石井光太,2023,教育虐待──子供を壊す「教育熱心」な親たち,早川書房.(4.28.24)
高度経済成長期以前の1955年頃までの日本は、就業者の過半が農業、小売店等を営む自営業とその家族従事者であった。
家業としての自営業において、子どもはなにより家業の担い手であり、継承者であった。
しかし、高度経済成長により、自営業者は激減し、勤労者とその扶養家族が急増した。
勤労者世帯においては、子どもに継がせることのできる家業は存在しない。
そして、その埋め合わせをするかのように、子どもへの教育熱が高まり、子どもは、ペーパーテストで高い成績を取り、学(校)歴を獲得するための過酷な競争に追い立てられることになった。
児童虐待防止法が定める子ども虐待の種類に、教育虐待なるものは存在しない。
子どもの先天的な能力、資質を尊重することなしに、学力達成競争を強い、競争を勝ち抜けない子どもに、身体的虐待や心理的虐待をふるう。
それが、教育虐待だ。
子どもが、将来、なんらかの職業に従事し、社会生活をおくっていくに当たって、基礎的な読み書き、計算能力は必要である。
しかし、実際に子どもに強要されている学力競争は、あまりにもそうした必要性、実用性からかけ離れている。
大学に入るための受験勉強を経験した者は、ほとんどなんの意味もない勉強に割いた膨大な時間に、忸怩たる思いをいだくのではないだろうか。
看護、介護、相談援助、保育、教育等のエッセンシャル・ワークにおいては、他者への高度の共感能力やコミュニケーション能力が必要だ。
また、機械化、AIの導入が進んでも、製造業でのマニュアル労働や清掃業がなくなることはないだろうし、そこでは、単純労働の繰り返しに耐える力が必要とされる。
ペーパーテストでは、そうした能力は測れない。
しかし、大学の推薦入試や、企業の採用試験において、共感能力やコミュニケーション能力、あるいは忍耐力が測定されるようになるのは、悪夢でしかないだろう。
勉強には忍耐力も必要だが、それ以上に、自らの未知が勉強により克服され、新たな認識の地平が広がる歓びは大きい。
勉強はそうした意味で楽しいものであるべきだ。
教育虐待は、子どもに苦痛を与えるだけでなく、人間から勉強する歓びを奪う罪深い所業なのだ。
もちろん、教育虐待という名の、とくに心理的虐待が、自己を肯定できず、孤独感にさいなまれ、いやしがたい愛着飢餓に翻弄され続ける、そんな生き地獄につながりかねないことは、どんなに強調しても強調しすぎることはない。
教育虐待を受けて育った子供たちに共通するのは、罵倒されて育ったことによる自己否定感であり、理解してもらえなかったことの孤独感であり、親子関係を築かせてもらえなかったことによる愛着の欠如だ。自己否定感が大きければ自分の体や命すら大切に思えないので傷つけることに躊躇いを覚えにくいし、孤独感が大きければ薬物などに依存して埋めようとするし、愛着の欠如が大きければ親とは別の他者に不必要なほど寄りかかろうとする。そうした傾向が、右に挙げたようなパターン化された問題行動につながるのだ。
第2章で紹介した小石川真実さんは、30代の時にテレクラを利用して複数の見知らぬ男性と性行為をするといった行動をとった。家出少女がよく行う性的逸脱行為だ。彼女は当時の自分の行動について次のように分析している。
「およそ私本来の価値観にそぐわない、心を伴わない肉体関係に走ったのは、ただひたすら自己破壊的衝動からだった。私をろくでなしと決めつける父親に復讐するために、自分をメチャクチャにぶち壊してやりたくなったのである。だから楽しいと感じたことは一度もなかった」(『私は親に殺された!』)
(p.181)
本書でたびたび参照されている小石川真美さんの『私は親に殺された!』と、古谷経衡さんの『毒親と絶縁する』は、教育虐待の罪深さをリアルに伝えてくれている。
小石川真実,2015,私は親に殺された!──東大卒女性医師の告白,朝日新聞出版.
「勉強が終わるまでトイレ禁止」「なんでお兄ちゃんやお姉ちゃんができて、あなただけできないの?」教育虐待とは、教育の名のもとに行われる違法な虐待行為だ。それは子供の脳と心をいかに傷つけるのか。70年代に本格化した受験競争、そして大学全入時代の今にいたるまで、ゆがんだ教育熱は社会の変化の中でどのように生まれ、「奈良県エリート少年自宅放火事件」「医学部9浪母親殺害事件」などの悲劇をもたらしたのか。多角的な取材から現代の闇を照らし、親子のあり方を問う。
目次
第1章 子供部屋で何が起きているのか―教育虐待を「定義」する
第2章 脳と精神を蝕む教育―医学の観点から
第3章 時代に翻弄される家族―受験戦争と教育虐待
第4章 「あなたのため」というエゴイズム―虐待親の心理
第5章 教育虐待、その後―ひきこもり、非行から自殺、PTSD、虐待連鎖まで
第6章 支援者たちは何を感じているのか―回復にいたる道