第21話 「保元の乱 燃える平安京!新しき武士の世の幕開け!」
清盛(松山ケンイチ)と源義朝(玉木宏)らは後白河天皇(松田翔太)のいる高松殿に、源為義(小日向文世)と平忠正(豊原功補)らは崇徳上皇(井浦新)がいる白河北殿に集まり、それぞれで軍議が行われた。
後白河天皇側では義朝が、崇徳上皇側では為義の子・為朝(橋本さとし)が、「夜討ち」を進言。
それぞれの陣営で、孫子の兵法書の一説「夜呼ぶものは恐るるなり」を用い、崇徳上皇側の参謀である左大臣・藤原頼長(山本耕史)は「夜討ちは卑怯なり」と解釈をして夜が明けるのを待つとし、後白河天皇側の参謀・信西(阿部サダヲ)は「夜通しこうして論じ続けるは臆病者のすること」と解釈。
そして同じく孫子の一説「理に合えば即ち動き、理に合わざれば即ち止まる」を用い、頼長は「我らは兵の数で劣っていて理に合わない。大和の軍勢を待つ」とし、信西は「たとえ夜明けを待つとしても、ぼんやりと待つのは孫子は良しとしない」と解釈。
こうして、後白河天皇側は「夜討ち」を選択。
後白河天皇は武士に対し直々に「全ては白河院の御世より始まったこと。これを止められるは武士しかおらぬ。そなたたちの武者の力によって白河院の北殿を落とすことが、新しき世の始まりである」と鼓舞する。
清盛は、弟・頼盛(西島隆弘)に対しては「弱きを抱えたそなたに従う兵は、無駄に命を落とす」として、館へ帰らせる。
そして、伊藤忠清(藤本隆宏)らを強者・為朝の守る南門で戦わせるも苦戦。
清盛は、北門で忠正と戦うも、こちらも苦戦。
戦況を見た義朝は、白河北殿に火を放ちたいと信西に進言。
火が放たれた白河北殿から、崇徳上皇や頼長は脱出を図る。
その際、崇徳上皇は頼長に対し「そなたを信じた朕が、愚かであった…」と言って立ち去る。。。
といった内容で、戦闘場面も多々ありました(上では省略)。
孫子の言葉を、こうして別々に解釈したのは、面白かったなぁと思います。
そして、やはり理屈のみでは戦は通用しない、ということで、頼長の「理」は通用せず。
崇徳上皇が、最後まで周りに翻弄されて敗走していくという、何とも悲しい情景でした
軍議後に、信西が義朝を褒めて恩賞をチラつかせた後に、お付きの貴族が「殿もお人が悪い。あれでは少しばかり下野守(義朝)が気の毒にございます」と信西に囁いたのは、どういうことなのか?
戦で実績を上げたとしても、大した恩賞は当たらない、ということなのでしょうね。
まぁ、清盛自身は、亡き父・忠盛がいくら武勇を上げても貴族になれなかった、というのを身に染みて見ていたし、先日天皇から「朝廷の番犬としてこき使われたまま、志半ばで死んでいくのだ」と言われていたから、何となくは分かるのでしょうけど。
義朝は戦の後、どうなっていくのか??
清盛が、弟・頼盛を戦の場から去らせたのは?
確かに、ついこの間まで敵方に付こうとしていたのだから、危ないのは事実ですが。
平氏の血を絶やさないために、あえて戦場から外したとか?
そのへんも、今後分かってくるのでしょうけど。
鎌田通清(金田明夫)が子・正清(趙和)を、まさに命をかけて守った訳ですが・・・。
うーーーん、ちょっと強引だったような。
史実通りなのかどうなのか。
先週の「それぞれの主人のために、親子が敵味方に分かれた」という感動的な場面だけで良かったのでは?と思ったりしました。
清盛は・・・叔父と戦う場面ばかりが強調されて、戦でどう活躍したかがよく分からない描写だったのが、少し気になりました。
義朝のおかげで戦に勝った、という印象ばかり残るのですが、そういう認識で良いのかどうなのか?
ということで、NHK一押しの「保元の乱」だったのですが、どうだったのでしょう?
確かに、戦闘シーンは迫力があったのですが、私としては色々と疑問が残る回でした。
今後のストーリーで解明されると思うのですけどね
清盛(松山ケンイチ)と源義朝(玉木宏)らは後白河天皇(松田翔太)のいる高松殿に、源為義(小日向文世)と平忠正(豊原功補)らは崇徳上皇(井浦新)がいる白河北殿に集まり、それぞれで軍議が行われた。
後白河天皇側では義朝が、崇徳上皇側では為義の子・為朝(橋本さとし)が、「夜討ち」を進言。
それぞれの陣営で、孫子の兵法書の一説「夜呼ぶものは恐るるなり」を用い、崇徳上皇側の参謀である左大臣・藤原頼長(山本耕史)は「夜討ちは卑怯なり」と解釈をして夜が明けるのを待つとし、後白河天皇側の参謀・信西(阿部サダヲ)は「夜通しこうして論じ続けるは臆病者のすること」と解釈。
そして同じく孫子の一説「理に合えば即ち動き、理に合わざれば即ち止まる」を用い、頼長は「我らは兵の数で劣っていて理に合わない。大和の軍勢を待つ」とし、信西は「たとえ夜明けを待つとしても、ぼんやりと待つのは孫子は良しとしない」と解釈。
こうして、後白河天皇側は「夜討ち」を選択。
後白河天皇は武士に対し直々に「全ては白河院の御世より始まったこと。これを止められるは武士しかおらぬ。そなたたちの武者の力によって白河院の北殿を落とすことが、新しき世の始まりである」と鼓舞する。
清盛は、弟・頼盛(西島隆弘)に対しては「弱きを抱えたそなたに従う兵は、無駄に命を落とす」として、館へ帰らせる。
そして、伊藤忠清(藤本隆宏)らを強者・為朝の守る南門で戦わせるも苦戦。
清盛は、北門で忠正と戦うも、こちらも苦戦。
戦況を見た義朝は、白河北殿に火を放ちたいと信西に進言。
火が放たれた白河北殿から、崇徳上皇や頼長は脱出を図る。
その際、崇徳上皇は頼長に対し「そなたを信じた朕が、愚かであった…」と言って立ち去る。。。
といった内容で、戦闘場面も多々ありました(上では省略)。
孫子の言葉を、こうして別々に解釈したのは、面白かったなぁと思います。
そして、やはり理屈のみでは戦は通用しない、ということで、頼長の「理」は通用せず。
崇徳上皇が、最後まで周りに翻弄されて敗走していくという、何とも悲しい情景でした
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軍議後に、信西が義朝を褒めて恩賞をチラつかせた後に、お付きの貴族が「殿もお人が悪い。あれでは少しばかり下野守(義朝)が気の毒にございます」と信西に囁いたのは、どういうことなのか?
戦で実績を上げたとしても、大した恩賞は当たらない、ということなのでしょうね。
まぁ、清盛自身は、亡き父・忠盛がいくら武勇を上げても貴族になれなかった、というのを身に染みて見ていたし、先日天皇から「朝廷の番犬としてこき使われたまま、志半ばで死んでいくのだ」と言われていたから、何となくは分かるのでしょうけど。
義朝は戦の後、どうなっていくのか??
清盛が、弟・頼盛を戦の場から去らせたのは?
確かに、ついこの間まで敵方に付こうとしていたのだから、危ないのは事実ですが。
平氏の血を絶やさないために、あえて戦場から外したとか?
そのへんも、今後分かってくるのでしょうけど。
鎌田通清(金田明夫)が子・正清(趙和)を、まさに命をかけて守った訳ですが・・・。
うーーーん、ちょっと強引だったような。
史実通りなのかどうなのか。
先週の「それぞれの主人のために、親子が敵味方に分かれた」という感動的な場面だけで良かったのでは?と思ったりしました。
清盛は・・・叔父と戦う場面ばかりが強調されて、戦でどう活躍したかがよく分からない描写だったのが、少し気になりました。
義朝のおかげで戦に勝った、という印象ばかり残るのですが、そういう認識で良いのかどうなのか?
ということで、NHK一押しの「保元の乱」だったのですが、どうだったのでしょう?
確かに、戦闘シーンは迫力があったのですが、私としては色々と疑問が残る回でした。
今後のストーリーで解明されると思うのですけどね
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