内田樹,2011,最終講義──生き延びるための六講,技術評論社.(1.27.25)
人間はどのように欲望を覚えるのか、どうやって絶望するのか、どうやってそこから立ち直り、どうやって愛し合うのか…。2011年1月22日、神戸女学院大学で行なわれ、多くの人々に感銘を与えた「最終講義」を含む、著者初の講演集。超少子化・超高齢化時代を迎えて日本の進むべき道は?学びのスイッチを入れるカギはどこにある?窮地に追いつめられた状況から生き延びる知恵とは?…いまを生きるための切実な課題に答える。
学問の楽しさというものは、自らの知性──脳と身体が最高のパフォーマンスを達成し、自らを縛り付ける常識、認識枠組み、価値前提を自ら打ち壊すことにある。
(前略)どうやったら学びのモチベーションを高く維持できるか、そのためには使えるものは全部使う。最終的に彼らが採用したのは、営利栄達でも、知的優越でもなく、自分の脳が高速度で回転しているという事実そのものだったんです。その「アカデミック・ハイ」だけは間違いなく、今ここでたしかに身体的に実感できる。最後に残るのは、この快感だけである。これだけは他のものすべてが消え失せても、消え去ることがない。他のすべてを失っても、自分の知性が最高速で運転しているときの、全身を貫く震えるような快感。これだけは、手元が不如意であろうとも、先行き職がなかろうとも、壮絶な勉強をしたものだけが今ここで経験できる。
僕はこれはほとんど「知性の身体性」と呼んでよいものだと思います。お腹がすいたらご飯を食べる、眠くなったら眠る。それと同じように、何が何でも勉強せずにはいられない、勉強しないと自分が苦しくて耐えられないという精神状態にまでどうやったら自分を追い込めるか。その手立てを具体的に考えるのが「知の現場」にいる人間のいわば「芸」ではないんですか。
(p.66)
学知を駆動するのは、学知以外の目的であってはならない。知性の存在理由は知性そのもののうちに内在している。僕はそう思います。自分の知性の活動が最大化するときの、最高速度で頭脳が回転しているときの、あの火照るような体感に「アディクトする」人間がいて、そういう人間が学者になるんです。「あの感じ」を繰り返し経験したくてたまらない。だから、どうやったら自分の知性が最高速度で機能するようになるか、その手立てを必死になって考える。「だから他のことはどうでもよくなる」というのじゃないんです。そんな訳ない。だから、使えるものは全部使うようになるんです。自分の知的なパフォーマンスを高める可能性のあるものは総動員する。それが本当の学者だと僕は思います。
(p.67)
(前略)自分の知性が最高の状態にないことに、空腹や眠気や渇きと同じような激しい欠落感を覚える人間だけが、知性を高いレベルに維持できる。
(p.71)
ユダヤ人が学問において顕著な業績を達成してきたのは、彼ら、彼女らが、つねに自らの知性が最高のパフォーマンスを達成するべく、脳と身体を制御してきたからだ。
そして、知性の身体化、身体の知性化、あるいは言葉と身体、自己と他者の共鳴、シンクロニシティが生起するとき、わたしたちの認識地平は塗り替えられていく。
話がやや横道に逸れますけれど、三浦雅士さんがこんな話をしています。中学校の国語で万葉集や古今集を習う。意味がよくわからないままに、受験勉強だから丸暗記する。そのまま何年か経って、ふと風景を見ているときに、「しずこころなく花の散るらむ」とか「人こそ見えね秋は来にけり」なんていう言葉を呟いていることがある。その瞬間に初めて言葉と身体感覚が一致する。自分の中に記憶されていた言葉と、それに対応する身体実感が対になる。
ふつうは感動が先で、それを「言葉にする」という順序でものごとは起こると思われているけれど、そうでもないんです。最初に言葉がある。その言葉が何を意味するのかよくわからないままに記憶させられる。そして、ある日その言葉に対応する意味を身体で実感することが起きる。神経衰弱でペアのカードが見つかったみたいな感じですね。たしかにその言葉を自分は知っていた。でも、ただの空疎な言葉でしかなかった。実感の裏付けがなかった。それが、ある瞬間に言葉が意味を受肉することが起きる。
ということを三浦さんが書かれていました。これは玉木文之進の教育法にも通じると思うんです。まず言葉がある。「怒髪天を衝く」とか「心頭滅却すれば火もまた涼し」とかいうのは言葉だけいくら覚えても、十歳やそこらの子どもに身体実感の裏づけがあるはずがない。でも、言葉だけは覚えさせられる。それによって、自分自身の貧しい経験や身体実感では説明できないような「他者の身体」、「他者の感覚」、「他者の思念」のためのスペースが自分の中にむりやりこじ開けられる。そして、成長してゆくうちに、その「スペース」に、ひとつずつ自分自身の生々しい身体実感、自分の血と汗がしみこんだ思いが堆積してゆく。そんなふうにして子どもは成長してゆくんです。だから、子どもに「子どもにはわからない言葉や思想」をむりやりにでも押し込んでおくということはたいせつなんです。
(pp.217-218)
学ぶことの深い意味を、内田先生は見事に言語化している。
深く共鳴するほかない。
目次
1 最終講義―神戸女学院大学二〇一一年一月二二日
2 日本の人文科学に明日はあるか(あるといいけど)―京都大学大学院文学研究科講演二〇一一年一月一九日
3 日本はこれからどうなるのか?―“右肩下がり社会”の明日―神戸女学院教育文化振興めぐみ会講演会二〇一〇年六月九日
4 ミッションスクールのミッション―大谷大学開学記念式典記念講演二〇一〇年一〇月一三日
5 教育に等価交換はいらない―守口市教職員組合講演会二〇〇八年一月二六日
6 日本人はなぜユダヤ人に関心をもつのか―日本ユダヤ学会講演会二〇一〇年五月二九日
内田樹,2013,街場の憂国論,晶文社.(1.27.25)
行き過ぎた市場原理主義、国民を過酷な競争に駆り立てるグローバル化の波、排外的なナショナリストたちの跋扈、改憲派の危険な動き…未曾有の国難に対し、わたしたちはどう処すべきなのか?日本が直面する危機に、誰も言えなかった天下の暴論でお答えします。真に日本の未来を憂うウチダ先生が説く、国を揺るがす危機への備え方。
人生は、親も含めた先行世代からの「生命の贈与」により始まる。
わたしたちの知性、身体能力は、ギフティッドされたものである。
生得属性としてのそれだけでなく、後天的に学習されたものも含めて。
なぜなら、わたしたちは、他者の振る舞いやパフォーマンスを取り入れる(role taking)ことで、知性、身体能力を獲得するのでもあるのだから。
贈与には反対給付がなされなければならない。
それが、人間の人間たるところ、人間性の始原にあるものだから。
わたしたちは、あらゆることを贈与されていることから、負債を担い続け、負債を返し続ける。
これからは違う経済システムに切り替えるしかない。それは「贈与経済」である。
とりあえず使い道のない金があるなら、いまだ身体的需要が満たされていない人たちに贈与すればよろしいではないか、というのが私の主張である。
贈与のためのシステム作りはけっこう骨折り仕事である。
社会的成熟に達していない人間は「商品を買う」ことはできるが、「贈与する」ことはできない。
贈与は人間的成熟を要求する。
私たちの社会システムは「適切に贈与を果たしうるような成熟した市民の育成」を目標として制度設計のやり直しをしなければならない。
(p.115)
人間は自己利益を排他的に追求できるときではなく、自分が「ひとのために役立っている」と思えたときにその潜在能力を爆発的に開花させる。これは長く教育現場にいた人間として骨身にしみた経験知です。
でも、「こんな当たり前のこと」をきっぱりと語る人間は今の日本では少数派です。圧倒的多数は「人間は競争に勝つために徹底的にエゴイスティックにふるまうことで能力を開花させる」という、(今となっては、ウォール街以外では)十分な経験的基礎づけを持っていな「イデオロギー」を信じている。
日本の若者が非活性的なのは、「自己利益の追求に励め。競争相手を蹴落として社会上層に這い上がれ」というアオリが無効だったからです。
「連帯せよ」とマルクスは言いました。
それは自分の隣人の、自分の同胞をも自分自身と同じように配慮できるような人間になれ、ということだと私は理解しています。
そのために社会制度を改革することが必要なら好きなように改革すればいい。でも、根本にあるのは、「自分にたまたま与えられた天賦の資質は共有されねばならない」という「被贈与感」です。そこからしか連帯と社会のラディカルな改革は始まらない。
今の日本社会に致命的に欠けているのは、「他者への気づかい」が「隣人への愛」が人間のパフォーマンスを最大化するという人類と同じだけ古い知見です。
(p.332)
交換から贈与へ──この経済原理の転換は、人を変え、社会を変える。
目次
第1章 脱グローバル宣言、あるいは国民国家擁護のために
壊れゆく国民国家
自民党改憲案に伏流するもの ほか
第2章 贈与経済への回帰
市場からの撤収
経済成長の終わりと贈与経済の始まり ほか
第3章 国を守るということ
領土問題は終わらない
沖縄の基地問題はどうして解決しないのか? ほか
第4章 国難の諸相
日本のメディアの病
暴言と知性について ほか
第5章 次世代にパスを送る
教育の奇跡
大学統廃合がもたらすもの ほか