言われるはずだ!)
歩いて急いで下ることも恐い気がした。走ると大けがするかも・・・と、気にしながら足の裏にブレーキをかけて下りて行った。
木々の切れ目に大阪平野が見えた。アベノハルカスのビルは見えなかったが、大阪駅周辺のビル群が、目に入ってきた。素晴らしいビル群だった。このビル群のない平野を松尾芭蕉は見ながら下って行ったのだろう。緑の多い平野も素晴らしい風景だったに違いない。
江戸時代の暗越奈良街道を、用意していた地図を頼りに探りながら、なんとか見つけることができた。うっかりすると、現在の広い道を歩きそうになった。その道は「昔の街道」ではないことが多い。
少し道を間違えたが、なんとか布施駅近くまで「街道歩き」をすることができた。午後5時前であった。
今日は布施駅周辺でゴールとした。日帰り歩き旅を終えた。
本日の歩きは、家を出た時から帰宅までで、34898歩だった。約20km歩いたことになる。街道歩きそのものは、約16kmの行程だった。
友人と語らいながらの楽しい歩き旅になりました。 完
南生駒駅近く 奈良街道暗峠への登り口
暗峠に近づいた地点より 奈良盆地の一部が見えていた。
看板の背後に鶏舎が見えている。急斜面の地。
暗峠 現在でも、日陰は暗かった!
『峠の茶屋』 冬季は閉店しているらしいが・・・この日は営業していた。ぜんざいが美味しかった。
大阪府・東大阪市側から 峠道(国道308号)を撮る
梅田周辺のビル群が見えた。
さらに下ってきた地点。東大阪市街地がはっきりと見えていた。
奈良街道の道標 「左 大坂道 右 ならいせ道」
この道標を芭蕉も見たかも? 大坂という字だから・・・
石碑も立てられていた。この地域の人たちは、奈良街道を大切にしているように思われた。
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2019/8/1
「行田市ってどんなところ? 」 旅行記録
行田(ぎょうだ)市ってどんなところなのか?
まったく関心のなかった市であったが、古墳・遺跡巡りでいつもお世話になっているTさんに「さきたま古墳群」のパンフレットや資料をいただいてから、「行ってみたい!」と好奇心がわいた。
その好奇心に導かれて、私なりに「行田市」を調べ始めたのだった。
そしたら、なんとまあ、埼玉県も「さきたま古墳群」の世界遺産登録運動をしていたのだった!
以下、写真と説明で、行田市の一部を紹介します。
「めざせ世界遺産!」の看板が、さきたま古墳公園入口に。
「埼玉県」という名称の発祥地は行田とのこと…。へぇー、知らなかったなあ!
たぶん、「さきたま」古墳と関係あるのだろう。さて、事実はどうかな?
稲荷山古墳 後円部頂上部分
二箇所に死者が葬られていたようだ。一箇所は盗掘されていて、たいして重要なものは残っていなかったようだ。
しかし、あと一箇所は盗掘を免れていた。1mほど下の地中から石の床部分が見つかり、その周りから、古代史研究者たちを驚かせる「金の文字入りの鉄剣」が発掘された。古代史研究に関する、「びっくりニュース」となったようだ。発見された鉄剣や宝石などが見つかった位置を再現するかのような「写真」は展示してあった。その展示写真は雨でも腐らないようなもので、観光客にもわかりやすいように、工夫されていた。写真とはいえ、リアルな展示になっていた。正に、ここで発見されたのだ。本物の鉄剣は、公園内の「博物館」に展示されていた。本物に20分ほど見とれていた私。金の文字に魅入られましたよ!(鉄はさびていましたが…)
国宝 115字の金文字が書かれていた鉄剣(本物)
将軍山古墳 横穴式石室(本物) 展示物はレプリカだが、発見当時の状態を復元していた。かなり参考になった。武人らしい人が葬られている古墳なのであろう。
とにかく、登れたり、中に入れる古墳が多く・・・「楽しい古墳群」と言えるだろう。
映画『のぼうの城』の舞台となった「忍城(おしじょう)」。再建された城とはいえ、歴史的に面白い城のようだ。
利根川と荒川に挟まれた行田。この忍城は石田三成によって、水攻めをされるのだが、なんとかしのいだようだ。知恵者「石田三成」も忍城を陥落させるまでには、至らなかったようだ。
石田三成が忍城陥落のために陣地として利用したのが、さきたま古墳群の「丸墓山古墳」。日本一大きい円墳(高さ17m)の頂上部を陣地として利用している。
戦国時代の武将たちは、他でも古墳の頂上部を「陣地」に利用している。「墓」といえども、そんなことは戦争においては関係なかったのだろう。「利用できるものは利用する!」精神だったらしい。
ひょっとしたら、関ケ原の戦いで、敗れたのは「さきたま古墳群(丸墓山古墳)」の祟(たた)りだったのかも?
なんて、漫画的な想像をしても、笑われるだけかな?(笑)
別の方向から写した忍城
まったく関心のなかった市であったが、古墳・遺跡巡りでいつもお世話になっているTさんに「さきたま古墳群」のパンフレットや資料をいただいてから、「行ってみたい!」と好奇心がわいた。
その好奇心に導かれて、私なりに「行田市」を調べ始めたのだった。
そしたら、なんとまあ、埼玉県も「さきたま古墳群」の世界遺産登録運動をしていたのだった!
以下、写真と説明で、行田市の一部を紹介します。
「めざせ世界遺産!」の看板が、さきたま古墳公園入口に。
「埼玉県」という名称の発祥地は行田とのこと…。へぇー、知らなかったなあ!
たぶん、「さきたま」古墳と関係あるのだろう。さて、事実はどうかな?
稲荷山古墳 後円部頂上部分
二箇所に死者が葬られていたようだ。一箇所は盗掘されていて、たいして重要なものは残っていなかったようだ。
しかし、あと一箇所は盗掘を免れていた。1mほど下の地中から石の床部分が見つかり、その周りから、古代史研究者たちを驚かせる「金の文字入りの鉄剣」が発掘された。古代史研究に関する、「びっくりニュース」となったようだ。発見された鉄剣や宝石などが見つかった位置を再現するかのような「写真」は展示してあった。その展示写真は雨でも腐らないようなもので、観光客にもわかりやすいように、工夫されていた。写真とはいえ、リアルな展示になっていた。正に、ここで発見されたのだ。本物の鉄剣は、公園内の「博物館」に展示されていた。本物に20分ほど見とれていた私。金の文字に魅入られましたよ!(鉄はさびていましたが…)
国宝 115字の金文字が書かれていた鉄剣(本物)
将軍山古墳 横穴式石室(本物) 展示物はレプリカだが、発見当時の状態を復元していた。かなり参考になった。武人らしい人が葬られている古墳なのであろう。
とにかく、登れたり、中に入れる古墳が多く・・・「楽しい古墳群」と言えるだろう。
映画『のぼうの城』の舞台となった「忍城(おしじょう)」。再建された城とはいえ、歴史的に面白い城のようだ。
利根川と荒川に挟まれた行田。この忍城は石田三成によって、水攻めをされるのだが、なんとかしのいだようだ。知恵者「石田三成」も忍城を陥落させるまでには、至らなかったようだ。
石田三成が忍城陥落のために陣地として利用したのが、さきたま古墳群の「丸墓山古墳」。日本一大きい円墳(高さ17m)の頂上部を陣地として利用している。
戦国時代の武将たちは、他でも古墳の頂上部を「陣地」に利用している。「墓」といえども、そんなことは戦争においては関係なかったのだろう。「利用できるものは利用する!」精神だったらしい。
ひょっとしたら、関ケ原の戦いで、敗れたのは「さきたま古墳群(丸墓山古墳)」の祟(たた)りだったのかも?
なんて、漫画的な想像をしても、笑われるだけかな?(笑)
別の方向から写した忍城
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2019/2/28
「雨天だったが犬吠埼へ」 旅行記録
28日、あいにくの天気だったが、念願の犬吠埼灯台へ行き、灯台に登ることができた。
日本には18箇所(?)だったか、登れる灯台がある。訪れた所に、登れる灯台があれば、必ず登ることにしている。灯台の上からの眺めに感動し、心が震えるから。犬吠埼灯台に登り、今日も震えた。この震えは青春の心を蘇らせてくれ、生きている実感を与えてくれる。
私同様に、いや私以上に灯台が好きな友人がいる。彼の灯台巡りの質および実地訪問数は「上級者レベル」だ。彼に比べれば、私のレベルは初心者レベル。
しかし、感動する心は負けまいぞ、と鼓舞している。
灯台を好んで描く画家もおられる。灯台好きな方だろうなあ・・・と、親近感を感じる。
灯台見学後、近くの屛風ヶ浦の絶壁を見てきた。
深夜発の高速バスで帰阪した。難波到着は3月1日午前8時半ごろだった。夜行のバスは疲れました。家で、これからゆっくり寝ます。
犬吠埼灯台
灯台内部 最上階から写した階段 急だった
灯台の上からの眺め 屛風ヶ浦ならびに九十九里浜方面が遠くにかすんで見えていた。
屛風ヶ浦の遊歩道より撮影 崖の高さは30mぐらいか?
崖が約10km続いているらしい。遊歩道はごく一部だった。
日本には18箇所(?)だったか、登れる灯台がある。訪れた所に、登れる灯台があれば、必ず登ることにしている。灯台の上からの眺めに感動し、心が震えるから。犬吠埼灯台に登り、今日も震えた。この震えは青春の心を蘇らせてくれ、生きている実感を与えてくれる。
私同様に、いや私以上に灯台が好きな友人がいる。彼の灯台巡りの質および実地訪問数は「上級者レベル」だ。彼に比べれば、私のレベルは初心者レベル。
しかし、感動する心は負けまいぞ、と鼓舞している。
灯台を好んで描く画家もおられる。灯台好きな方だろうなあ・・・と、親近感を感じる。
灯台見学後、近くの屛風ヶ浦の絶壁を見てきた。
深夜発の高速バスで帰阪した。難波到着は3月1日午前8時半ごろだった。夜行のバスは疲れました。家で、これからゆっくり寝ます。
犬吠埼灯台
灯台内部 最上階から写した階段 急だった
灯台の上からの眺め 屛風ヶ浦ならびに九十九里浜方面が遠くにかすんで見えていた。
屛風ヶ浦の遊歩道より撮影 崖の高さは30mぐらいか?
崖が約10km続いているらしい。遊歩道はごく一部だった。
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2019/2/26
「佐原 街並み歩きへの旅」 旅行記録
2月26日、千葉県香取市佐原町(伊能忠敬氏出身地)の街並みを歩いてみたくて、成田空港へLCC利用でやってきた。
関空発成田行きの便を予約したのは、ほぼ1年前だった。変更可能チケットだったので、予約しておいた日に急用ができ、都合が悪くなるたびに延期したのだった。完全退職した身なれど、予定通りに行けないことが起こるものだ。2回も延期することになった。千葉行きには縁がないのかなあ・・・と、思うこともあった。「3度目の正直 」だったのか、やっと千葉行きが実現した。
今夜は「成田ビューホテル」というホテルに泊まった。成田空港に近く、3分おきぐらいにジェット機が飛んでいる。露天風呂があるビジネスホテルだが、宿泊料金はそれほど高くはない。ホテルの室内は静かだが、露天風呂はジェット機の騒音でうるさい。とにかく、ホテルのほぼ真上「低空」を飛んでいるように感じた。
私は飛行機が好きだから、爽快な気分になるが、ジェット機の音が嫌いな人にとって、苦痛だろう。とにかく離着陸延回数がすごい空港だ。羽田にしろ、成田にしろ・・・。
よくもまあ、毎年毎年ほぼ無事故が続くものだと感心する。これにはすごい能力を持つ人たちの働きがあるのだろう。感謝。
それに比べて、釧路空港などの地方空港は、(実態を知らない私には)なんとなくのんびりとしているように感じてしまう。
もっとも、釧路空港の真冬や夏は忙しいらしいが・・・。
27日の午前中、伊能忠敬で有名な街、佐原町を散策した。重要伝統的建造物群保存地区なのだが、その点にはあまりポスターなどでは触れていない町だった。伊能忠敬ばかりがクローズアップされていた。
もちろん、伊能忠敬がメインの町なのだが、建物群の良さをもっと宣伝してもいいように思った。「重要伝統的建造物群保存地区」であることを、ところどころに標示しておいた方が観光客にはわかりやすいだろう。建造物群もさらに注目されるはず。江戸時代からの建物が群となって、美観を形成している。特に、利根川支流の「小野川」沿いの建物群は川沿いの雰囲気とマッチして美しい。
伊能忠敬の地図が国宝に認定され、伊能忠敬記念館内に展示してあった。伊能忠敬本人が江戸時代に書いた実物地図(複製ではなかったので、びっくり、感動!)をじっくりと見てきた。
一方、町並みも良かったですね! 「小江戸佐原」というキャッチフレーズで紹介されている点は納得できた。利根川の水運との関係が深く、栄えたにちがいないと想像できた。徳川幕府による江戸発展とともに、佐原も栄えたに違いない。
江戸は徳川の時代になって、人口集中が起こり、100万人都市になっている。当時としては、世界最大級の都市になったのだ。参勤交代制度などによって、江戸が巨大都市化していった。佐原にとって、利根川(その支流・小野川)あってこそ発展できたに違いない。
伊能忠敬が隠居するまでは、商売も繁盛させたに違いない。彼の旧居はまさに小野川沿いにあったから。小野川は船で荷物を運べる幅が十分にあった。
現地を散策してものを考えることはいいことですね。佐原は予想していた以上にいいところでした。感動、感動。
背後の建物は伊能忠敬記念館
佐原=「重要伝統的建造物群保存地区(平成8年に選定)」であり、町並みが川とバランス良く、美しかった。
伊能忠敬旧宅前の木の橋 30分ごとに橋から水が川面にジャージャーと音を立てて落ちる。
通称「ジャージャー橋」と呼ばれているとのこと
小野川沿いの風景 この日は(写真右)各船着き場に「ひな人形」が木箱の中に展示されていた。町のあらゆるところにひな祭りの雰囲気が…。もうすぐ、3月3日。
江戸時代の雰囲気が残っている建物群
伊能忠敬旧居 無料で公開されいた。
佐原の町並み散策後、水戸の偕楽園へ。梅林がほぼ満開だった。
関空発成田行きの便を予約したのは、ほぼ1年前だった。変更可能チケットだったので、予約しておいた日に急用ができ、都合が悪くなるたびに延期したのだった。完全退職した身なれど、予定通りに行けないことが起こるものだ。2回も延期することになった。千葉行きには縁がないのかなあ・・・と、思うこともあった。「3度目の正直 」だったのか、やっと千葉行きが実現した。
今夜は「成田ビューホテル」というホテルに泊まった。成田空港に近く、3分おきぐらいにジェット機が飛んでいる。露天風呂があるビジネスホテルだが、宿泊料金はそれほど高くはない。ホテルの室内は静かだが、露天風呂はジェット機の騒音でうるさい。とにかく、ホテルのほぼ真上「低空」を飛んでいるように感じた。
私は飛行機が好きだから、爽快な気分になるが、ジェット機の音が嫌いな人にとって、苦痛だろう。とにかく離着陸延回数がすごい空港だ。羽田にしろ、成田にしろ・・・。
よくもまあ、毎年毎年ほぼ無事故が続くものだと感心する。これにはすごい能力を持つ人たちの働きがあるのだろう。感謝。
それに比べて、釧路空港などの地方空港は、(実態を知らない私には)なんとなくのんびりとしているように感じてしまう。
もっとも、釧路空港の真冬や夏は忙しいらしいが・・・。
27日の午前中、伊能忠敬で有名な街、佐原町を散策した。重要伝統的建造物群保存地区なのだが、その点にはあまりポスターなどでは触れていない町だった。伊能忠敬ばかりがクローズアップされていた。
もちろん、伊能忠敬がメインの町なのだが、建物群の良さをもっと宣伝してもいいように思った。「重要伝統的建造物群保存地区」であることを、ところどころに標示しておいた方が観光客にはわかりやすいだろう。建造物群もさらに注目されるはず。江戸時代からの建物が群となって、美観を形成している。特に、利根川支流の「小野川」沿いの建物群は川沿いの雰囲気とマッチして美しい。
伊能忠敬の地図が国宝に認定され、伊能忠敬記念館内に展示してあった。伊能忠敬本人が江戸時代に書いた実物地図(複製ではなかったので、びっくり、感動!)をじっくりと見てきた。
一方、町並みも良かったですね! 「小江戸佐原」というキャッチフレーズで紹介されている点は納得できた。利根川の水運との関係が深く、栄えたにちがいないと想像できた。徳川幕府による江戸発展とともに、佐原も栄えたに違いない。
江戸は徳川の時代になって、人口集中が起こり、100万人都市になっている。当時としては、世界最大級の都市になったのだ。参勤交代制度などによって、江戸が巨大都市化していった。佐原にとって、利根川(その支流・小野川)あってこそ発展できたに違いない。
伊能忠敬が隠居するまでは、商売も繁盛させたに違いない。彼の旧居はまさに小野川沿いにあったから。小野川は船で荷物を運べる幅が十分にあった。
現地を散策してものを考えることはいいことですね。佐原は予想していた以上にいいところでした。感動、感動。
背後の建物は伊能忠敬記念館
佐原=「重要伝統的建造物群保存地区(平成8年に選定)」であり、町並みが川とバランス良く、美しかった。
伊能忠敬旧宅前の木の橋 30分ごとに橋から水が川面にジャージャーと音を立てて落ちる。
通称「ジャージャー橋」と呼ばれているとのこと
小野川沿いの風景 この日は(写真右)各船着き場に「ひな人形」が木箱の中に展示されていた。町のあらゆるところにひな祭りの雰囲気が…。もうすぐ、3月3日。
江戸時代の雰囲気が残っている建物群
伊能忠敬旧居 無料で公開されいた。
佐原の町並み散策後、水戸の偕楽園へ。梅林がほぼ満開だった。
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2018/11/2
「隠岐旅行の帰りに妻木晩田遺跡へ」 旅行記録
10月25日(旅行4日目・最終日)
隠岐諸島からの帰りに米子で一泊した。弥生時代の巨大遺跡(吉野ヶ里よりも3倍広い遺跡)、「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」に寄り道するために、米子駅近くのホテルに宿泊した。
米子駅からは鳥取駅方面へJRに乗り、3つ目の駅「淀江駅」で降りた。淀江駅からは歩いて妻木晩田遺跡を目指した。タクシーもなければ、妻木晩田遺跡へのバスもなかったから。淀江駅は無人の駅だった。
妻木晩田遺跡見学は今回で二度目だった。前回は、今年の春に「青春18切符」利用で来ている。妻木晩田遺跡の広さを甘く考えていて、「2時間もあれば全部見学できるだろう」と思ったのが間違いだった。一部を見学しきれずに、淀江駅発の列車の時刻にせかされて(十分に見学できないまま)帰阪したのだった。なにしろ、「青春18切符」は鈍行または快速列車しか乗れないので、長距離の移動には時間がかかることになる。
その時に見学できなかった箇所を是非見たくて、2回目の見学になった次第です。
今回もそれほど見学時間に余裕がなかったので、電動自転車を借りることにした。無料で貸してくれるということなので、貸してもらった。(入館料は無料だし、遺跡を見て回るための電動自転車も無料だった。(すごいサービスだ。)
すべて鳥取県の税金で運営しているようだ。発掘に関する費用は国からも出ているのであろう。それにしても遺跡見学者へのサービスはすごいなあ、と感心した。
前回見学した場所も含めて、電動自転車利用だったので、約2時間で遺跡の全体を見学することができた。前回見ていなかった、遺跡の中で一番遠い位置にある「仙谷(せんたに)古墳群」を見ることができたので、すっきりした。
すっきりしたので帰阪することにした。
約4kmほど離れている淀江駅まで歩き、JR利用で鳥取駅へ。(今回利用のチケットは特急に乗れるので)鳥取駅で特急に乗り大阪駅へ。
3泊4日の旅行は終わった。
明日は畑へ行かなくては・・・。4日間も畑へ行っていないので、幼い苗が心配だ。
小高い丘の上に遺跡がある 向こうの海が米子方面
四隅突出型古墳(ヒトデのような形の弥生時代の古墳)
弥生時代の遺跡 (建物を複数復元していた)
仙谷古墳群の説明板
とにかく広い遺跡であった。ゴルフ場を造る調査で発見されたとのこと。ゴルフ場建設は中止され、遺跡公園になっている。あまり有名ではない遺跡だが、大変興味深かった。3度目の訪問があるかも…。弥生時代の歴史的ロマンを感じる場所であり、「すごい遺跡」でした。
隠岐諸島からの帰りに米子で一泊した。弥生時代の巨大遺跡(吉野ヶ里よりも3倍広い遺跡)、「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」に寄り道するために、米子駅近くのホテルに宿泊した。
米子駅からは鳥取駅方面へJRに乗り、3つ目の駅「淀江駅」で降りた。淀江駅からは歩いて妻木晩田遺跡を目指した。タクシーもなければ、妻木晩田遺跡へのバスもなかったから。淀江駅は無人の駅だった。
妻木晩田遺跡見学は今回で二度目だった。前回は、今年の春に「青春18切符」利用で来ている。妻木晩田遺跡の広さを甘く考えていて、「2時間もあれば全部見学できるだろう」と思ったのが間違いだった。一部を見学しきれずに、淀江駅発の列車の時刻にせかされて(十分に見学できないまま)帰阪したのだった。なにしろ、「青春18切符」は鈍行または快速列車しか乗れないので、長距離の移動には時間がかかることになる。
その時に見学できなかった箇所を是非見たくて、2回目の見学になった次第です。
今回もそれほど見学時間に余裕がなかったので、電動自転車を借りることにした。無料で貸してくれるということなので、貸してもらった。(入館料は無料だし、遺跡を見て回るための電動自転車も無料だった。(すごいサービスだ。)
すべて鳥取県の税金で運営しているようだ。発掘に関する費用は国からも出ているのであろう。それにしても遺跡見学者へのサービスはすごいなあ、と感心した。
前回見学した場所も含めて、電動自転車利用だったので、約2時間で遺跡の全体を見学することができた。前回見ていなかった、遺跡の中で一番遠い位置にある「仙谷(せんたに)古墳群」を見ることができたので、すっきりした。
すっきりしたので帰阪することにした。
約4kmほど離れている淀江駅まで歩き、JR利用で鳥取駅へ。(今回利用のチケットは特急に乗れるので)鳥取駅で特急に乗り大阪駅へ。
3泊4日の旅行は終わった。
明日は畑へ行かなくては・・・。4日間も畑へ行っていないので、幼い苗が心配だ。
小高い丘の上に遺跡がある 向こうの海が米子方面
四隅突出型古墳(ヒトデのような形の弥生時代の古墳)
弥生時代の遺跡 (建物を複数復元していた)
仙谷古墳群の説明板
とにかく広い遺跡であった。ゴルフ場を造る調査で発見されたとのこと。ゴルフ場建設は中止され、遺跡公園になっている。あまり有名ではない遺跡だが、大変興味深かった。3度目の訪問があるかも…。弥生時代の歴史的ロマンを感じる場所であり、「すごい遺跡」でした。
<form action="https://gold.ap.teacup.com/applet/keke7761/1134/clap" method="POST"><input type="submit" value="拍手" /></form> 4