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美と知

 美術・教育・成長するということを考える
( by HIGASHIURA Tetsuya )

矢内 正一“一隅の教育者の自叙伝”より 9/10

2007年02月19日 | 学校・教師考~矢内正一先生
箕面自由学園へ
昭和43年、私は箕面自由学園の校長の仕事を引き受けることになった。私の親しい人が学園の理事長であったため、再三の希望を断りきれなかったということもあるが、私に教育現場での仕事に対する郷愁のようなものがあったことと、箕面自由学園が幼稚園・小学校・中学校・高等学校を併せ持つ学園だったことに深く心をひかれたためであった。

箕面自由学園というのは大正15年4月、「箕面学園小学校」の名をもって私立小学校として発足した学校である。設立者は岸本汽船の社長岸本兼太郎氏、初代小学校長は神戸の諏訪山小学校の教頭から自由な理想教育を求めて私立小学校の校長となった小谷新太郎氏。朝日新聞杜から先年創刊された教育雑誌『のびのび』は、「新教育としての箕面自由学園」と題して創立当時の学園を紹介し、「小谷は知識注入主義をさけ、自発活動を重視、理科を自然科として一年からはじめた。共学、自学、自治の教育を追求した。『家なき幼稚園』の橋詰良一も協力した」と書いている。

橋詰氏は当時毎日新聞の部長を歴任し、「せみ郎」と号した文化人で、池田の呉服(くれは)神社の境内に「家なき幼稚園」(後に「自然幼稚園」と改称)を建て、季刊誌『愛と美』を出していて、学園の創立時に理事となって、学園の教育理念をつくり上げることについて、小谷校長の協力者だったようである。

後に第2代小学校長となった田村勝則氏は、回顧の文の中で当時の学園を想起しておられる。「型にはまった点とりとつめこみの教育から子どもを解放して、自然の子として、明るく、朗らかに成長させることを念願し、箕面の緑の丘に設立されたのがわが学園であった」「理科教育を重視して、子どもたちを自然に親しませ」「情操教育、全人教育を重んじ」「英語教育を重視して、国際人として、広く世界に舞台を求める態度を養うことにつとめた」「教育は人格と人格とのへだてなき交渉であることを思い、教師にその人を得て、学校が児童の幼き生命をはぐくむ苗床であり、これを培う壌土であるとの信念から、学校を温かく楽しき愛郷たらしめようとした」

当時の英語教師のマギル女史については、次のように書かれている。「女史は信仰心の深い、やさしい人で、子どもたちにとって英語の時間は一番楽しい時間だった。父母からも深く信頼され、学園の母とでもいいたいほどの人だった。悲惨ならい病患者を放置するに忍びず、その後草津に行き、らい病患者の友となり、後らい病に感染した」

学園の初期に在学され、のち一橋大学を出られた坪田龍夫氏は、私に下さった手紙の中で、学園在学当時を次のように回想しておられる。「その当時の学園は、恐らく関西で最もユニークな、個性尊重の自由主義的な教育で、ほのぼのとした温かい雰囲気の中で、生涯で最も楽しい思い出の小学校生活を送ることが出来ました。あの楽しい小学生活ほどの思い出は、その後の人生になかったように思われ、学園は心のふるさととして小生の心に生き続けております」

最初から学園は一人一人を伸ばす少数教育であったために、その経営は常に赤字で、専ら校主岸本氏個人の私財によって支えられたが、日本は太平洋戦争に突入して、岸本家も私学経営どころではなくなり、廃校を決意された。岸本家としては戦時中のやむを得ない処置だったと思う。
しかし父母たちは、この学園の教育を心から愛し、父母たちが経営者となって、他の場所に学園を存続させることを決議した。父母・教師・生徒は、しばらく中山寺などを借りて授業を行い、やがて22年10月、父母たちが力を合わせて現在の豊中市宮山町に校地を得て、そこに校舎を建て、一つ一つ校舎を建て増して行った。校名も箕面自由学園と改めた。そして中学をつくり、高校をつくり、最後に幼稚園をつくって、幼・小・中・高を持つ学校になったが、依然として私塾といってもよい少数教育だった。

私が幼稚園長・小学校長・中学校長・高等学校長を兼ねて、校長に就任した昭和43年の生徒数は、幼稚園104人、小学校141人、中学校50人、高校391人、計686人という小さな学校だった。
こういう小さな学校を経営し存続させて行くために、倉智氏、大野氏、槙野氏と続く理事長、財務理事の稲垣氏の苦心は非常なものだった。校長としての私にとっても、これは苦しい課題だった。
現在、在籍者数は約2倍の1300人となり、校舎も増築し、寄宿舎をつくり、大体育館も建設された。人間はどんなときも、苦しみつつも夢を抱いて、未来を望み、希望と勇気をもってがんばって行くよりほかはない。


小学校教育
昭和55年私は高齢になったので、学園の機構を改めて、私は学園長として全体をまとめる役となり、高校長・中学校長・幼稚園長はこれまでの主事を校長・園長として、それぞれの責任を負ってもらうことにしたが、小学校だけは、学園の都合で私が全責任を負わなければならないことになった。小学校は人間形成の上で非常に大事な時期なので、引き受けた以上は、私の教育人生の最後を小学生を対象としてがんばってみたいと決心した。

小学生は実にかわいい。私はこの学園にきて12年、幼稚園児・小学生・中学生・高校生のすべてに誕生日のお祝いの葉書を出し、お正月にも全部に賀状を出して、心の交流をはかっているが、小学生のよこす手紙や葉書は実にかわいい。いつか次のような手紙をくれた小学校の1年生があった。

こうちょうせんせい、おはがきありがとうございました。わたしはべんきょうがだいすきです。本をよむのも大すきです。1ばんとくいなのはさくぶんです。
このあいだプールにいったときのことをわたしはさくぶんにかきました。あのときはなきましたが、このごろはなかなくなりました。これからもがんばりますからみていてください。
わたしのなまえのすみれというのは、おとうさんもおかあさんも、しょくぶつがすきなので、すみれというなまえにしたそうです。すみれはすこしぐらい日のあたらないところでも、石がごろごろしているところでも、げんきよくはえていて、かわいい花をさかせて、みる人のこころをたのしませる花です。そうせきという人が「すみれほどな小さな人にうまれたし」と本のなかにかいているそうです。それでおとうさんとおかあさんが、わたしが、すみれの花みたいな人になってほしいとかんがえて、名まえをきめてくれました。わたしは大きくなってから、いい人になりたいとおもいます。せんせいもげんきでいつまでもいてください。

教育者として、80歳になってもなお明日への夢を抱いて生き得るのは幸せである。健康も悪くはない。学園は桜井駅の近くにあるが、私は毎朝運動のため乗り換え駅の石橋で電車を降りて、半時間歩いて登校する。就任以来ずっと続けているが、歩行のスピードは落ちていないようだから、まず健康なのであろう。
しかし、健康で働き得る残りの年月はどのくらいなのであろうか。


『人間の幸福と人間の教育』矢内 正一著(昭和59年9月30日創文社) より

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矢内 正一“一隅の教育者の自叙伝”より 8/10

2007年02月18日 | 学校・教師考~矢内正一先生
定年で退職
「入学試験は、日本の教育をゆがめるものとして大きな問題になっている。入学試験は、決して公平に人間の学力をはかりうるものではない。将来の学力がどう伸びるかの可能性をはかりうるものでもない。追跡調査をしてみても、入学試験が入学後の成績と一致するものではない。まして創造力とか指導性とかをはかることは、今の入学試験ではとうてい出来ない。

私も今日まで一万人以上の学生・生徒を教え、ある者はすでに70歳を越しているが、学問だけからいっても、中学時代に一向ふるわなかった者が、何かに発奮して大学では最優秀な学生になったり、成績は悪かったが、社会人としてすばらしく伸びた者も無数にある。人間の価値はある一面だけでとらえてはならないし、また今の状態で直ちにその将来をはかるべきものではない。

殊にまだ本質的なものが出ていない小学生を、不備な入学試験で合格者と不合格者に分けることは、私としては教師の仕事のうちで一番つらい仕事だった。
関西学院中学部の入学試験を受けて落ちた生徒すべてに、私が激励の手紙を出すようになったのは、まだ小さい少年がこの不合格のゆえに、自分はだめだと絶望したり、劣等惑を持ったりすると、これほど残念なことはないと思ったからである。そして、この失敗の中から多くの教訓を得て、この失敗がかえって将来の大きな躍進の源となるなら、これほどうれしいことはないと思ったからである。

少年たちからは種々の返事が来た。ある小学生は次のように書いた。 「ぼくの努力が足りなかったのです。はじめて体験する悲しみですが、いつまでも悲しむのはやめにします。先生からいただいたお手紙をぼくは何べんも読みました。暗記するまで読みました。努力すればぼくだって人に負けないりっぱな人になれる、という自信を持つことができるようになりました…」

健康に恵まれ、天分に恵まれた者に対しては、その健康と天分とを祝福してやり、彼らを激励して、人類のためにその生涯を捧げる決心をさせるべきであろうし、健康を失い、天分の乏しい者に対しては、これを温かく包み、いたわり、励まして、一人一人がその生存の意義を全うするのを助けるのが教育者の使命であろう。

私は多くの夢と理想を持ったが、未熟なままで昭和40年満65歳の定年に達して、関西学院を退職した。これまで私を包み育ててくれたすべての人々、長い間の協力者であった関西学院の同僚の人々に対し、また幾千人の関西学院での教え子とその両親たちの好意に対して、感謝の思いの尽きぬものがあった。


教育委員になる
関西学院を定年で退職する一年半前の昭和38年10月から、西宮市の教育委員を兼ね、翌年から教育委員長になっていたので、40年関西学院を定年退職してからは、西宮市の教育委員長としての仕事に専念することになった。私が教育委員を頼まれて引き受けたのは、小幼の教育の大切さを痛感していたからであり、小幼の教育に関係してみたいと思ったからであるが、教育委員長として、色々の問題にぶつかり、色々のことを学んだ。

公立の小学校・中学校・幼稚園は、様々な境遇の子ども、様々な能力の子どもたちの集団である。サリドマイド児の小学生がいて、足に鉛筆をはさんでノートに字を書くことの出来る特別の机を、いろいろ工夫してつくったこともあった。ある日突然母が蒸発し、まもなく父も蒸発して、さびしく残された不幸な子もあった。差別に悩んでいる未解放の子どもたちの深刻な間題もあった。いくら勉強しても点数のとれない子の問題、身体障害の子どもの問題、こういう問題と直面しなければならなかったことは、私にとって、教育者として意義の深い体験だった。こういう苦しみをもつ人が世の中にたくさんあるとき、幸せな人間は何をなすべきかということを私はしみじみと考えた。


教育正常化運動
私が教育委員長をした時代は、西宮市の財政が豊かで、教育費も多く、教育行政のやり易い時期だった。学校の設備も充実して行き、社会教育のための公民館が次から次へと建てられて、日本全国の注目をあびた。
しかし「文教住宅都市」であるということは、学歴社会の日本では「受験教育過熱都市」という傾向を深めて行くことになった。受験塾がいたるところに乱立した。受験準備過熱は小学校下級にまで及んだ。ある日の幼稚園長会で、ある幼稚園では3桁の掛け算・割り算が出来るが、20m走らせると一番びりだし、洋服を自分で着ることも出来ない、というような子どもがいることが報告された。全国的に、勉強のよく出来る生徒は利己主義者になり、出来ない生徒は点数競争に脱落して非行化するという傾向が社会の問題となり、兵庫県も高校入試に学科試験を廃し、東京都は学校群制度によって、受験教育の過熱をおさえようとした時代だった。

こういう時代の姿を憂えて、西宮市も教育正常化運動を起した。運動の中心となったのは教育長の刀禰館正也氏で、委員長の私も協力した。刀禰館氏がよく口にしたのは、「一人では何も出来ない。しかし一人が始めるのでなければ何事も出来ない。その一人になろう」という言葉だった。「人間回復の教育」「全人教育」を主張する理想主義的な教育運動だった。刀禰館氏はこの精神を国政に生かそうとして後に代議士になったが、若くして病に倒れたのは本人にとっても最大の痛恨事だったにちがいない。 」


『人間の幸福と人間の教育』矢内 正一著(昭和59年9月30日創文社) より



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矢内 正一“一隅の教育者の自叙伝”より 7/10

2007年02月18日 | 学校・教師考~矢内正一先生
中学部の教育
「関西学院中学部の教育はキリスト教を中心とし、知育・体育・徳育のバランスのとれた教育をしたいと私は心から願った。毎朝全校の礼拝があり、私もそれに必ず参加した。中学部長になってからも、私は週に12時間の授業を最後まで担当した。私の英語の授業はきびしくて、生徒にはつらかったようだ。毎朝始業前に生徒の有志と1700メートルばかり走ることも10数年続いた私の日課だった。

愛すべき生徒が多かった。1人の生徒は次のような文を書いた。
僕は小学校のころは野球がすきでしたが、中学部ではバレーボール部に入りました。3年になって一つの悩みがありました。それは一年の部員が少なく、2学期には1年は1人だけになってしまいました。その子は1BのM君でした。体が大変小さいので、なかなかボールがうまく扱えませんでしたが、毎日練習をしていました。
2学期のある日、練習を終ってから上ケ原の道を走り、1周して帰って来た者から帰宅することにしました。大きな3年生にまじり小さなM君も走りました。そして皆に大変おくれて帰って来ました。もちろん一番びりでした。
僕とキャプテンと2人残っていて、帰って来たM君と3人でお祈りをしました。祈ることはバレー部の習慣でした。練習のあとみんなで輪になってだれかが祈るのですが、その日は他の者を先に帰らせましたので、3人だけで祈ったのです。すると祈りの途中でM君が泣きだしたのです。それで"練習がつらいか"とききますと、"つらくない"と答えたのですが、きっとつらかったのだろうと思います。 僕は次の日にM君が来るだろうか、つらくなってやめはしないだろうかと心配しましたが、次の日にM君はやっぱりいつものように来ていたので、ほっとするやら、うれしいやら、ほんとうに感激しました。
今では1年の部員も増えました。僕は下級生をしっかり練習させ、団結力とファイトを養いたいと思います。安心してあとをまかすことの出来るバレー部にすることが僕の願いであります。

私は昭和32年欧米を旅して、英国ではイートン、ラグビー等たくさんのバブリック スクールを見、ますますこれらの学校の教育がすきになった。これらの学校は宗教、スポーツ、寄宿舎を重要視しているが、これらの学校のような行き届いた皆寄宿制度は日本ではなかなか困難なので、中学部ではキャンプによる鍛錬を計画し、入学と同時に全生徒を千刈のキャンプ場につれて行って宿泊訓練をし、夏は海のキャンプ場において生活訓練をした。
中学部は、昭和37年瀬戸内海の無人島(青島)を専用のキャンプ場として買った。青島は岡山県の牛窓の沖にある約11万平方メートルの島で、生徒たちは毎年汗を流してこの島を開拓し、幾棟かの宿舎が建って大変いいキャンプ場になったことは、私の心からの喜びであった。

中学部は500人の小さな学校で、休暇などにも全校の生徒に対し、私が1人1人文通出来たことは、私と生徒との心のつながりのもととなった。私は返事を出すのではなくて、私の方から先に、お正月と夏休みに1人1人の個性に合わせて激励の言葉を書いて、全校の生徒に葉書を出した。これはむしろ私の趣味だったかも知れない。中学生は実にかわいかった。「なぜ世間の人は中学の教師にならないのだろう」と、私はよく人に語った。 」


『人間の幸福と人間の教育』矢内 正一著(昭和59年9月30日創文社) より

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矢内 正一“一隅の教育者の自叙伝”より 6/10

2007年02月17日 | 学校・教師考~矢内正一先生
教師の道を選んで
「人生の問題に興味があり過ぎて、私は商業の実務的な学科には興味が持てなかったが、経済思想史のようなものには心をひかれた。河上肇博士の本も主なものは読んだ。『資本主義経済学の史的発展』や『貧乏物語』などは繰り返して読んだ。思想的にはついて行けないところがあっても、河上肇氏の文には人をひきつける魅力があった。
本位田祥男氏の『消費組合運動』という本を読んで深く共鳴し、私の生涯をこの運動のために捧げようかと思ったこともあるが、結局は私の性格その他から考えて、教師の道をすすむ決心をするようになった。人間はその性格に合った職業を選んで、それに全力を尽すことによって、神と人とに仕える以外に道はないと考えたからである。

関西学院には宗教や人生の問題を考えさせる雰囲気とともに、英語を重視し、これに興味を持たせる校風があって、4年の課程のうち、最初の2年は英語の時間もずいぶん多かった。そういうことから、学校の学科のうちで一番自主的に勉強したのは英語だった。英語といっても話す英語は不得意で、もっぱら読む英語だったけれど、関心のおもむくままに種々の作家のものを読んだ。
英文科に入っていたらよかったのにと思うことがしばしばだった。ついに英語、英文学の研究にこれからの生涯をゆだねようと決心して、高商部を卒業するとともに関西学院中学部の英語教師となった。大正13年4月のことだった。

関西学院高商部を同期に卒業したのは130人ぐらいで、その中には学者としては会計学の青木倫太郎君、政治家としては後に農林大臣になった永江一夫君、実業家としては大阪瓦斯の社長になった藤坂修美君、阪急百貨店の副社長になった村上元吾君などがある。
卒業したころ永江と村上と私とが集まると、永江は政治家としての理想を語り、村上は実業家としての夢を語り、私は若い教師として一心にハーディなどを読んでいた。めいめいすきな道を歩んで来たという点では、3人とも悔いはなかったと思う。

神戸は我々が若い学生時代を送った場所として懐かしい町である。用事がなくても時々歩いてみたい町である。関西学院のあった所も今はすっかり変ってしまったが、いま王子公園で王子図書館になっている建物は、昔の関西学院の礼拝堂であった。昔あった尖塔は切り取られているが、赤いれんがの色は昔と変らない。

寿岳しづさんの『朝』という小説に次のような一節がある。 「昨日で試験が終ったのか、丘の緑は眼に染むばかりで、チャベルの鐘も今朝は鳴らなかった。なだらかなたかみの方へ讃美歌を歌いながら登って行く学生があるのも、のびのびした試験後の気分らしい。小高い丘の上には外人教師の邸と並んで神学部の寮舎があった」
寿岳しづさんは、文学部に在学しておられた私たちより一級上の盲目の学生、岩橋武夫氏の妹さんで、岩橋氏と同じクラスの学生だった寿岳文章氏の奥さんになっておられる人である。この小説を読み返してみると、あのころの学院風景が懐かしく目の前に浮かんでくる。

私が中学の教師になったころ、職員室でみんなから敬愛されていたのは教頭の真鍋由郎氏であった。この人は博物の先生で「真鍋ウナギ」というウナギの珍種を発見された人であるが、絵をよくし、漢詩に親しみ、『頼山陽と京阪』『先賢群像』などの本を書き、新村出先生もこれらの本を高く評価された。
いつか職員室で、何かのことからミミズが話題となったが、真鍋先生はミミズを礼賛して、「ミミズのように生きたい」と言われた。先生を心から敬愛していた池部先生が、「しかし園芸家はずいぶんミミズをきらいますよ」と言うと、先生は「ミミズを攻撃しないでくれ。他の動物を殺して食べたりしないで、あのように土だけ食って生きているものを悪くいうのはかわいそうだ。私はミミズの弁護者であり、ミミズ賛美論者だ」と言われた。

真鍋先生は篤信のクリスチャンだった。上級生と下級生とが対立して騒動になったとき、先生が「下級生に代って私があやまるから」と言って、講堂の床の上にすわって上級生に謝られたので、いきり立った上級生も、真鍋先生の深い人格に感激して騒ぎがおさまったというようなこともあった。

私が就任した年の夏・真鍋先生は腸チフスで入院されたが、病床から寝たままで書かれた先生の葉書が私のところにとどいた。新しく教師になったばかりの私に対する温かな思いやりに満ちた助言がこまごまと書かれていて、1枚の葉書がこのような喜びと励ましとを与えうるものだということを教えて下さったのは真鍋先生だった。

関西学院は昭和4年、神戸から西宮の郊外、上ケ原に移転した。そのころから私は高商部の教師になるよう、高商部の神崎部長や恩師の牧岡先生からしきりににすすめられた。私は中学部の教育を楽しみ、生徒たちにも愛着を感じていたので、高商部へ移ることを何年も断っていたが、繰り返してすすめられるので、昭和7年高商部の教授になった。
中学部の教師をしていた間に、健康もようやく良くなって、結婚をし、長女も生まれた。幸福に好きな英語・英文学の勉強をした時代だった。高商部に移った私は、英語の授業の上に学生指導の責任を負わされ、心を労することも多かったが、学生との接触は深くなり、私が教師の幸福をしみじみ感じた時代であると言えよう。

田舎から出て来た学生で、学校をさぼってずるずると欠席するのを落第させないように、下宿へ起しに行って出席させたりした。同窓会などで古い卒業生が、よく私にしかられた思い出を話す。しかし、よくしかった学生ほどお互い親近感が深いような気がする。よくしかる教師は第一流の教師とは言えないが、「おこる教師は必ずしもたちの悪い教師ではない」と言ったら、それは自己弁護に過ぎるであろうか。

やがて満州事変、それが中国へと拡大して、日本の非常時は次第に深刻になって行った。私ももう40歳になろうとしていた。池大雅は年30に及んだとき、意のごとく技の進まないのを憂えて、祇南海に教えを乞うたというが、私も40に近く、人間としての私自身の未熟を憂える気持が強かった。そのころ高商部の雑誌に次のような文を書いている。

  病弱に苦しんでいた学生時代の日記の見返しに、「人間の身の苦しやと思うとき落つる涙の甘き味わい」という与謝野晶子の歌を書きつけていたことを思い起す。人の世の苦難の中からあふれ出る涙にこそ、真の人生の醍醐味があるのだというその歌の心は、病弱に苦しむ私の胸に強く響いたものである。この時代からすでに20年に近い歳月が流れた。日記の見返しに書く言葉もいろいろの変遷をたどって、この頃の日記の見返しには、「この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草とるなり」という古い歌を書き記しているが、20年の間に私がどれだけ進歩したかを考えると、ほんとうにさびしい。
しかし、ともかく私はこの天命を知った歌がすきである。ある音楽ずきの青年に西田天香氏が、「洗濯のバサバサいう音の中に、べートーベンの音楽以上の音楽を感ずることが出来ませんか」と言ったという話を、先年一燈園の田北氏から聞いて深く心を打たれたことがある。私などはまだ一合目にさえ達していないという感じがしたものである。

しかし、道はいかに遠くても勇気を失ってはならないと思う。何十年のたゆまぬ読書も、思索も、洗濯のバサバサという音に天来の声を聞き、野の花に天国を見るような境地に人間の心を導いて行くのでなければ、それはむなしい篤学ではないだろうか。

学生の有志たちを集め、奉仕の実践をする会をつくって、学校の内部で、または民家に出かけて、学生とともに奉仕の実践をしたのはその頃である。夏休みには遠く瀬戸内海の本島にその学生たちと合宿して、勤労奉仕をしたり、学生生活のあり方、人間完成の問題などを一緒に考えたりした。集まった学生はいい学生が多く、むしろ私が教えられることが多かった。島の合宿は何年も続けて夏ごとに出かけた。

そのころ満州へ全国の旧制高校、専門学校の学生を各校から5人ずつ選んで送り、一夏働かせることが数年続いた。その第1回の年に、私も付添いとして行くことを学校から依頼され、1ヶ月学生と共に汗にまみれて満州で勤労奉仕をしたことがあるが、学生たちにとっても私にとってもいい体験だった。

終戦に近い19年、私は中学部の教頭になり、戦後の22年に中学部長となった。私は十数年も高商の学生を教えて、教師の喜びを味わっていたのだし、中学下級生の扱いは自信がなかったので、中学部に行くことはずいぶん躊躇されることであった。私が決心して引き受けたのは、小川未明氏が、いろいろの社会改造の運動をしたが、結局少年少女の心に美しい精神を植えつける以外に社会をよくする道はない、と考えたというのと同じような気持からだった。

聖書にも、「汝の若き日に造り主をおぼえよ」という言葉があるが、教育は下ほど大切であるという考え方が、私に勇気と決断を与えた。
 少年の心に種をまく
関西学院の教育はキリスト教教育であり、教師の信仰は重大な問題である。
私がキリスト教に接したのは関西学院に入ってからであった。すでに20歳だったので、ニュートン先生、べーツ先生、吉岡先生などのキリスト教的人格に強く心を打たれながら、キリスト教の教義の問題になるとひっかかるところが多くて、私が洗礼をうけるには長い年月を要した。それを解決し得たのは、日本人の心を深く理解した原田美実牧師のおかげである。原田先生は長く川合信水先生に心酔しておられ、私も原田先生に導かれて川合先生の門に入り、川合先生から洗礼をうけた。

  川合先生のことは、岩波書店から出版されている大塚栄三氏の『郡是の川合信水先生』にも書かれている。東北学院出身の牧師であり、教育者であった。
郡是製糸にはいられたのは45歳の頃であるが、郡是は従業員の教育を託する人を求めていて、川合先生という立派な人があることをきいて、「ぜひ来ていただきたい」と先生に交渉した。波多野鶴吉社長は、「従業員たちは親から委託されたものであるから、これを教育してよい人にしたい」と言ったが、先生はこれに答えて、「従業員をよくしたいと思うなら、まず第一にあなた自身がよくならなければなりません」といわれた。波多野社長はえらい人で、「まず私から御教示を受けたいと思いますから、どうかおいでを願いたい」と言った。

社長の片腕だった片山金太郎氏も、社長とともに川合先生について修業し、川合先生の最高の弟子の1人になった。社長と専務とがこういう態度だったので、従業員の教育はすばらしい効果をあげた。旅行者が野道を歩いていて畑仕事をしている娘さんに会う。「よい娘さんだな」と思ってその辺の人にきくと、「あの娘さんは郡是に行っていましたから」と答える。それほど教化が効果をあげていたといわれる。
郡是をやめられた後は、故郷に近い富士吉田市の「不二山荘」においてキリスト教を教え、道を説かれた。そして日本のことを常に憂え、日本のために祈られた。「日本が滅びないでいるのは、どこかで義人が祈っているからだ」と常に言われた。

関西学院中学部の教育の中心はキリスト教精神であり、純な若い魂の中にキリスト教精神をしみ入らせることは私の心からの願いであった。中学部の卒業生で、長く外国の大学で研究して帰国し、いま立派な学者になっている一人の卒業生は、学院の思い出を次のように書いている。

むしろ世界の孤島で不毛の心を持ち続けたかも知れない私が、少年のころキリスト教教育をうけたことによって、未知の世界に心が開けたということが、今の私には何にも増して重大なことであったと思えます。私どもにとって大事なのは、個人一人一人の尊厳ということと、車の両輪のように人類全体の運命ということが心に刻まれていなければならないという発想は、もしも私が中学部に学んでいなかったら決して生まれていなかったと思うのです。

この卒業生は「人類全体の運命」と書いているが、現代世界の最大の問題は、原水爆が日日進んで行きつつある中に、人類が生き残れるかという問題である。
ユネスコ憲章は、「戦争は人の心の中で生れるのであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という。教育の使命、殊に宗教教育を行う学校の使命は大きい。私は少年の心に種をまくことの意義を信ずる。 」


『人間の幸福と人間の教育』矢内 正一著(昭和59年9月30日創文社) より

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矢内 正一“一隅の教育者の自叙伝”より 5/10

2007年02月17日 | 学校・教師考~矢内正一先生
学生生活
「関西学院での学生生活の4年間は、私にとっては病気療養の続きの時代で、すきな剣道がやれなかったのは今考えても残念だと思っている。当時関西学院はすぐ隣に、神戸高商(今の神戸大学)というスポーツにおけるラィバルを持っていた。当時の神戸高商は歴史も古く、スポーツでも日本有数の名門校だった。

専門部が出来てから、関西学院のスポーツは専門学校としても急速に力を加え、私の入学した頃はすでに日本的な存在となっていて、神戸高商のスポーツと対立していた。それが全学生の愛校心を沸き立たせ、学生を団結させた。これはスポーツだけではなく、関西学院の学生生活全般の刺激となった。

そして関西学院の学生は、独自の関西学院精神を持っていなければならないと常に強調された。私の興味も関西学院の精神である人間形成の問題に主として集中されるようになった。関西学院では専門部も毎日礼拝の時間があり、20分ぐらいの話をきくことは私にいろいろな意味で刺激となった。英文学者であった佐藤清先生は、「およそ人間として尊いのは、真理を愛する学者、善を行なう善人、美を追求する芸術家、この三種類の人間である。これ以外の人間は人間というには余りに遠い」と力強く語られた。後に神戸一中の校長となられた池田多助先生は、スポーツ・勉学・宗教にわたって学生生活の理想をさし示されたし、河上丈太郎先生はまだ若く、雄弁をもって学生に感化を与えられた。

人生において最も尊いものは何か、という問題は常に我々に投げかけられた課題だった。そういう日々の刺激があって、私の関西学院4年の学生生活は、人生の問題を深く考えることに中心をおいた生活となり、本も主としてそのようなものを読んだ。

倉田百三氏の『出家とその弟子』や、『愛と認識の出発』が出たのはその頃で、当時のベストセラーだった。下宿の部屋で、強い感激をもってこれらの本を読みふけったことを思い出す。倉田氏の本から西田幾多郎氏の『善の研究』に導かれた。
「下宿の部屋に、私はミレーの「晩鐘」の複製の額をかけていた。これは当時私のすきな絵で、長年私の生活の友となった。その絵のムードが私はすきだった。この絵に表現されているものは神と愛と勤労だった。忠実な勤労、男女の協力と愛、そして神に対する敬虔な祈り、その絵の描き出しているものが私の深いあこがれとなっていた。
賀川豊彦氏の『死線を越えて』や西田天香氏の『餓悔の生活』が出て、ずいぶん売れたのもその頃だった。武者小路実篤氏の文学に親しみ、『新しい村』の運動に興味を持ったのも、トルストイにひかれ、聖フランシスの伝記などを愛読したのもこの時代である。
漱石のもので一番すきだったのは『こころ』だった。主人公である「先生」を自殺からのがれさせる道はどこに開かれているのだろうか、という問題を解くことは私にとって大きな課題だった。 」


『人間の幸福と人間の教育』矢内 正一著(昭和59年9月30日創文社) より

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