モノポリーというゲームを知っていますか?もともとボードゲームですが、プレステやWiiのソフトも出ています。
先日Wiiの中古ソフトを見つけて、これなら奥さんと二人でできるなと、購入しました。
一時期、プレステのソフトでかなりハマって、奥さんと二人毎晩のようにやっていたのを思い出したからです。
早速ゲームを始めて、操作方法の確認と、忘れている細かいルールの確認をしながら、「散々プレステでやったのに、覚えていないものだね。」という話をすると、プレステもそうだけど実際のボードゲームもみんなで散々やったと奥さんは言うのです。
みんなといううちの主要メンバーは、高校の同級生である奥さんとあと二人。
「三人揃えば北家が足りない」が合い言葉の麻雀仲間。麻雀だけでなく、ポーカーからチンチロリンまで、いろいろやってきました。
その点数計算、ポーカーチップとして長い間ボードゲームのモノポリーの紙幣を使っていたのは覚えています。紙幣の束だけは何回引っ越ししてもすぐわかるようにしていましたから。
ということは、当然ボードゲームの本体もあったわけだし、あればやらないはずはないのです。
なのに、奥さんにそれを言われるまで、みんなとモノポリーをしたことなど忘れていた。いや、言われても、やった記憶はないなあ、と思い出せないのです。
覚えていないし、思い出せないということは、自分にとっては存在しない過去ということではないでしょうか。
そう考えると、そもそも過去というのはどこにあるのだろうか?存在しているものなのだろうかという疑問が湧いてきます。
個人レベルの話では、例えばそんな過去かあったのかどうか日記で確認する。だけど日記は記憶を呼び覚ますきっかけにしか過ぎませんよね。
ということは、過去は、記憶の中に存在すると考えていいのでしょうか。
しかしその記憶の曖昧さは、モノポリーで遊んだことを忘れているという件をはじめ、今読んでいる錯覚の科学という本ではいろいろ紹介されて、どれほど記憶があてにならないか身につまされたところです。記憶とはちょっと違いますが、この本で紹介された実験では、渡しはパスを数えるのに気を取られて、あんな大きなものを見落とした方ですし。
個人を離れた歴史レベルでも、やはり今読んでいる小林秀雄の学生との対話という本の中で、「歴史を知るというのは、みな現在のことです。古いものは全く実在しないのですから…」と言っている。
今はまっている池田晶子も、まだまだ自分で咀嚼できていないが、過去も未来もなく、今しかないと言っている。
結論のないまま、長い文章になってしまった。
個人にとっての過去は、個人の記憶の中にしかないし、それもかなりあやふや、いい加減な記憶に支えられているという事実。
ということは、やはり過去なんていうのも単なる幻想、もしくは観念で、確かにあるのは今だけということなのだろうか?まだまだ考える必要があります。
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