美と知

 美術・教育・成長するということを考える
( by HIGASHIURA Tetsuya )

矢内正一先生のこと2

2007年02月22日 | 学校・教師考~矢内正一先生
私の中学時代の直接の恩師である甲斐淳吉先生が、矢内先生について書かれたものがありますので掲載させていただきます。美術教師の視点で、当時を伝えている文章です。
中学部図書館にも保管されている、中学部4回生の文集(平成4年刊)に「追想・矢内正一先生」として寄稿されたものです。


○ 矢内先生との出会い
昭和20年3月、就職の件で関西学院中学部(旧制)を訪ねることになった。公立校へ就職するつもりで、話をすすめていたが、気にいらず、思案していた頃、知りあいのT先生(中学部勤務)にすすめられてのことだった。
戦争末期のその頃は、勉強どころではなく、動員体制下であり、先生の数も応召や徴用の影響で、大変不足しており、どこの学校も困っていた。よい先生をというより、労働力がほしい時代だった。中学部でも、勤労動員で2年生以上は工場へいっており、1年生も間もなく動員された。本来の中学部校舎は既に予科練に接収されており、部長との面接は移転先の高商の校舎で行われた。
主に部長の畑歓三先生が心構えのようなことを話され、教頭の矢内先生からは履歴的なことの質問があり、10数分で面接は終ったように思う。退出するとき、矢内先生が、こういわれた。「私はどうも話しにくいとの評判なので、もし相談があれば、T先生を通じていってくださってもいいですよ」。初対面の矢内先生は、国民服にゲートル姿で、目こそ鋭かったが、非常にものやわらかで、話しにくい先生とは思わなかった。
古武士のような畑先生と、禅僧のような矢内先生、今までに出会ったことのないようなお2人の先生にお目にかかれ、不思議な感動を覚えた。お二方を通じ、関西学院にふれた思いがしたといってよい。

○矢内先生と文化祭
新制中学部は草創期(昭和22年-25年頃)を経て、昭和26年、第1回体育大会、翌々年の昭和28年には第1回の甲関戦(甲陽学院中学校との定期試合)が始まり、矢内先生の教育目標とされた、知、徳、体の三本柱は着々と成果をあげつつあった。
一方施設面でも別館が竣工し、理科、美術、音楽などの特別教室ができることにより、授業はもとより、文化部のクラブ活動もやりやすくなった。発表の場である文化祭は、昭和32年から企画されてはいたが小規模な学芸会程度のものだった。そのころ近隣各校でも文化祭が学校イベントとして盛んになり、それらの刺激もあって、中学部でも、出来れば体育大会なみの全校あげての行事にしたいものだと考え始めていた。
昭和36年、第5回文化祭から展示とステージをあわせた総合的な文化祭が生れることになった。30年も前の話で記憶もうすれているが、矢内先生が文化祭直後の感想としていわれた。「よくこれだけのことを生徒たちがやるなあ」と感嘆の言葉を何度か出された。生徒たちが自主的に活動してなしとげたことに対して先生はよほど感心されたのだと思う。
それと「ぼくにはわからん」と困ったときによくされる、あの頭に手をおかれる仕ぐさをされた。スーパーマンの矢内先生も、文化祭は未開拓の分野だったので、多分謙遜から出た言葉だったと思う。
先生は「ぼくは、オンチだ」ともよくいわれていたが、絵は造詣が深く、また生徒にも、いつもよい絵にふれさせたいと願っておられたようだ。各組の教室に名画の額を2枚ずつ掲げることを提案されたり、父兄の天羽義安氏(4回生、天羽均君の父上)をわずらわし、夏休みにパステル画の講習会を催した。この企画は夏休みの行事として10数年も続いたのは天羽先生のご奉仕と、矢内先生の熱意の賜物によるものだ。そのほか、あげていけばキリがないが、戦後のキズあともまだ生々しい日本に、うるおいをもたらしたマチス展を校外学習の形で観にいった懐かしい企画も、矢内先生から出たものと思う。

○ 矢内先生と年賀状
先生は、著書『人間の幸福と人間の教育』の中で「全校の生徒に対し、私が一人一人文通出来たことは、私と生徒とのつながりのもととなった。私は返事を出すのではなくて、私の方から先に、お正月と夏休みに一人一人の個性に合わせて激励のことばを書いて、全校の生徒に葉書を出した。」と記しておられることから、先生がこの賀状と、暑中見舞に力をそそいでおられたことがわかる。
先生は、いつのころからか、年賀状や暑中見舞状にイラストを加えられ、温かで、なごやかな雰囲気を上手に出しておられた。昭和34年から関西学院を退職される年の昭和40年まで、先生のアイディアで私が似顔絵をかいた時期があり、保存している方もあると思う。あの、おつむの曲線に苦労したのを懐かしく思い出す。
箕面自由学園へうつられてからは、ご自分で優しさと、雅趣に富んだ絵をかかれるようになった。ひと頃、墨絵を習っておられたのであのような、味わいのある絵ができたのではなかろうか。

○ 矢内先生を描く
昭和59年3月にお亡くなりになり、先生の肖像画制作のことが当然のことながらもちあがり、小林宏高中部長からその話の依頼があった。一年祭に間にあうようにとのことだったが、油絵の肖像画は初めてのことで、準備段階で手間どり、本格的にかき出したのは、年が明けてからのことだった。
制作中、体形のことや、服装のことでわからないことが生じると、奥様を訪ねたり、電話で教えていただいたりの苦労もあったが、期限いっぱいかかり、どうにか出来上がった。
肖像画は今、中学部の講堂に掲げられている。見る時によって、先生のお顔が、「厳しい目をしておられるときと、優しいお顔のときがある」と複数の先生から聞いた。作者としては、絵が既に一人歩きしていることになるので誠にありがたく思っている。まだ見ていない人は、一度、対面して、どんな顔をされるか確かめてほしい。



『矢内正一先生像』元関西学院中学部美術科教諭 甲斐淳吉作
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矢内正一“関西学院教育について”(『一隅の教育』より)

2007年02月22日 | 学校・教師考~矢内正一先生
関西学院教育について

私学は「プロテスト・スクール」だといわれる。国公立の学核に対して関西学院は何をプロテストするか。宗教級育を法令で禁止されている日本の国公立の学校に対して、キリスト教教育を行う学校、人間形成の根本を宗教におき、宗教によってこそ真の人間形成が出来るのだという信念に基づく教育を成す学校として関西学院は存在している。

牛鳥義友氏は比較教育学の立場に立って、九州大学の共同研究の結果をまとめて『日本と西欧の人間形成』という本を書いた。色々の方法で日本と西欧との人間形成の状況を比較調査しているが、小学校5年生に、「お父さんやお母さんを助けるためなら、自分はどうなってもかまいませんか」という質問に対して、日本の小学校5年生で「はい」と答えたのは56.6%、同じ問いに対しドイツの小学校5年生は91.5%が「はい」と答え、イギリスの小学校5年生は97.7%が「はい」と答えている。高等学校2年生の人生目的について日英を比較すると、「すべてを社会にささげてくらす」というのに○印をつけた日本の高校生は4.3%しかなく、英国の高校生は14.5%がこれに○印をつけている。「自分の趨味にあったくらし」というのに○印をつけたのが、日本の高校生では最も多く46%であるが、英国の高校生でこれに○印をつけたものは17.4%にすぎない。

こういう統計をあらゆる角度から積み重ねた後、牛島氏たちの研究グループは、日本の人間形成の失敗を悲しみつつ、西欧の家庭を研究し、社会を研究し、学校を研究して、日本と比較しているのであるが、日本の学校と英国の学校とを比較して、日本の学校は宗教教育がなく、入学試験を中心とした知育偏重の教育であるのに対して、英国の学校は人物養成を主眼とした教育で、幼稚園から義務教育の期間を通じて毎朝礼拝があり、週2時間から4時間の宗教の時間があることを指摘している。

日本は社会も家庭も学校も宗教を持たない現状である。だから小学生のものの考え方も高校生のものの考え方も宗教から全く離れている。牛島氏の調査では、日本の小学校5年生で神や仏に対して否定的態度をとり、人間万能的な考え方を持つ者が69%、英国の小学校5年生ではこのような考え方の者は6%しかいない。日本では社会そのものが宗教に無関心である。

ケネディの暗殺されたとき、ケネディに関する評論が日本でも色々の新聞や雑誌にとりあげられたが、「その中には、ケネディは人類への義務感によって支えられていたという評論はいくつかあったけれども、その義務感の奥にある宗教的信念まで言及したものは一つもなかった」と猪木正道氏は日本の評論の浅さをなげいている。

森恭三氏もある座談会で、「日本は宗教を見失ってしまった世界で唯一の国ではないかと思います。現在の日本には宗教がない。生きるための戒律が何一つない。私利私欲が唯一の生活の指導原理なのです。ここに日本の弱点が出ていると私は思うのです」といっている。こういう日本で、高校2年生で「奉仕」を人生目的とする者が非常に少なく、学問に生涯をささげようとする者も極めて少なく、趣味にあった暮らし、のんきに暮らすことを人生目的とする者が多くても不思議ではない。西欧の人間形成がいかに深く宗教とつながっており宗教を否定するところに人間形成がいかに困難であるかということを牛島氏の書籍は示している。

学校の教科書を見ても、欧米の学校の教科書の底には深い宗教性が流れている。スイスの小学校の教科書には「愛する神さま、くらやみになりました。誰も道に迷いませぬように。良い夢を私にお与え下さい。私も静かに眠れますように。朝になりましたら私たちに日の光りをお与え下さい。明日も私たちが楽しく過ごせますように」というような言葉がある。神と人との前に、その義務と責任を自覚する市民を育て上げることを学校教育の目的として、深い宗教性や人間への愛情が教科書にも深くしみわたっている。私が若い頃に英語の勉強のために読んだ『ユニオン・リーダ』にしても、当時全くキリスト教に無縁だった私にキリスト教的人間像を示してくれた本だったと言える。私の胸をうったのはその本にあふれているアングロサクソンの深い宗教心と堅固な道念であった。私はその後病気になり、田舎で2年も療養の生活を送った後に、勧める人があって関西学院に入学したのだが、入学試験の口答試験で私はニュートン院長にはじめて接し、深いキリスト教信仰に生きる人の持つ風格に深く打たれた。この人にふれることによって、関西学院がどういう学校であるかということが感知された。私は関西学院に入ったことに実に深い喜びを感じた。教育とは、生きた人間による生きたインスピレーションであることを、私に教えたのはニュートン院長だった。私の入学後まもなく、ニュートン先生は院長をベーツ先生にゆずられ、2年ばかり引続いて授業を担当されたのち米国に帰られた。それ以後長く私はベーツ先生に接したが、晩年病気で廃人のようになられた奥様を乳母車にのせて、毎日いたわりつつ散歩されたあたたかいベーツ先生の姿は、私の脳裡から永遠に消えないであろう。私がしみじみ感謝をもってふりかえるのは、若い日にニュートン先生やベーツ先生に接しえたことである。
関西学院にキリスト教がなかったら、関西学院が過去にどれほど存在の意義があったか疑問だし、将来もキリスト教を失ったら、どれだけ存在の意義があるか疑問である。

私の在学当時は院長が自ら入学試験の口頭試問を担当するほどに家族的な学院だった。私のはいった高等学部商学科と名を改めた専門学校は、アメリカのカレッジに相当するもので、教養科目を多分に含みつつ専門教育をやるという4年制の専門学校であった。教師と学生との間にも、学生相互の間にも心の通い合う学校生活があった。隣の神戸高商(今の神戸大学)との試合の激励会に全校学生が集まり、試合に負けて原田の森の夕暮の芝生で全校学生が選手を囲んで泣き、同窓の若い教授が立って選手を励ます悲壮な演説をしたというようなこともあった。学校とはこういうものではないだろうかと、私は今も往時の関西学院をなつかしく思うのである。

つい思い出を書きすぎたようだ。関西学院教育の問題に戻って、私の中学教育についての考えを少し述べてみたい。ベーツ先生によってつくられたMastery for Serviceのモットーは、明確に関西学院の進むべき方向をさし示している。私は中学部の教育に当たって、わたくし流にこのモットーを解釈して、それをわたくし流に少年教育にあてはめた。

戦後の日本の教育では自由が大きく主張された。自由とは一つの道をのみ強制されることなく、何れの道をもとり得る選択の許された状態をいうのであるが、Aをとるのが正しいか、Bをとるのが正しいか、Cの道が正しいかを、十分に判断出来る価値観が確立しない者に、早く自由を与えすぎたところに、戦後教育の失敗があった。価値観が確立しても、正しいことはこれを実行出来ず、してはいけないことはこれをなすというのが人間の弱さである。意志の鍛錬を行わないであまりに早く自由を与えたところにも戦後教育の失敗があった。自由を早く与えすぎ、わがままに育てたことが「欲求不満耐忍度」をひくめ、少し苦しいことを要求されるとそれに耐えられないで、すぐに反抗しすぐに暴走する青少年を育てたと学者もいう。

そこで、中学部の教育は次のようなものでなくてはならないと私は考えた。
第一にキリスト教的な価値観を明確に少年の日に教えることである。建学の精神を深く身につけさせることが、我々の第一の教育目標でなくてはならぬ。戦後教育は生徒中心の自由な個性尊重の風潮であったが、何が正しく何が間違っているか、何が尊く何が克服されなければならないかが明確にされないで、生徒のエゴのままに放置された結果として、今日の安価な享楽と打算に生きる人間をつくりあげた。高貴な人生目的を持たない人間をつくりあげた。これにプロテストして、愛と奉仕の精神を強く教えることの出来る中学部でありたいというのが、私たちの第一の願いである。

第二には鍛錬の精神にみちた中学部でありたい。ベーツ先生の示された奉仕の目標に目を向けさせつつ、神につくられた無限の可能性を持つ少年を励まし、自己鍛錬に立ち向かわせなければならない>。「いかに奉仕の思いに燃えても、力のない医師は病人をなおしてやることが出来ないではないか」「いかに奉仕の情熱を持っても、泳げない者は溺れる子どもを救うことも出来ないではないか」とは、私の口癖のように言った言葉である。学力を鍛え、身体を鍛え、意志を鍛える中学部でありたい。そしてベーツ先生の評語のMasteryに至らせる。まだ価値観も確立せず、意志も弱く、放任すれば迷ってしまう弱い者を見守り、励まし、日毎の鍛錬を与え、やがていかなる艱難にもくじけず、いかに困難な状況の中にも良心の自由を貫き、神と人とに奉仕し得る人間に鍛え上げる仕事こそ教育者の最大の使命である。

教育は師弟同行の鍛錬である。今年の夏、青島のキャンプに参加した生徒たちは、リーダーに励まされながら最後まで走り抜いた体験、教師やリーダーと共に汗と土によごれながら青島の開拓に協力した体験、教師やリーダーといっしょに火を囲んで神に祈った時の魂の感動を、感謝を持って振り返っている。そこには鍛錬する教師やリーダーの愛が生徒の心の中へじかにしみ入っている。教育とはこのようなものなのだ。我々が青島を買った意義もそこにある。精神的にも、肉体的にも、学問的にも鍛えられて、自身と誇りをもって生徒が出て行く中学部でありたい

私は近く関西学院を定年で退職するが、ただ願うことは私の教えた人たちが、ますます信仰を深め、自己をますます鍛えて、世俗の成功を得るにしても得ないにしても、その持場において神に喜ばれる生涯を勇気をもって生きて行ってくれることである。そして、関西学院が神に喜ばれる学校として正しい発展をとげてくれることである。
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矢内正一『関西学院中学部甲麓』1965年より

2007年02月21日 | 学校・教師考~矢内正一先生
いよいよ3月で中学部長を退任することになりました。18年の思いでは書いても書いても書ききれないほどです。その思い出の一部ですが少し書いてみたいと思います。

まず思い出すのはかけ足のことです。私のかけ足は、生徒を鍛えるため、また私自身を鍛えるために、既に旧制中学の教頭だった時代からはじめていたのですが、新制中学部長になってからも、毎朝始業前に生徒の有志と上ヶ原の道を1700mぐらい走るのが私の日課でした。新しく入学した1年生たちに勧めると、はじめは180人殆ど全部が参加するのですが、だんだん減ってしまって、2ヶ月もたつと1年生が20人ぐらいになります。そして、2、3年生と合わせて3、40人が毎朝走りました。しかし、冬になって、朝起きにくくなると、10人ぐらいしか走らない日もありました。しかしどんな寒さにも負けないで、1日も休まずに3年間毎朝走った生徒もありましたし、中学時代の3年間だけでなく、高等部に行ってからも走り続けて、遂に6年間走ったという人もありました。いま米国で口腔医学の研究をしているM君でした。高等部卒業の時、「先生にかけ足の手ほどきをしていただいてから6年、その間に走った距離を計算すると、西宮から北海道の果てまで走ったことになります。感慨無量です。」と書いてよこしました。その体力と意志力を持って、彼はいま医学の研究にがんばっています。

このかけ足は11年ぐらいも続け、そのコースは「矢内コース」という名が付いていましたが、昭和33年頃、その矢内コースはトラックやバスの交通が激しくなり、道路上のかけ足はやめるようにということで、遂に停止しなければならなかったのはこの上もない残念なことでした。近年になって、学院内にかけ足のコースを設定して、冬期に全校の耐寒鍛錬をやるようになりました。これは矢内コースの復活ともいえますし、全校の生徒が弱くなって行くことを憂えたからです。こういうことをやらないと強い身体だけでなく、強い精神が育ちません。

鍛錬主義ということは私の教育方針の1つで、毎日の登下校に甲東園から中学部までバスに乗ってはいけない、ということは今日まで続けました。私も自宅から中学部まで毎朝歩いて登校しました。私の健康が維持されているのもこの歩行主義のおかげですし、中学部の生徒は、3年間歩くことで、気づかないうちにどれほど身体も精神も強められているか計り知れないものがあります。

昭和29年に中学部を卒業したK君は、1番で中学部に入学し、1番で中学部を卒業して、ある事情で高校は灘高校に行き、灘高校でも卒業のときの実力テストで全校1位だったのですが、彼の家は甲山の上にあったので、小学校の6年間、毎日雨の日も風の日も甲山の上から甲東園の駅の南にある甲東小学校に往復したのですから、彼には困難に屈しない体力があり、何事にもくじけない精神があったのです。鍛えられない人間ほどだめなものはありません。鍛錬の精神を中学部の生徒が忘れないように、というのが私の心からの願いです。

スポーツは少年の身体と精神の鍛錬のために最もふさわしいもので、英国のパブリック・スクールなどが、人間をつくる最良の方法として、宗教とともにスポーツを取り入れたのは当然です。

中学部がスポーツを競う相手校として甲陽中学を選び、対抗競技を始めたのは昭和28年でしたが、これは成功だったと思います。はじめのころ負け続けた野球部が、「打倒甲陽」の文字を部室の壁にはりつけて練習に励み、遂に甲陽を破って感激の涙にむせんだことは『生活指導ノート』のO君の文で諸君が皆読んで知っていることです。はじめ陸上、野球、蹴球、卓球の4種目ではじめた甲関戦が、今では8種目になり、対戦成績は9勝2敗1引分になっています。スポーツはただ勝つことが目的ではありません。強い身体がそれによって鍛えられ、美しい精神、たくましい精神がそれによって鍛えられるものでなくてはなりません。

先日関西学院のランバス礼拝堂で結婚式をあげたY君は、中学時代からサッカー部に入っていましたが、身体が大変小さいのでどうしても正選手になれず、中学時代はとうとう1度も試合に出してもらえずに終わってしまいました。高等部でもサッカーを続けましたが、3年になっても正選手になれず、試合の日はただベンチに座っているだけでした。しかし彼は大学に行ってもなおサッカーをすてず、他の高校から大学に入ってきた優秀な選手たちにまじって、毎日忠実に熱心に練習に励んでいました。大学でも正選手になれないまま4年になり、大学生活も終わりに近くなったのですが、4年の秋の関西サッカー・リーグで関大と関学が優勝を争うことになったとき、関西学院のチームの調子が悪く、誰か1人新しい人を入れて気分を一新して試合に臨もうということになって起用されたのがY君でした。Y君はこの試合に花々しい奮闘をして、関西学院は遂に優勝、東西対抗全日本の王座決定戦にもY君は出ることになりました。関東代表は早大でしたが、この全日本の王座決定戦は非常な接戦で、前半関学が1点をとり、後半早稲田が1点をかえして、同点のまま時間切れになろうとする直前、Y君のけった球が見事にきまって、彼によって関西学院は全日本の王座を獲得したのです。10年もの間、補欠の生活に少しもつぶやかず、黙々として練習にがんばって、遂に関西学院のために花々しい最後の奮闘をして優勝をもたらしてくれたY君の精神は、関西学院のサッカー部の中に、「Y精神」として語り伝えられています。常に与えられた場所で、名利を求めず、黙々として、下積みに甘んじて全力をつくすという精神こそ関西学院精神です。

関西学院精神はキリスト教精神です。人に奉仕し、人のためにつくす精神は関西学院の歴史を貫いて流れている精神です。幾年か前の入学試験の時助手になった3年生の生徒たちが相談して、それぞれめいめいの班の落第した生徒に激励の葉書を送り、「失敗にくじけず、この苦難を踏み台として、将来がかえって大きく伸びて行ってくれるように」と励ましたことは、当時新聞に大きく報道されて、多くの人たちにほめられました。この助手たちの葉書に対して1人の小学生保護者は次のような手紙をよこしました。

「大10班の助手の皆様、今日はあたたかい励ましのお葉書をありがとうございました。潤一は皆様のお葉書をみて深い感動をおぼえたようでした。神様が下さった最初の苦い盃、それによって潤一は将来必ずがんばると思います。またそうさせるのが母たる私のつとめでもありましょう。入学試験のときも本当に親切にお世話くださってありがとうございました。助手の方々のお話を聞いてきては、『入学したら何部にはいろうかな』、など申して苦笑させていました。昨日もデパートに行きましたら、『このボールペンは助手の人が持っていたのと同じだ』と申していました。助手の皆様にとても親しんでいたのでございましょう。校庭にはりめぐらされた縄の外から、受験生を引率する助手の方々を眺めて、うちの子どももあんな生徒になってほしい、この中学に入れてほしいと切に思ったものでした。あなた方は立派でした。どうぞ中学部に学ぶ仕合せをしっかりかみしめて、今の純粋な心を関西学院の中に通していって下さるようお願い申し上げます。では皆様お元気で、さようなら」

他の班へもたくさんの手紙が来ました。私はこういう手紙が学校へ来てはじめて生徒たちが落第した受験生に葉書を出したことを知り、卒業式で彼らの善行をたたえました。これはそれ以来中学部の伝統となって、3年生が入学試験の助手となることは非常な名誉と考えられ、助手たちは色々の形で受験生に対して中学部精神を発揮するのが伝統となりました。

中学部で幸福な生活を送っている生徒たちが、自分の幸福を感謝してしっかりと勉強するとともに、多くの貧しい者、苦しんでいる者のために自分の持てる物をささげるという精神は、中学部のすべての生徒が身につけるべき精神ですが、幾年か前のある日私の机の上に1通の匿名の手紙が置かれ、たくさんの小銭が同封されていました。

「わずかのお金なので笑われると思います。しかしこのお金には私の気持ちがたくさん含まれているのです。私は在学中、中学部にかけらほどのこともできませんでした。そのことで頭が一ぱいになったこともありましたが、私がよくむだなお金を使うのに目をつけて、毎日小遣いを節約することにしてためたのがこのお金です。わずかのお金ですけれど、このお金を矢内先生がよいことに使ってくだされば、私は何もいうことはありません。そして、先生が今年の卒業生に卒業のどたん場に妙なことをするやつもいるんだなあ、と思ってくだされば、私はそれで満足です。」

このような手紙でした。このような手紙がしばしば私のところへ届きました。何人かがグループでお金を送ってくることもあり、個人のこともありました。昨年修学旅行の前に私は、「全然小遣いを使わないで修学旅行をすることも出来る。お金をたくさん使う人がえらいのではない」といったのですが、その言葉通りに全然小遣いを使わず、その小遣いの3000円を「誰か気の毒な人にあげてください」と書いて、そっくりそのまま匿名で私のところに送ってきた人がありました。その生徒が誰であるのか私はいまだに知らないのです。今年の3年生も、南九州への修学旅行で大変楽しい旅行をしたのですが、自分たちの幸福な日常生活にひきくらべ南九州の果てに住む人々の貧しい生活を目の当たりに見て、制限された小遣いの中から献金を集めて南九州の山川町におくったことが年末の朝日新聞にもでました。

年末に1年生のM君のお父さんが突然亡くなられ、一家はこれから収入がなくなり生活が苦しくなるのですが、「父亡き後は、ますます関西学院のキリスト教教育が子どものために必要です」といってお母さんはM君を中学部に続けて在学させる決心をされ、そのためお母さんが働かれることを私は礼拝で話しました。それを聞いて、お年玉の中から3000円を「M君に」といって匿名で私に寄託した生徒がありました。

美しい精神がいつまでも中学部に生きるようにというのが私の心からの祈りです。中学部の生徒はあやまちもします。中学部の生徒が中学部精神に反するようなことをすれば私は心から悲しみます。中学部の建物が中学部ではないのです。美しい精神を中学部の生徒が発揮するとき、そこに中学部があるのです。
中学部の生徒が立派な精神を発揮したとき、私は本当にうれしいのです。中学部が「世の光となり地の塩となる」人材をこの暗い世に送り出すことが出来るように、これが中学部長として勤めた18年の私の心に燃え続けていた願いだったのです。

最後に中学部の青島のことを書きます。私が今一番心にかけ一番愛している島は青島です。私が英国のラグビー・スクールを見て一番心をうたれたのは、今もなお残っているアーノルド先生の偉大な精神的感化と、そして礼拝堂と寮と運動場を中心とした人間形成の教育の伝統でした。私がアーノルド先生のような偉大な校長になることは出来ないにしても、出来ることならばあのような寮をもつ学校をつくりたいと思いました。

教師の人格的感化の深く及ぶのも寄宿舎においてであり、人間が鍛えられるのも、寄宿舎の共同生活を通じてなのです。私は中学部に寮をつくりたいと思ったのですが、その前に特別教室と体育館をつくる必要がありました。幸い充実した特別教室を持つ新館と立派な体育館をつくることが出来ましたが、寄宿舎をつくるところまで行かないで定年になってしまったのです。しかし寄宿舎生活の代わりに生徒たちが短い期間でも共同生活の出来る場所として、PTAの協力を得て瀬戸内海の青島を買うことが出来たのは大きな喜びでした。

中学部のキャンプはもう随分長い歴史があって、新制中学部でも毎年あちこちでキャンプを続けて来たのですが、やはり自分たちのキャンプ地を持つことの必要を痛感して、昭和37年遂にこの島を買うことになりました。松が青くしげった瀬戸内海の11万㎡の島、この島をきり開いて、井戸をほり、道をつくり、家を建て、船着場に突堤も出来ました。生徒たちは「自分たちの島」として、この島の開発に汗を流しました。こうして「都会っ子」は肉体も精神も鍛えられ、勤労の貴さや協力の意義を学びました。協力・親切・寛大・規律等の人間関係や徳性を学びとらせるためには、生徒たちをいっしょに生活させることが一番よい教育方法だといわれていますが、礼拝や教会で学んだキリスト教を実践的に身につけるのもこういう生活を通じてです。

瀬戸内海の美しい落日が西の空を赤くそめるとき、美しい神秘の夜空に星のまたたくとき、静かに神を讃美し、静かに火を囲んで祈るキャンプの生活は、生徒たちの魂に大きな影響を与えます。生涯にわたる美しい友情が生徒たちの間に育つのもこのような生活を通じてです。ある1人の生徒は「この夏こうした意義あるキャンプをして青島を去っていくとき、船の中から、この2年間精神的肉体的に僕にとって大きなプラスだった青島を感慨深く眺めて、涙がこみあげてくるのを感じました。今でも目をとじると青々とした瀬戸内海に浮かぶ青島がまぶたに浮かんできます」と書きました。私の若い頃に教えた関西学院卒業生が、昨年キャビン1棟を青島に寄付してくれたことも大きな喜びでした。この青島が中学部の生徒たちに愛されて、生徒たちの身体を鍛え、魂をはぐくむ場所としてますますよいキャンプ場になっていくことを心から祈っています。

75年前、関西学院の創立者たちの持っていたのは美しい信仰と幻とでした。信仰と幻がなければ学校は滅びます。関西学院がいつまでも信仰と幻とを失うことなく、生命にみちた学校であるように、そして生徒諸君の一人一人が信仰と幻とに生きて、大きく自己を鍛えあげ、神と人に喜ばれる立派な人物に大成して行くことを願っています。

私が関西学院で41年の教師生活の間に教えた学生生徒の数は、7000人ぐらいもあるでしょうか。この文では昭和22年以後の新制度の中学部になってからの思い出を書いているのですが、この新制度の中学部で教えた生徒だけでも3000人になります。そして、社会のあらゆる方面に、そして日本と世界のあらゆる場所に活躍しています。今日私に手紙をくれた1人の卒業生は、「在学中私は先生の御意志にはほど遠い生徒でしたが、いま私の土台になっているのは関西学院精神です」と書いています。内村鑑三はアメリカの母校アマースト大学の恩師に送った手紙に、「アマーストの子は自分の良心を売ることは出来ません」と書いていますが、中学部の卒業生も、どのような場所にいるときも、常に誇りと責任感とをもって「関西学院の子」として生きてくれることを心から祈り願っています。

在校生の諸君も中学部の伝統を受け継ぎ、これを守って行かねばなりません。中学部の「伝統の楯」に刻まれているのは「汝等は生命の言を保ちて、世の光りの如くこの時代に輝く」という言葉です。中学部は、この言葉のような精神があふれた学校でなくてはなりません。在校生の一人一人が関西学院精神を心に刻みこみ、みんなで力を合わせて中学部をいつまでも守り育てて行ってくれることを心から祈り願っています。いつまでも関西学院中学部の上に神の守りと導きがあるように、私は常に祈っていたいと思います。
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矢内正一「わが愛する中学部の生徒たちに」

2007年02月20日 | 学校・教師考~矢内正一先生
「わが愛する中学部の生徒たちに」(関西学院中学新聞 創刊号:昭和25年9月1日発行)


夏休みになると私は朝日の全国野球大会を思い野球大会のことを思う度に昔中学部の名投手だった澤君の事を思い出す。澤君の悲壮な大奮闘によって関西学院中学部は大正9年全国大会に優勝した。

其年、兵庫県で一番強剛としてうたわれたのは神戸商業で、有名な浜崎が投手として全国に名を知られ、すばらしい強ティームとして全国大会の優勝も確実といわれていたので関西学院などを問題にする者はなかった。ところが兵庫県の予選で中学部はこの強剛神戸商業を破った。澤を主将として、ティームが一致団結して強敵神戸商業に当たった。そして浜崎の剛球を恐れず堂々と打って見事この強敵を破った。スコアは確か4対1であった。

県下の代表となった関西学院の責任は重かった。先輩は集まって選手を激励した。責任感の強い澤は猛練習のために遂に肋膜になった。然し投手であり主将である澤が出ないならば中学部は全国大会に勝つことは到底困難である。澤は全兵庫県の声援に対する責任感から、又関西学院の名誉を思う熱情から医師の注射を受けながら投手板に立った。その悲壮な心は他の8人の選手を奮い起させた。そしてこの悲壮な結束の前には如何なるティームも敵し得るものは無かった。総ての強ティームを破って最後の優勝戦には慶応普通部に17対0の大スコアで勝ち、大優勝旗を関西学院に持ち帰った。「関西学院四十年史」には「中学部の優勝は実に澤が命をかけて、これを得たものである」とかきしるしている。

私は病をおして運動をせよというのではないが、今の運動の選手は苦しみをいとい、下づみになり、犠牲になることを喜ばないといわれる。それでは選手生活から得られるものは極めて少ない。その頃の選手は運動部に入って、苦しい苦労をすることをいとわなかった。

その頃、神戸のある学校で野球部に入った生徒の親が子供の練習ぶりを見たいと思って出かけて行ったところどこにも子供の姿が見あたらない。一人の部員に自分の子供のいると所をきくと、やっといる所が分かった。彼は毎日グラウンドの外の、水の流れていない川底に立っていて、運動場も見えない川の底で、とんで来るボールをひろう役を甘んじて引き受けていたのである。まずそういう精神を教えられたものである。

うっかりすると民主主義ははきちがえられて、民主主義とは苦しいことをいやがることであり、わがままをすることであり、自分勝手をすることであると考え勝ちである。
ある小学校の教場で「次の時間は何をしよう」と先生が生徒にはかると「みんなで遊ぼう」と多数決で決まり、みんなで遊んでしまったというような極端な話もある。民主主義の精神はキリスト教の精神につながる。人のために自分をおさえ自分も人も共に高まって行くきびしい精神がふくまれている。勿論人生は楽しいものであり、色々な楽しみを作り出して友だちと共に楽しむことはこのましいことである。然し少しでも苦しいことをさけて楽しいことだけを求める心には、真に深い喜びは来ない。真に深い喜びは困難の克服の中にある。

「成長は悩みである。種は土を悩み、根は雨を悩み、芽は発芽を悩む。そのように、友よ、人間は運命を悩む、運命は土であり雨であり生長である。運命は苦痛を与える」
とヘルマン・ヘッセも言っている。植物でさえ雨風にたたかれても屈せずのびて行くではないか。我々も困難に屈せず苦しみにたえる強い人間になろうではないか。

キューリ夫人の伝をよんでごらんなさい。どのような苦難を克服して彼女が勉強したか。そしてその苦難の後ラジュームを発見したときの喜びがどのように深いものであったか。苦しみにたえて自己をたくましく生長させそれを神と人とにさげることこそ人生最大の喜びであり、そこに関西学院の精神がある。

夏休みはめいめいが美しい自然によって自分をのばすための最もよい機会である。だらしない生活は自分をそこね、精神をくさらす。「よく学びよく遊べ」。 遊ぶばかりでは却って健康さえそこなう。勉強ばかりでは却って学問ものびない。休暇中もよく学びよく遊ぶところに眞によき学生の道がある。涼しい時間に必ず毎日一定の時間勉強し、勉強がすんでから思いきって遊ぶ。そして計画もたてたらどこまでもこれを実行して行く勇気が必要である。

スマイルスの「自助論」は明治の立志少年たちが愛読した本であるが、その中に
「年少にして困苦逆境に処することは成功に必要欠くべからざる条件である」
「偉人と小人との差異はただ不屈の決意のみ」
「今日の仕事を明日に残すなかれ、働くべき時に遊ぶなかれ」
と述べている。諸君の一日一日が勇気を必要とする。朝お母さんが起こして下さったとき、決断を以てムクムクと起き上がる勇気を君たちは示しているであろうか。勉強すべき時間についふらふらと遊びに出て行きたい心を「何くそ」とおさえるのは強い決断がいる。勇気がいる。
私はこのような強い勇気のある少年がすきである。日々よき生活をおくって神と人とに喜ばれる人に成長して行くことこそ関西学院中学部の生徒の進むべき道である。私は諸君が健康で夏休みをすごすことを心から祈り、諸君が日々人格に於ても肉体に於てもどんどん成長して行くことを心から祈っている。
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矢内 正一“一隅の教育者の自叙伝”より 10/10

2007年02月19日 | 学校・教師考~矢内正一先生
老年に思うこと
「野上弥生子女史は、私より15歳も年上で、まだ生きておられる。10年近く前、86歳の頃の女史のことを小林勇氏は次のように書いておられる。「86歳で女史が北軽井沢で創作に打ち込む日々は充実したもので、今書き続けている長編が完結しようが、未完で終ろうが、どちらでもよいという。悠々と青空を流れる白雲を見る思いだ。すべてのものに終りがある。日々終りに近づきつつ思うことは日々に新たである。昨日よりは深くものを見、その美しさを感ずる」すぐれた人の老年の心境を美しいと思う。そして私もそうなりたいと思う。

私は毎朝『聖書』を読む。私は英語の教師だったので、英語で『聖書』を読むことが長年の日課である。「朝は起きて『聖書』を読み、昼はつかれるまで働き、夜は祈りて眠る」という羽仁もと子さんの言葉を日記の扉に書き記したこともあるが、私は『聖書』に導かれ、力づけられて生きている。
私が今日まで続いて集会に出て、教えを受けている宗教上の先生は、川合信水先生のキリスト教を受け継いでおられる原田美実先生である。この先生に導かれること40年に近いが、この先生についたことの幸せを思わないではいられない。先生もすでに85歳、いつまで生きていていただきたいと思う。

近頃私と同年輩の人、私より少し年下の人が次から次へと亡くなって行く。若い頃関西学院高商部の教師として一緒に働き、生涯親近感をもって交わった加藤秀次郎氏も亡くなった。加藤氏と私は専攻も同じ英語だったし、高商部で学生指導の労苦を共にし、私の中学部長退職のときには、私のあとを加藤氏に引き受けてもらったり、また加藤氏の理事長退任のあと、私が理事長になったりして、氏とは長く親交をもったが、加藤氏のように、学院の年上の人とも、同年輩の人とも、年下の人ともきれいに交わった人は少ない。同僚や教え子が病気になったら、必ずといってよいほど見舞に行かれた。加藤氏は関西学院の卒業生ではなかったが、関西学院にとけ入って、これほどみんなから好感を持たれていた人は少ない。

萌え出でて光たゆたう青芝に
季毎まむかい年経りにけり
これは加藤氏の歌集『青芝』の表題となった作品だが、なつかしい歌だ。
加藤氏からも、其他多くの同僚からも私の学んだことは多い。私の教え子も立派に社会的に活躍している人が沢山あり、そういう人たちから教えられたことも数限りなく思い出される。小さい頃弱く、若い頃結核にもなった私がこうして80までも生き残るために、医師その他お世話になった多くの方々も忘れがたい。

結婚当時、家に帰ると玄関でかばんを投げ出して、「ああ、疲れた」といって妻を心配させたが、今日まで生き得たのは、妻が私の健康に気を配ってくれたことにもよる。
生涯を顧みてつくづく思うことは、人間は一人で生きられるものではなく、一人で育つものではないということである。私の生涯は、「目に見えないもの」「目に見えるもの」に守られ、導かれ、支えられた生涯であった。そして私が他から与えられ、教えられたものに比べれば、私が他に与え、教えたものは、全くいうに足りないほどに乏しい。
これから後の年月をどう生きるかが、私の課題である。 」


『人間の幸福と人間の教育』矢内 正一著(昭和59年9月30日創文社) より

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