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本と音楽とねこと

非常民の民俗文化―─生活民俗と差別昔話

赤松啓介,2006,非常民の民俗文化―─生活民俗と差別昔話,筑摩書房.(3.22.24)

(レビューというより、読みどころの抜粋です。すみません、いずれ、きちんとまとまった、オリジナルの内容のものを書きます。
著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を引用していますが、これを読んだ方が、それをとおして、このすばらしい内容の本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。)

 優れた学問的業績をあげるのに、学(校)歴なんか、関係ない。
 在野の、反骨の民俗学者であった赤松先生の業績に接するたびに、そんな思いを新たにする。

 差別の民俗学で書いたとおり、赤松民俗学の要諦、真髄は、理不尽な人間差別の糾弾、柳田民俗学の偽善的な「常民」世界観の批判、そしてかつて日本に根付いていた性愛慣行、文化のドキュメンテーション、この三点にあると、わたしは、考えている。

 「はしがき」で、命懸け(と思える)の、度しがたい人間差別がまかりとおる腐ったクソ社会を糾弾する、赤松節が炸裂する。

 これは一人の男の、敗北と挫折の記録である。いまから金儲けしようとか、立身出世したいという希望をもっているような人間が読んで、ためになるような本では断じてないだろう。また労働運動、反差別運動、平和運動など、いわゆる社会運動のなかで、あるいは加わって、民衆を指導し、指揮しようという大志をもつ連中も、読まない方がよい。社会変革を達成するために、民衆、あるいは市民を鼓舞激励する手法などは、なに一つ発見できないからである。むしろ民衆とは、市民とは、こんなつまらないものであるかと、失望するだろう。いや、そう見せかけて、実は民衆の、あるいは市民の、かくされた大きな潜在力を暗示し、その発掘を示唆しているのだ、などと買いかぶるのはやめてもらいたい。そうした大逆転、ドンデン返しの手法は、決してかくされていないからである。
 いったい民衆とか、市民とか、あるいは柳田のいう常民とは、どんなものなのだろうか。というのが私の疑いであった。母子家庭に育ち、漸く小学校高等科を卒業させてもらい、証券会社給仕を振り出しに、小商店や廉売市場の丁稚小僧、露店やヤシ仲間の下働き、超零細工場の工員、どれ一つとっても、まともなものは一つもない。私のような育ちの者は、民衆、市民、常民の端にも加えてもらえないのではなかろうか。それが長い間の、私の疑問であった。世間でいう民衆、市民、あるいは柳田の常民には、どこかで切り捨てている部分がある。てめえらは人間でねえ、犬畜生にも劣る屑だという感覚が、どこかにあるのだ。私は、いわゆる部落出身ではない。私も部落差別の強い地方で育ったから、子供の頃から部落差別をする方の体験をしている。長じて、いわゆる世間に出てみると、てめえは人間の屑だと、どこかで頭を押さえつける部分があった。しかし、ここから、ここまでが民衆、市民、常民であり、これ以下はそれに入れない人間の屑だという、そのラインがわからない。普選以前のように、納税額によって選挙権を与えるということなら、そのラインは明瞭である。しかし明確なラインのわからない世間の中での、差別ということになると、どうしようもないと迷うほかあるまい。なにを迷うことがあるものか、金儲けしたり、立身出世してみろ、そんなライン突破ぐらい屁の河童だぞ。多額納税で貴族院議員になってみろ、大礼服に短剣ぶら下げて貴族仲間にでも入れるではないか。その通りにちがいないが、仏教でいう大へんな因縁と幸運の下に生まれてきた人間世界なら、それだけで十分ではないのか、この上になにを望むことがあるのだろう。それが私の、小さな疑いであった。
 小商店や廉売市場などの丁稚小僧、超零細工場の職工見習などという最低層の水準から、この世界を眺めて見ると、小商店主、市場商人、超零細工場主ですら、われわれには到達できそうもない、はるかな雲の上の人たちである。ここらあたりまでが民衆、市民、常民の下限であるとすれば、なるほどわれわれは人間の屑であった。そうして気がついてみると、俺と同じような人間の屑もぎょうさん居るわい、とわかる。神戸の川崎の職工が、道端で小便していたら、ガキどもが寄ってきて、おーい、みてみ、川崎の職工が小便しとらあ、とぬかしやがった。なんぼ川崎の職工でも小便ぐらいするぜえ、と怒った。日本を代表する川崎造船所の職工さまでも、この通りなら、わいらみたいな人間は屑だと、心底からわかる。街裏の口入屋の紺のれんをくぐって、次から次へと渡り歩かねばならない渡り奉公。二年、三年の年季で雇われてくる小商店、廉売市場の丁稚小僧、超零細工場に入ってくる坊主小僧。半季か一年契約で商店、一般家庭へ雇われてくる子守、女中。大、中、小工場に雇われる女工たち。更に苛酷な生活が待つ女郎、芸妓、仲居、酌婦、女給などという賤業婦たち、みんなわれわれと同じ人間の屑であった。
(中略)
 民衆、市民、常民、ありゃなんじゃ。どこにも実体のない、われわれの共同幻想だ。どうして、そうした共同幻想が必要なのか。門地、学歴、資産等、等、これで制限しないことには、みんなが一列一体に民衆、市民、常民になったのでは面白くない。といって明確なラインを引けば、不平、不満の連中が革命を起こしかねないだろう。押せば引き、引けば押す柔構造にしておけば、そうした危険分子が、俺は市民、民衆、常民だと幻想を共有してくれる。それから振り落とされた、落ちこぼれは、身分不相応な望みは、身の毒とあきらめるほかなかろう。つまり他動的にも、自覚的にも人間の屑なのである。俺は人間の屑だと、共同幻想を振り捨ててみれば、われわれの仲間も結構たくさん居るではないか。底から底へと連帯を拡大して行けば、俺たちこそ本当の人間で、人間だと思っている野郎どもは、かえって反人間、非人間であった。かれらの世界には自由も、平和も、尊厳もない。水平社の人たちは、われわれ「が」人間だと宣言した。われわれ「も」ではない。そうだ。われわれが人間だ。反民衆、反市民、反常民。非民衆、非市民、非常民。われわれが展開する世界、それがほんとうの人間の世界である。
 われわれ人間の世界が、どのようなものであるか。非民衆、非市民、非常民は、民衆、市民、常民がそうであるように柔構造であり、どのようにでも変化する。これがほんとうの人間だ、などと固定された観念はない。しかし民衆、市民、常民が、常識であるとか、国民道徳、市民倫理などというものは信用しないし、かえってその枠の外に人間を見るだろう。ある暴走族の手記を読んでいたら、お前、まだ童貞か、そりゃいかんぞ、と先輩が女のアパートへ連れ出して、筆下ろしさせてくれたそうだ。これが人間であり、人間としての連帯である。昔のムラには、この連帯があった。考えてみたら暴走族、暴力団、泥棒、みんな人間ではないか。いまいうオチコボレ、学校暴力、集団いじめ、少年非行とは、ありゃなんだ。政府、資本家、革命屋、学校、新聞その他、あらゆる加害集団が、一斉に新しい差別を造出していることの実証である。金儲けする、立身出世する、これがほんとうの人間だという仮説、規範を作っておいて、これに反抗し、従順でないガキどもは徹底的にしごこうとするのが、臨教審というアホタレがいう自由教育、個性教育だ。こどもを黄金魔や権力鬼に仕立て上げることを成功だと思っている民衆、市民、常民のバカどもが、そうだ、そうだとわめいている。こうした非人間的集団が、人間を作ろうなどとどだい無理なはなしだ。これからはみ出し、追い出されてくるオチコボレ、学校暴力、集団いじめ、少年(少女)非行、暴走族たちこそ、人間の精神をもった人間なのである。
 そんなら、てめえら、なんでしんきくさい説教さらすねん。好きなことを、好きなようにやりゃええんだろう。その通りである。親が嘆こうが、セン公がもう少し注意してやっておればと、くやもうが、バタ公の精一パイ、二〇〇キロの高速で、アッという間に激突、背中のナオンもろとも脳天かち割って、壮烈に死ぬのもカッコええぞ。拳銃を抜くが早いかパン、パンと必殺の銃声、忽ち数名の暴漢をなぎ倒す。御存じ西部劇の一幕。あれに俺、弱いんだ。しびれる。とくに公正と正義の味方、護民官のパン、パンときたら、もうたまらねえ。なんで今頃に日本へ生まれたんだ。同じ人間として生まれるのなら、カリフォルニアあたりの広原で撃ちまくっていたかった。日本の暴力団では、すこし舞台が狭すぎる。だから私は暴走族だろうが、暴力団だろうが、泥棒だろうが、決して悪いとはいわぬし、やめろともいわぬ。もとより私の身内が暴走して脳天をかち割って死ねば、悲しくて、ヨ、ヨと泣き伏すだろうし、暴力団に脅かされたら、カンニンしてくれと土下座するだろうし、ありもせぬ家財を盗まれれば、早くとっつかまえて取り戻せと警察の尻を叩くだろう。それは、しょうがあるまい。そういう煮えきらない男であったから、なんとか「人間」として生き残れたのだ。
 いわゆる民衆、市民、常民といわれるような階層の他に、その底、あるいはそのまだ底、その下の底などにも、いくつもの人間集団があり、かれらがどのような生活意識をもち、どのような生活民俗を育ててきたか。その極めて概要を説明してみたいと思ったのが、「非常民の民俗文化」である。日本の民俗学では、常民以下の生活集団は余計者として排除、つまり疎外してしまう。常民までは人間だが、それ以外の生活集団は、非人間として対象から外した。稀にとりあげたとしても、山人、海人、芸能人、木地屋、サンカ、バクチウチ、ゴゼなどと、世界の人間としてより見ていない。そうではなくて、われわれが「世外の人間」「非人間」「余計者」と見てきた人たちの方が、ほんとうの人間でなかったのか、という疑いを、私は持ってきた。いわゆる民衆、市民、常民と常識的にいわれてきた階層が、九〇パーセントまで中流意識をもつようになったという。これは日本だけでなく、おそらく世界的な現象だろうと思われる。つまり封建社会では町人、百姓、職人であった連中が、近代社会では主人公に上昇し、民衆、市民、常民となり、民主主義、あるいは自由主義で自分たちの世界を作りあげ、あるいは社会主義、共産主義などで新しい枠を造って再生しようとした。もはや古くされた枠にしがみついて革命しようとしても、失敗するのは当然のことである。いまや膿腐れて、死臭がただよっている民衆、市民、常民に、われわれがなにを期待できようか。
 いつの時代、どんな社会であろうと、古い社会を打破し、立て直すのは、いつも少数派である。貴族社会では奴婢、郎従、下司にあまんじていた武士たちが、次の社会では主人公となって、新たなる地平を切り開いた。民衆、市民、常民が近代社会を支配し、やがて腐敗したのは当然だろう。反民衆、反市民、反常民。非民衆、非市民、非常民。この人たちによってのみ、新しい人間の地平は切り開かれるだろう。古い民衆、市民、常民、かれらがそのなかにかかえていた非民衆、非市民、非常民。反民衆、反市民、反常民とはどんなものであろうか。いつも人間の屑、あるいは人間外のものとして取り扱われていた底の人たち、まだその下の底の人たち、まだその底の人たち。かれらは自らの社会機能、社会意識、社会規範を作って生活してきた。民主選挙が腐敗し、あらゆる市民運動が失敗し、社会主義、共産主義の革命運動が堕落し、核による人間社会の絶滅が日程に上っているとき、これを造出してきた民衆、市民、常民階層が中流に上昇して、かつての革命的精神を喪失したいま、私たちがかれらになにを期待できようか。反人間、非人間の集団が、われわれ人間の、新たなる地平を切り開くときが来たのである。「部落」の人たちも、「在日」朝鮮人も、その他、一切の差別されている人たち、一切の差別を絶滅させるために連帯しよう。そして、われわれのうちなる非民衆、非市民、非常民。反民衆、反市民、反常民を発掘し、育てようではないか。
 人間のもつ、もっとも根源的なものの一つである性的機能が、どのように歪められてきたか、その発掘も重要だろう。非人間、反人間集団の意識、機能、規範が、最も尖鋭に現れているからだ。だがある時、大変尊い人の事を言い出して、その人は御殿に奥様を三十人も持っており、そのためにお道具が擦り切れてしまって一寸も短い(『高』資料、一九頁、日本裏文化資料選書一三、日本裏文化研究会編、昭和五十七年六月刊)という話が流布されているし、戦前のわれわれも酒に酔っ払うと二つとや二人娘とするときにゃ、姉の方からせにゃならぬ、から九つとや〇〇陛下とするときにゃ、羽織袴でせにゃならぬとわめき、または一つずらして十とや、尊いお方とするときにゃ、とどなった。これが反人間、非人間の民衆、市民、常民的性感覚に対する徹底的な揶揄であり、批判であろう。私の性民俗に対する考えは明らかであるし、その資料としたところはすべて体験、実見、確実な伝聞資料であって、ただの一つもフィクションはない。ただ地名、人名は殆ど省略したが、その必要を認めなかったからである。底辺の人たちに対する民衆、市民、常民の攻撃は、仮借のないもので、女郎、芸妓、仲居、酌婦、軍慰安婦はもとより、子守、女工、女労働者に対する凌虐は無惨というほかあるまい。しかし非人間、反人間の世界では、そうした呵責凌虐は起こらなかった。起こしたとき、すでに「人間」になっているからである。反人間、非人間に固有名詞は必要でない。われわれは連帯を求めるために、新たなる性意識と性機能、性規範とを確立するために、お互いの経験を提供している。つまらぬ結婚儀礼や売春構造を否定するためにのみ、われわれの経験は生かされねばならない。人間にワイセツはあるが、われわれ人間、非人間にワイセツはなかった。新たなる性民俗の発掘と、その建設のために、われわれは連帯しょう。
 いま反人間、非人間の世界の発掘と建設とが始まった。民衆、市民、常民と、かれらの世界、かれらの運動を打倒し、非民衆・非市民・非常民、反民衆・反市民・反常民は連帯しようではないか。いまわれわれは、どこに位置するか、それもわからない。しかし、われわれのみが、金儲けとも、立身出世とも無縁な場所で、人間の新たなる地平を切り開く任務をもっていることは明らかである。われわれの連帯のために、心から固い握手を。
(pp.9-19.)

 まじクール。
 シビれるなあ。
 パンクだ。

 若き日の、ジョン・ライドンががなってるみたいだ。

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 キース・レヴィンも、まじカッコいい、、、

 そして、アナーキーな、十八番の艶笑譚が続く。

 この堂は薬師さんを祭っており、正月の薬師講の夜、若衆入りした十五歳の青年と女性がオコモリする。年によって人数が違うが、だいたい三十五人ぐらいらしい。女性の方は後家さんが主であるが、後家さんでも若い人は除いて、四十前後の人を選ぶ。が足らないときは四十前後の主婦から、クジビキその他で決める。三十七の厄年の主婦が厄払いとして加わることもあるらしい。薬師講は女の講なので、当日はムラの女性が全部集まってくるが、日暮れになるとオコモリを残して帰ってしまう。入れ替わりに若衆入りした青年たちがオコモリに来ると、本尊の前に座って女性たちが般若心経を誦し、若衆たちに教える。その頃でもまだ電灯がきておらず、ランプであったが、その他に本尊前に大ロウソク二本立てても、表も横も戸を閉めてしまいうす暗いらしい。般若心経をだいたい覚えられると夜半になるが、それから西国三十三カ所の御詠歌をあげる。そのうちつかれてくると、一休みしようということになりフトンを敷く。誰と誰とが組むか、その方法はいろいろあるようだが、人数が少ないとジャンケンで決める。五組の場合は仏は本尊さんということで、男女別に掌にスミで南、無、阿弥陀と書いて見せた。同じ文字の合った者が組むことになる。フトンへ入って同衾、しばらく雑談して、気分が合ってくると、
  おばはんとこに柿の木あるか
と問答になった。しかし女の方がまだ気が乗らぬと、
  まだ青いでえ
とか、
  まだちぎるのん早いでえ
と断るし、男がモジモジしていると、
  あの夜のこと知っとるんか
と催促する。うまく合ったところで、
  あるでえ
  よう実なるか
  なんぼでもなるでえ
ここまでの間に女は着物の帯を解き、腰巻の紐をほどいて、いつでも裸になれるようにしておく。
  サア、よお見てんか
まず両乳を出して見せ、さわらせたり、にぎらせたりして、よくならし、それがすむと下の肢へ手を入れさせて、なでさせたり、いろいろと教える。双方の気が合ったところで、腰巻を外して全裸になり、
  よお見んか
と開帳して拝ませた。若衆はたいてい参ってしまうらしい。
  よう見たか
  ──
  どないするねん
  ──
  柿ちぎらへんのか
このくらい催促されて、
  登ってちぎってもええか
  なんぼでもちぎったらええ
  ──
  お前、木登りもよおせんのか
親切な人は男の帯を解き、フンドシの紐をほどいて外させた。困らせるのが面白いという人はなかなか教えてやらず、着衣のままで登ろうとすると、
  そんなんで登られへん
と叱る。ともかく男も裸になって上ってくると、
  しっかりだきつかな落ちるでえ
ここで女体のだき方、組み方を教え、またクチスイ、チチスイもさせるが、女の方もフラフラになり、もうどうでもよいと思うらしい。
  サア、ちぎってんか
男のものを握って、自分の中へ入れさせる。若衆もいろいろでベソをかくのもいるし、あんがい上手にすむのもあり、平素はわからないような性格も出るらしい。なかなかうまくできんのもあって、女の方は一人前にしてやる役目があり、そんなのに当たると苦労するという。「柿の木問答」は、この程度が標準で人によって、時によっていくらかの増減はある。隣近所の運転状況を気にしたりすると、
  キョロキョロしよったら落ちるでえ
  もっと気入れてちぎらんか
などと叱った。女の方で公開できぬようなことをさせたり、いったりする人もあるが、自分が楽しむためでなく、初めての男を一人前にしてやるのが義務なので、はたが思うほどラクな仕事でないという。
ともかく第一工程がすむと、中休みにした。フトンはそのままで、また仏前にならんで
(pp.86-89.)

 夜這い慣習を抑圧した家父長制国家は、性を商品化させ、女性の性奴隷化を推進した。

(前略)娘を商品として高価に売り込むための処女性尊重と「貞操」の強要、息子を売春風俗産業の購買力に仕立てる手段としての「純潔」教育、そこには資本主義社会の露骨な商品化政策があるだけだ。
 私たちは若衆組の行事や夜這いを、かつて淫風陋習として退けたのである。しかしムラがムラであったとき、成熟した女性にとって若衆へ心身ともに健全な教育をすることは、次代への継承を維持するために負った義務であり、また権利であっただろう。ムラが一つの共同体として作動しているとき、夜這いも結婚関係も、若衆組その他と同じく、それぞれムラの「公事」であったから、かれらに「純潔」や「貞操」の観念はなく、どうして生
活を維持するかが根本の約束であったものと思われる。つまり個人として私匿しなければならない密室の作業でなく、いつでも公開されているルールに乗った行為であった。長い間、私たちは「夜這い」を誤解してきたが、それはムラの古い共同結婚方式を継承したものとして、まさに「公事」として維持されてきたのである。近代日本は結婚を「私事」に変質させることで、「夜這い」の伝統と継承とを否定したが、そのためにかえって社会的性生活を荒廃させた。
(pp.96-97.)

 若衆宿や娘宿による共同体規制が失われ、下層の女性は、性奴隷として売りさばかれることとなった。
 現代の「パパ活」も、こうした家父長制下の人間自体の商品化の流れのなかに位置づける必要があろう。

 大正後半から昭和初め、大阪の商家へ河内、大和地方の少女たちが子守奉公に来ていたが、だいたい一ヵ年の前借で、あまり明治の関東地方の状況から進歩していたようでもなかった。初潮があったとわかると、親が連れて帰るのがあり、いずれ酌婦か女郎にたたき売るのだろうと噂していたのもある。
 女中や女工に出た娘たちも殆ど同じようなもので、親切な先輩が居ないと、かえって嘲笑されたり、苛められることが多かったらしい。また部屋子とか、雛妓などとして接客業者へ売られる少女も多く、彼女たちは更に悲惨というほかなく、とくに初潮のあった少女を好んで買う客もあり、いろいろな話を伝えている。これも「水揚げ」に入るわけだが、普通は戦前でも十五、六歳以後であって、まあ異常な趣味とするほかあるまい。
 ムラに住む少女の場合、初潮があると、若者や男たちの「夜這い」の対象になるわけで、ここでもいろいろと「水揚げ」とか、「初割り」「初乗り」などという風習が論議される。しかし娘仲間のしっかりしているムラでは、初潮があったからといって相手をさせなかった。
  十三と十六 ただの年でなし
  十六で娘は 道具揃いなり
というわけで、十三に初潮があり、十六で陰毛が生え揃って、初めて一人前の女になると認めたのである。つまり娘仲間が一人前に成熟したと認めるまで、男たちの手を触れさせなかった。また最初の「水揚げ」「初割り」には、その相手になる男を十分に吟味したそうで、のちのちまで、その娘の人生相談に乗ってやれるような人間を選んでやったのである。年齢も三十歳前後の壮年を選び、接客業者のようにヒヒ老爺へカネで売るようなことはなかった。ただしこれにも、そう厳しいムラばかりでなかったのは事実で、ムラによって放任していたのもある。まあ娘の希望も聞いたり、娘仲間で相談したり、若衆頭などの幹部も意見を加えたり、というのが、だいたいのムラの慣行であろう。
(pp.118-119.)

 村の性教育は手荒い。

 しかし、そこには、「非モテ」がセックスから排除、疎外されることのない、おおらかな平等性が担保されていた、とみることができるかもしれない。

 ところが、男児は天気のよい日は外で遊べるが、雨の降る日の遊び場には困る。ムラによると公会堂とか、青年集会所などで遊ばせたが、私のムラでは家で遊ぶか、友人の家へ遊びに行くほかない。そのうち近所の家に話好きのおやじさんが居り、雨の日には納屋でワラジを作ったり、縄をなっていたので、友人と訪ねるようになり、いろいろと昔ばなしや伝説を聞かせてもらった。ある日、一人で話を聞かせてもらっていると、嫁さんが茶、菓子をもってきてくれる。しばらく話をしていると、お前、女の道具知っているかという話になり、女の児のものなら見たと答えると、そら、あかんいうので、横の嫁さんをひっくりかえし、あばれるのをおさえつけて見せてくれた。黒い毛の生えている本物を見たのは、それが初めてである。子供にアホなことしてと嫁さんが怒ると、八つもなったら、こんなことぐらい知っとかなあかんといっていた。いまから思うと昔話のよい伝承者であったが、いわゆる艶笑譚もよく聞かせてくれ、キンチャクだの、茶臼だのと教育してくれる。多いときには五、六人のガキどもが、がやがやわいわいと聞きに集まった。もう夜這いの話ぐらいは序の口で、お前のおかあの味はどうとか、お前のおやじと夜這いに行ってかち合って、というような話になる。大正前期ぐらいには、どこのムラも、このくらいの性教育は珍しくもなかったらしい。
 女大将の家へは、雨が降ると女の児が集まって遊ぶことが多い。私の家と近いし、女の児と遊ぶのが面白いので、ときどき訪ねて行った。尻めくりはやったとひっくりかえして、前を開帳させたら、怒った女児三人におさえつけられ、前をしごかれる。痛い、痛いと泣くまねしたら、女大将がうちのもさわらせてやると手を入れさせてくれた。年上であったが好きな児で、よく怒らせてやったものである。ある夏、川で泳いでいたら、女の子が呼びにきたのでついて行くと、女の子が五、六人ガヤガヤいっていた。女大将が鯨の一尺差しを渡し、これでみんなのモンはかれという。まだ水着だの、フンドシなどしなかったので、男も女も子供は丸裸であった。低学年はまだそうふくらんでいないが、十歳ぐらいからは相当に高くふくらんでいるので、どないして計れば公平なのかわからない。上をおさえ、下をひっぱって割れ口の長さを計っていると、ふくらんだまま計れという意見も出たが、直尺では正確な計測ができるわけもなかった。どの子のモノが一番に長いかというのが命題で、こうして計測してみると道具は同じ形と思っていたが、一つ一つ違うということがわかる。よく話に聞く「お医者さんごっこ」というのは、私の子供の頃は経験しなかった。女の子のモノが見たいと思えば、あんまりかくさずに展示してくれたと思う。男の方も同じで、そんなに秘密にもしなかった。
(中略)
 加西郡下里村の、ムラの大道を子供たちが、
  ××屋のオバハンが
  十三むすこのチンかんで
  いたかった
  いたかった
と合唱して歩いた。文法的には誤りもあるが、大意は××屋のオバハンが十三むすこのチンかんだので、むすこが痛い、痛いと泣いとったということになる。オバハンも、むすこも実在の人物だから、ムラの連中はエヘラ、エヘラと大笑いし、なかには母親が、お前もかんでもらいとすすめた。むすこというのはムラの子供のことで、実の子供の意味ではない。主人も子供もあったが、筆下ろしが好きだという評判であった。女大将が、あんたは色が白いし、オバハンが好きそうやから、誘われても行くなと心配してくれる。まだ夜這いがあった頃なので、そんなことぐらいに大騒ぎするのはいないし、後家さんなどで若い子が好きなのは、家の奥へ連れ込んで男にしたという噂もあった。私の友人にも、十歳の秋に誘われたというのもあり、早いのはその頃から性教育の本番を受けたらしい。こうして唄になるのはかなり密度が高くなったからで、一過性のものや極秘のものはわからなかっただろう。
(pp.158-161.)

 こうした若衆の元服と、その性教育についても、ムラの女頭目の関与が大きかった。初入りの若衆を、この地方では広く「日の出」若い衆という。ヒノデに夜這いを教えるのにもムラでいろいろと違って、まあ最初は兄貴分の後をついて行き、草履の番をさせられる。だいたい半年ぐらいお供をしているうちに、兄貴分が今夜はお前が入れと押し込んでくれた。また他のムラでは姉妹娘の居る家とか、母娘の居る家などを選んで、兄貴分が連れて行き、自分は妹とか、娘とかを相手にし、ヒノデには姉や母親などの経験者をあてがう。またオンナ仲間、カカ仲間、ムスメ仲間などのしっかりしているムラでは、仲間たちが双方の好みや性格を考えて相手を選んでやり、夜這いさせる。他にも、それぞれ女仲間で相手になる女を選別し、若い衆とクジできめるのもあった。
 クジのやり方もいろいろとあって、堂内でナムアミダブツとあてていって決めるのや、紙にスジビキをして下に女の名を書いて折り、上にヒノデが名を書いてきめるのもある。また下に女の名、またはヒノデの名を書いてコヨリにして男、または女に引かせるのもあった。しかしヒノデ本人やその親が特にあの女とか、あの娘をと希望するのもあって、そうなると女頭目が出てまとめるほかない。なおムラによると新年の若衆の初寄り合いに新入りを含めて、若衆と娘との一年間の性関係を定めるのもあり、その方法としてはクジできめるのが多かった。双方に増減があると後家が補充に使われたり、ヤモメがあてがわれる。だいたい堂内で決めたのは、仏さんが決めたというので、後家が実の母や伯叔母であっても変更させない。しかし外で決めたのは酒二升とか、いろいろの条件で双方が承諾すれば取り替えができた。難しくなると女頭目が出て、三ヵ月後に交換せよなどと裁定したのもある。こうした紛議には男の顔役が出ると、かえって紛糾させるからであった。話を聞いていても、男では難しい。
 ムラによると、若衆と娘との順位をきめておき、若衆が順位に従って一夜、一夜と廻るのがある。若衆も娘も一定の順に従って廻るから、すべての男女が一廻りのうち一夜は共寝することになった。それでも、
  好いたお方のひまとるときは
    壁に爪形 目に涙
  いやなお方のひまとるときは
    心すずしや 西の風
と唄い、たった一夜でもイヤなのである。
(pp.221-222.)

  思うてみやんせ十五や六で
    一人夜路が通わりょか(印南)
と、気の弱いのは一年たっても夜這いできないのもいる。そこでこの型のムラでは母親がお互いに相談し、あんたのむすこは私が男にしてやるから、私のむすこはあんたが男にしてやって、と交換協定をするのもあった。まあ、手ほどきだけしてやれば、後は自由にしろということになる。だが、娘でないと夜這いをさせないムラもあり、そうなると女頭目に頼んで、適当な娘を探してもらった。
(p.224.)

 村の性教育に、セクハラという忌避概念は存在しない。

 大正初め頃では、小学生になったら、ガキの先輩が鼻をつまんで「雨か、蛇か」と教えてくれた。これを三べんぐらい早口で唱えると、よい性教育になる。私の小学校は三、四百人ぐらいの大きい方であったが、女の児がしゃがんで地面でメンコ遊びなどしていたとき、校長先生が腰をかがめ頭を低くして、そら、めえとるぞ、めえとるぞとからかっていた。その頃の女の先生はハカマをはいていたが、お前、先生の尻めくりできるか、とおだてられ、ハカマをはねあげたら、頭をとっつかまれてハカマの中へ入れられ、内マタではさんでしめつけられ、とうとうあやまってかんにんしてもらう。暑くなっていたときでもあったが、先生の着物が上半だけで、下は下着と腰巻だけであるのがわかった。いまなら大騒動になるだろうが、校長先生に文句をいう奴など居るはずもなし、ムラのおっさんにお前、先生におしっこかけられたんか、とからかわれた程度である。
(pp.166-167.)

 下層の女性が、一家のなくてはならない労働力と役割を担っており、それゆえ、強い力、権限を有していたことも、重要な史実である。
 現代にも生かすべき知見であろう。

 徳川幕藩制社会や明治以後の社会の家族構造が、いわゆる家父長制といわれているのは周知の通りだろう。しかし武士、町人と農民、あるいは都市と農村とを比較すると、相対的に主婦の発言権、行動力は、かなり強力なものであったと思われる。普通、主婦としての評価は、いわゆる内助の功であって、亭主を押しのけても我意を通すという性質のものは、女房さかしうして牛を売り損なうなどと嫌われ、嬶天下と卑しめられた。しかし、それは女大学や教育勅語式の道徳倫理意識であって、男も女も協力して生きるほかなかった都市の低階層や一般の農民の場合は、嫁はともかくとして、主婦や後家が高度な発言力をもっていたことは疑いない。私たちは古い家父長制的な道徳倫理意識で、これまでの女性および女性史を見ていたから、ムラのオンナ仲間、オナゴ連中の組織的構造、その村落共同体の内部における位置および機能を正確に理解できなかった。
 いわゆるシャモジワタシなどの主婦権移譲が著名であるけれども、そうした家庭内の権力移動よりも、実は女仲間で団参、宗教関係の講、頼母子などを組む、その対外的交渉権を譲渡されるということが、そもそも主婦権(というものがあるとすればの話で、私はもっと大きいもので女政権というべきではないかと思うが、それはまたの機会にしたい)の基本でないかと思う。ムラのなかの生活、実態を見ておれば、山内一豊の女房型の内助の功など、農民にとっては修身のお話以上のものでないことがわかる。要するに男が、亭主が弱いようなら叩きつけてでも、主導権をとらなければ共倒れになるほかあるまい。豪農や地主の奥方さまなら内助の功ですむだろうが、低階層の農民では亭主であろうと屈服させねば、やがて逃散するほかないだろう。
私たちの見るところでは、内助の功型女房は悪妻といってよい。たいてい末には夫に家産を散失させ、遂には井戸塀にする。世間体では「金棒引き」とか、播州方言でいうオンナバレでないと、貧乏世帯はどうしようもあるまい。オンナバレは女晴れか、女荒れか語源はわからぬが、まさに「女傑」に価する。ムラの女どもの意見を統一し、男の顔役たちと対等に交渉するのは「女傑」で、「内助の功」型女房など三文の価値もない。男の器量でなんとかごまかせる間はよいが、男が失敗すれば忽ち馬脚を出す。ただ、こうした女傑に、修身的な貞女の見本を求めるのは誤解というより、求める男の方がよほどのバカだ。いわゆる男遊びもやるだろうし、大酒も飲むだろうし、バクチも打つだろう。男も飲む、打つ、買うのだから、当然の話である。それがわからないとムラのオンナ仲間、オナゴ連中の正確な理解は難しい。
(pp.178-180.)

 ムラ社会においては、女性も、自らの性の享楽に、積極的であった。

 スソナガにくらべると、オナゴ連中、とくに頭目級の女たちは、なにごとによらずはるかに自由気ままができたといってよかろう。性的行動などもスソナガであると批難されるようなことでも、オナゴ連中なら見逃しか、うまいことやったらええがなあ、ぐらいの反応である。女が夜這いするムラは、山村地帯に珍しくない。しかし実質的には似たようなことを、平野地帯のムラでもやっていた。娘や女たちが、自分のムラや他のムラに好いた
若い衆や男があると、ムラの若い衆に頼んで、「夜這い」の手引きをしてもらったのである。娘や女たちの方から「夜這い」に行けぬから、ムラの若い衆に文学的な表現をすれば、「恋のとりもち」をさせた。若い衆も娘や女たちからの反対給付もあっただろうが、ともかく他のムラの若い衆や男へ連絡し、家まで案内してやった。前にムラの「夜這い」について書いたが、こうした連絡はどこのムラとでもできるわけでなく、お互いに平素から開放し合っているムラに限られる。反目しているムラではできないから、娘の場合は叱りつけてでもあきらめさせるが、オバハン連中のときはなかなか承知せんので困ったという。どこのムラでも娘は顔や姿形のよい若い衆が好きで、だいたいの見当がつくらしい。しかし女房たちになると宮相撲に出るような強壮な男か、優形の若い衆か、好みに二つの型があるそうだ。彼女たちが見染めるのは「盆踊り」「祭礼」その他の行事のときが多い。昔は祭礼に奉納相撲が流行し、他のムラの飛び入りを歓迎したから、好きな男は立派な化粧廻しを作って遠征した。それで張り切った男の肉体にあこがれ、ねてみたいと思う女も出たのである。女にいわせると、祭りのタイコかき、宮相撲などで精悍な男の裸体姿を見るだけで、身体の奥までふるえるという。それにしてもムラの若い衆にとりもちを頼むのは、よほどの度胸であろう。まあ、ムラの娘や女たちのなかには、相当の度胸のあるものがいたのは事実である。(後略)
(pp.214-215.)

 下の記述からは、資本制の浸透とともに、村落共同体が崩壊し、村外婚、(共同体に規制されない)ロマンティックラブが定着していったことがわかる。
 もちろん、下層の少女たちが、性奴隷として売られていった事実も忘れてはならない。

 柳田派が鬼の首をとったように騒ぐナジミとか、コトワリ、ツキアイ、デキアイ、イッポンなど、東播だけでも十数種の方言があるのが、男女双方の独占的な夜這い風習である。これを結婚を前提にする特定契約というのは、全く実態を知らぬタワゴトであった。宮崎の例でもわかるが、ムラの人間は他所者に尋ねられたり、説明するときにはテイサイのええことをいう。男女双方が好きになって、他の若衆と交渉するのが気まずくなると、娘仲間から若衆仲間へ申し入れて、特定の関係を許諾させる。ただし、これもムラによって大差があって、そんな勝手気ままは絶対に許さないムラもあるし、いろいろと条件つきで承知するムラもあった。宮崎や柳田派は、若衆仲間、娘仲間が二人を祝福してやって、などと教育勅語丸出しに絶識しているが、そんなトボケた話があるものか。娘や若衆の一組が特定されることによって、ムラの夜這い体系が狂うのだから、そんなに寛大にできるものでない。これが、それほど絶讃に価するのなら、若衆入りのときから似合いの娘と夫婦にしとけばよいだろう。
 なぜ結婚までの男女に、性的自由を与えなければならなかったのか。ムラ共同体の維持というのが、大前提であり、根本命題である。男と女とに好き、嫌いがあるのは当然だが、それを認めたのでは若衆仲間、娘仲間の鉄の結束は不可能だろう。これは村外婚の出現、階級的分裂、商品生産の発生、商業資本の進出など、つまり村落共同体を分解させる要素が増大するにつれて、それに伴って起こった現象であることがわかる。ムラには大小広狭があり、人口構成も、自然環境、社会経済状況など千差万別であった。表面的な人口構成は均衡しているようでも、男の出稼ぎが多いとか、女の日傭働きが多いとか、いろいろと不均衡を生じる。夜這いにいろいろと形式が出るのは、ムラによって対応が違うからだ。またムラに変化が起これば、夜這いの形式も変えられるので、いつまでも同じ形式を守るということはない。夜這いのように、日常的であり、直接的影響の強いものは状況に応じて、すぐ変えないと若衆に限らず、ムラの人間の大半がノイローゼになる。それほどでもなかろうが、原則としてはその通りだ。
(pp.228-229.)

 しかし、夜這いは、かならずしも、アロマンティックなものではなかった。
 好き、恋しい、という感情は、やはり、なくてはならないものなのだろう。
 このへんの機微は、推して知るべし、であろう。

 夜這いというと盗人のように忍び込むものと思い勝ちだが、最末期にはこうした予約型、誘合型も多かった。明治の農村の女性は、中農程度でも尋常科四年卒業が大半で、ひらかなが書け、読めたら一人前である。字の書けない、読めない人も多かったが、それは男の方も同じであった。しかし恋の仲介をする文法はいろいろとあったので、紙に松葉を入れて包んで渡せば、今夜、待ちます、である。その松葉の片足を直角に折っておけば、早く来て私の足を折り曲げてくれ、というわけで、甚だ濃厚な性交の要請になった。もう一秒も待っておられません、すぐきて下さい、で緊急情況である。また、小石一つを包んで渡せば、恋しいあなた、今夜、待っています、になった。ところが小石が二つも入っていると、恋し、恋しのあなた、早く抱いてよ、で、これも緊急情況である。
 その他、女から男へ手拭い、男から女へ足袋などを贈って、変わらぬ恋を誓い合った。こうなると、ムラによって処理の仕方がいろいろと違う。柳田派はすぐに喜んで、結婚の前提、婚約の発表ととるが、そんな簡単にはならない。仲人をたて、結納を入れるというのは、明治も後半になって普及した近代作法で、昔はそんなことをしなかった。だいたいは若衆仲間が相談し、異議がないことになると双方の親へ通知し、男が女の家へ移るか、女が男の家へ行くか、あるいは通うかは、双方の家の、主として農作業の状況で違う。若衆宿、娘宿の発言は、双方の親が合意しないときに出ることが多く、ムラの頭分の介入も同じである。若衆仲間も、若衆型のムラでは、ともかく支配から離れるわけだから、なかなか承知せずにもめるのもあり、きまるまではこれまでと同じく若衆の相手をさせるのが多い。自由型であると夫婦になったところで、夜這いには行けるので、若衆型のように難しくないようだが、それでもいろいろと横槍が入る。
(pp.245-246.)

 夜這いにおける、公私の峻別の論理も興味深い。
 夜這いは良いけれども、「浮気」はダメなのである。

 ただ夜這いについて注目されるのは、性交のテクニックがそう複雑でないことだ。周辺には家人が就寝しているから、そう大あばれをさせられないわけだが、いまの夫婦交換とか乱交パーティーなどに比較すれば、単純なものであったらしい。戦前でも四十八手の裏表はあったのだが、レパートリーは多くなく、それよりも家宅侵入をやって、女の顔を見るだけで楽しみがあったのだろう。ただし双方で合意すれば他の時間、他の場所で、いくらでも死ぬの、行くのと大騒ぎするのは自由である。田舎のことだから、その気になれば、いくらでも場所があった。ただしムラによると若衆はともかく、夫婦の場合は夜這い以外の関係を嫌ったムラが多い。つまり夜這いなら公的関係だが、それ以外は私行なのである。ムラの論理には、そうした半面があった。ムラの秩序を維持するためには、その程度の規制も必要になる。
(pp.233-234.)

 そして、夜這いを、ロマンティックラブイデオロギーで粉飾する、柳田派民俗学への、この痛烈な批判。

 田舎の性生活が以前は、かなり自由であったのは明らかである。戦後も漁村、とくに離島のウラ(浦)では、よほど後まで残っていた。ところが柳田派の民俗採取や、解説を読んでいるとふき出すのがある。夜這いは性交が目的でなく、お互いにいろいろと語り合うのが目的であったなどという。こんなアホタレが採取する民俗資料など、信じられるはずがあるまい。お上品に語り合うだけなら、よるのよなかにわざわざ忍んで行かずとも、ひるひなかにいくらでも機会がある。今夜、あの女は、あの娘は、どんなアシライをしてくれるか、というので胸をわくわくさせながら行くのだ。しかし女心と秋の空で変わりやすく、不首尾になることもある。遊廓のお女郎さんでも、機嫌を悪くすると馴染みでも振るのだ。だからといって遊廓は性交を目的とする所でなく、お女郎さんと文学、芸術などを語り合う所だというのだろうか。まあ解釈は自由だが、こんなバカモンに教育される奴がかわいそうになる。
(p.235.)

 わたしたちにとって、レイプは、おぞましい性犯罪にほかならないが、ムラの性体験ゆたかな女性にとって、それは、若者に対する一種の性教育の機会ともなった。
 驚くべき事実だ。

 加東郡ということにしておくが、あるムラの堂でズズクリがあると紹介されて、採取に出かけた。いろいろとオトウのはなしなど聞いているうちに、夜這いの話になる。初めて夜這いがきた夜の話、結婚初夜の話、若衆の筆下ろしした話、夜道で強姦された話などと賑やかになり、ついには男の物が太いの、長いのとなって、どうすれば効果が高くなるかの性交体位実践事例の交換ということになった。女のワイ談は、男と違って極めて具体的、直接的なものとなる。うち、こないだ強姦されたんや。どこでいなあ。駅から帰るとき、堤でやられたんや。なんや、会長はんもか、うちもやられた。あしこは、ようやられるとこや。強姦の名所やで。だまってはったん。下手して殺されたら、よけいなりが悪いやろ。誰やわからんかったん。わからへんけど、どうせ近所のムラの子やろ。それが早いことしよって、どないしたん思うたら、またきよった。なんや二度突きかいな。そんでわからへんかったん。抱いてみたら、わかるわいな。これは上品にしたので、もっと具体的描写になる。
 某駅に下車すると長い川堤の上を通るので、暗い夜などは絶好の場所であった。田舎には、よくそうした名所があって、どこの某女がやられたなどと噂になることが多い。なにも危険を承知で通ることはなかろうといえば、秋口などは予定が狂って遅くなるそうである。夜の女の独り歩きは、する方が悪い、ということだ。だから強姦の噂が多いのに、届け出たとか、検挙されたというのは殆ど聞かない。夜の独り歩きをするのは中年女に限るので、襲うのは若い男というのが相場である。すんでから問いつめて、どこの誰と白状させ、もうこんなことしたら突き出してやると説教するそうだ。夜這い世代では、こんなアヴァンチュールも、話の種の一つだろう。若衆たちも、それを承知でねらうわけで、全く知らない女の場合もあれば、かねて目をつけているのもあった。女が、道で知り合いに妹の家へ行くとか、なんとか話をしているのを聞いて、だいたい帰るのが遅くなると推知、待ち伏せることになる。ねらわれる女は、まず味がよいとか、道具がよいとかの評判のあるのが多い。襲われるのは自慢にもなるわけで、普通にいう強姦事件とは違って、夜這いの変形ともいえる。
 強姦されたという女たちの話を聞いていると、襲った若衆たちの方がかわいがってもらったのだ。この頃の若い衆は、どないしたんじゃろ。女の腰巻も、よう開けんのや。ほんま、ほんま。だんだん夜這いが難しなってきたからやろ。夜這いもようせんいうような男が、かかもろてどないするんやろか。まだ強姦しよういうような若い衆なら、見込みがあるわなあ。あかん、あかん。夜這いやってみい、くぜつのいい方から教えて、抱き方、お乳の吸い方、もみ方から、だんだん教えたるやろ。イマキの開け方、とり方、なぜたり、さすったり、吸うたり、それから「御免」いうことや。いまの子みてみ、首にかじりついて、腰押しつけるだけで、なんにもようしようらへん。そんで、どないしたん。マタひろげて、イマキ開いて、つまんで入れさせて、いうことや。こっちも面白いやろ、イヤや、イヤやいいながら、うまいこと腰動かして、マタにはさんだるわけ。そんな若い衆ばかりでもなかろうといったら、昔にくらべると落ちたそうである。まだ夜這いが残っているムラなら、それほど不自由せんだろうし、教育もしてもらっているから、他所で無理はせんだろう。夜這いが不自由になってきたムラの若衆は、まあ他所へ出て無理することになる。周辺のムラの事情はわかるから、だいたい見当がつくので、白状して謝るらしい。だんだんと夜這いが禁圧されるようになって、そうした歪みが出てきたのである。
 あんた、あんな話ばっかり聞かされて、もうむずむずしとるやろ。こんなかで気に入った女あるか。会長はんが、ええやろ。うち、あかんぜえ。なんいうてはるのん、戸閉まりして帰ってもらわんと困りまっせ。ということで、他の女たちは揃って帰ってしまった。手伝って座ぶとんや茶道具の始末をし、ゴミを掃き出してしまうと、堂の戸を閉める。あんた、お乳吸いたいやろ、おいで。会長はん、後家さんか。アホやな、ダンナもおるし、子供もおるわ。ふん。うち、きらいかいな、ということになった。昭和の初め頃までは、このくらいの開放的なムラが、そう珍しいほどでもない。しかし、ただ野放図に開放しているわけでなかった。出身の知れている若い男をいろいろとからかって挑発したのだから、それ相当の接待をしておく、ということである。こうしたときの、女たちの動きはみごとなもので、いつのまにか合意が成立し、接待の人選も終わっていた。
(pp.248-251.)

 次は、都市のスラム街における、少女の性が売り買いされる現場の話である。
 ただただ、驚愕する。

 辻占や花売り娘たちが一群となって、ムラの娘仲間みたいのをつくっていたが、もう早いのは十、遅くとも十二、三までに水揚げする。大阪ではデン公という不良少年が殆ど相手だが、客や長屋の大人たちもあった。もう七つ、八つになったら相当の性知識は、実見しているので持っている。私など独身だから、兄ちゃん、チャウス知っているか、などとからかわれた。しかし、もっとびっくりしたのは、掻っ払いである。店内で万引するのと違って、店頭の商品を盗って逃げるのだ。さすがにいつも行っているカフェーや飲み屋街ではやらないが、付近の商店街でやる。通りかかったら人だかりがしているのでのぞいて見たら、中で娘がわあわあ泣いており、掻っ払いに失敗してつかまっていた。まあ今宮あたりの女の子だろうと、叱られて許してもらったらしい。しかし聞いて見るとよくやるらしく、盗品は娘仲間のボスが売って仲間の遊びに使うようだ。九つぐらいまでだと幼女だと思って、かえって金や物をくれるのもあるという。助平みたいなオヤジに店内へ引き入れられたので、前を開けて見せたらいじくってから、金をくれたので、ときどき行っていじらして金をもらってくるのもあるそうだ。ほんとかと疑っていたら、他の娘もあるそうで、うそやいうのならついて見にくるかと誘われたが、さすがに思いとどまる。その店だけは教えてくれたが、どうも幼女姦、それも水揚げしたがるのが多いらしい。五円で買わなかったが、どうせ水揚げさせるから、あんたが水揚げしてやれ、という。初めからボスやデン公を通じて水揚げを交渉するのもあり、辻占や花売り姿を見てのことだ。しかし直接に店内や家内へ引き入れて強姦するのもあり、これは後からあんちゃんなどが娘を連れて脅しに行く。まあ店や家の状況、女房の有無などを見て五十円、百円ぐらいから切り出すそうだ。娘が裂傷を受けて医者通いしているなどともちかけ、医療費をかさ上げするのもある。幼女は普通の強姦より重罪だと脅され、かなり高くふっかけられるようだ。長屋の仲間なら五円、十円でもすむが、外の客には二度か、三度ぐらいまで初めてで高く売るらしい。当時、水揚げなどと上品なことはいわずハツワリ、ハツボボなどといったが、ハツケリというのもあった。スラム街周辺では、初潮の前に、すでに水揚げがすんでいるわけで、買いに来るのは初潮前であることを条件とし、初潮の疑いがあると値切る。まあ、そうした世界もあるということにしておく。
 長屋群だけのことでなく、スラム街では十三、四歳になると娘は売られるか、カフェー街などへ働きに出される。早いのは九つ、十ぐらいから遊廓の下地子に売られ、十三、四になると十六として初店に出されるのもあるらしい。子守に出されるのは少ないようで、辻占や花売りの方が現金が毎日入るということだ。ただし辻占や花売りはすぐできるものでなく、縄張りの承認が要るから、なかなか難しい。しかし承認があれば仕入元や販売圏を指定してくれるので、その日からでも商売ができることになった。ついでに男児は十ぐらいから丁稚小僧や、工場の坊主小僧に年季奉公で売られる。
(pp.358-360.)

 そして、性をひさぐ、細民街の女たちの話。
 現代の接客飲食業(お水)の女たちを想起させる、もの悲しい話だ。

 かりに女頭目が、この女ならカフェーづとめができると思えば、カフェーで衣裳を貸すかどうか。貸さない店なら衣裳屋から借りるか、それもできねば仲間の衣裳を貸してやるとか、ともかくその日から僅かでも生活費が入るようにしてやる。当時のカフェーはどこでも同じだが、新世界、阿倍野周辺のカフェーは、まあ売春取引所と同じであった。殆ど給料は出さないから、客のチップが準固定収入プラス・アルファということになる。知っている女が遊びに来いというので行くと、洋服のポケットの中へ手を引き入れた。すぐに密林をつかませられたわけで、ポケットには底がなく、肌着もない素裸である。着物姿でいろいろの細工があって、お乳はすぐ触れられるし、手を引き入れてくれるとジャングルもすぐ開かれた。しかしお客の方が探険しようとすると、どうにも発見できない。この辺のカフェーは娘らしく化けているが、夫持ち、子持ちの女房も多く、顔で笑って、心で泣いてではないが、少しでもチップをかせがないと食わせられないから、わかっている者から見れば必死の殺気さえ感じるのがある。もう手段がないとわかれば売春になるのが当然で、とかく文句をつける余裕はない。
(pp.378-379.)

 赤松先生がスゴいのは、こうした買春・売春と、現代の婚姻制度とを、同質のものであると、喝破しているところだ。

 それでは、赤松先生が理想とする、男女の性愛のかたちとは、どういうものなのだろうか。
 それは、モノガミーを否定し、ポリアモリーを肯定し、実践することだ。

もう一人、誰かを好きになったとき

 そして、その結果として、競争原理と人間中心主義は否定され、母系制の社会へと移行する。
 その理想は、わたしのそれと、ほぼ重なり合う。

 いままでの一夫一婦制を「単婚」型としてみれば、いくつもの「オトコ」「オンナ」の連帯による「複婚」型へ改組せしめるならば、私たちの性的社会関係は極めて開放的となり、また性的世界が著しく拡大されるだろう。これは原始的乱婚、あるいは雑婚とは全く関係のない、人間としての新しい自由な性的社会関係の創出である。それはわれわれの底層社会では、すでに作動し、成長しつつあった。ムラであれ、部落であれ、スラム街であれ、町工場街であれ、そうした新しい性的社会関係が、「女連中」によって切り拓かれていることは、また未来の展望に一つの鍵となるだろう。企業優先で心身とも会社にささげ、家事のできぬ日本の男を「産業廃棄物」と呼びたいという女性たちは、新たなる「オトコ」を造出し、「産業廃棄物」を追放し、独占資本主義を打倒するためにただちに行動しなければなるまい。ムラや、部落や、スラム街や、町工場街などに生息する「女頭目」たちは、すでにして「産業廃棄物」である野郎どもを追放し、新たなる「オトコ」「オンナ」の複婚制造出の先鞭をつけている。単婚制を信奉する限り、女は男に隷属するほかあるまい。
 売春禁止法を作って、売春がなくなったのか、そうではなかろう。公娼がなくなれば売春はなくなったので、個人的な売春は淫売でないという論理ほど、人を喰ったふざけたものはない。公娼であろうと、私娼であろうと、管理売春であろうと、自由恋愛であろうと淫売は売春だろう。なぜ売春はわれわれの社会に必要なのか、社会的必要があれば売春はなくならない。かりに男も女も十五になれば、地域の先輩が本当の性教育をしてやる。その後は自由に夜這いをさせ、オトコ、オンナの関係が成立するように指導してやれば、買春も、売春も必要でなかろう。それは楽観的すぎるというのなら、買春も、売春もなくなるときはあるまい。私も、なくなるときはないと思っている。しかし、それを極めて病的なものにとどめ、少なくとも通常的には避ける方法はないか。それが現代社会の、われわれの課題だろう。
 現代の社会の経済構造的なものから発生したものに、出稼ぎ後家、転勤後家、出張後家がある。これは出稼ぎ、転勤、出張、すべて夫婦、または男女一対を原則とし、それだけの経費は企業、官公庁が負担するのが当然だろう。でなければ男は、ますます「産業廃棄物」となるほかあるまい。しかし、いまわれわれが直面している大きな問題は、家庭の主婦を誘い出しているバイト働きであろう。昔、われわれがスラム街、町工場街、零細商店街で見た嬶たちのオトコ、オンナの新しい性関係の創造は、いまのバイト働きの先駆であるとすれば、広汎なバイト職場で、オトコ、オンナの新しい関係が発生していることは容易に推察できる。いわゆる翔んでいる女たちが求める男女同権は、この事実を確認し、これまで父系社会を支えてきた「単婚」制を破毀し、この「複婚」制を確立するほかあるまい。つまりは女が生まれ出る子供に責任をもつ「母系社会」の、新しい創造である。いま私たちを腐敗させている、もう一つの内面的な傾向として「夫婦交換」「乱交パーティー」「同性愛」「異常性愛」などの問題が起こってきた。これを極めて一部の現象とするのは、非現実的だろう。いまエイズが世界的な瀰漫と拡大を見せているのは、父系社会の崩壊と単婚制の支配が全般的に解体されつつあることの明らかな徴候である。いわゆる核家族の崩壊、バイト家庭の激増は、子供たちの登校拒否、学校暴力、いじめを産んだ。いま「いじめ」を鎮圧したところで、新しい火種を作るだけであろう。残されたのはセックスとバクチの他にないから、お手てつないで仲よくセックスを楽しみ、バクチをして遊びましょうということになる。こうして幼少年の段階にまでオトコ、オンナの関係が拡大され、一か八かのバクチ精神が浸透するだろう。ということは「複婚」制の基盤が普及してくるわけで、「父系社会」の全般的崩壊のなかでこれを解体させ、新しい社会関係を再建するには、「複婚」制を基盤とする母系社会の建設以外にないことの徴表であろう。母系社会の「複婚」制もまた、いろいろの矛盾と亀裂をかかえていることは必然だが、その解決と修整は新しい世代の作業である。
(pp.408-410.)

 父系社会では村落、部落の最底層、都市の町工場街、零細企業街、スラム街の最底層でも、それなりの社会的なルール、難しくいえば規範があることは既述の通りであった。そのうち一夫一婦制的単婚の他に、オトコ、オンナの二次的夫婦関係があって、複婚制への発展を秘めている事情は明らかにしている。これを既存の男女性関係から見て、妾、愛人、あるいは間夫、ヒモという頽廃した性関係と同一視するのは愚劣であろう。
 われわれが彼らの愛情関係の新しい展開から、未来の複婚制への展望、女系社会の創出を見たように、かれらの経済的な慣行のなかから、いまの資本主義を否定し、新たな経済社会を建設するための、一つの基盤を見出すこともできたと思われる。(後略)
(p.411.)

 われわれが当面している資本主義社会体制の中でも、お互いに労力や物資を相互交換(ユイ)したり、相対援助(カエシ)したり、また資金もあるとき払いのイットキ借りで融通し合うなど、農村や部落の低階層、都市のスラム街、町工場街、廉売市場街などに古い澱滓のように生きている民俗があるということが明らかである。いまの独占資本主義体制は、「競争経済」を原理として、ひたすら拡大再生産の軌道を驀進したため、自然破壊、社会機構の解体、人間精神の頽廃などをひき起こし、核爆発による地球破壊より他に救済の道がないような危機的様相を造出してしまった。これを阻止し、人間的な経済構造を創造するには、まず「競争原理」を否定し、「共同経済」社会を創建するほかに手段はあるまい。この苛烈な「競争経済」社会にあっても、その底辺には人類の古い「共同経済」の慣行が生かされていたわけで、それを発掘し、われわれの新たな「経済原理」として発展させなければ、私たちに未来はなかろう。
 しかし、この経済構造の変革は、また父系社会の追放とも連結するものであり、とくに単婚制を基盤とする資本主義社会を解体させ、複婚制を主礎とする母系社会を創造する他に、そのあらゆる矛盾を止揚させる道はあるまい。ただ複婚制は、原始的といわれる乱婚や雑婚、あるいは一婦多夫とは全く異なる。複婚制では男女の固定的、特権的、独占的結合は許されない。つねに男は女に、女は男に開かれた対象であり、性的交渉と選択の自由は保証されている。つまり社会関係の基本となるのは父系家族ではなく、母系家族であって、男は母系家族の附傭として位置し、その主人となることは否定されねばならない。子供は母系家族に扶養され、その父を問われることはないだろう。ただし父系社会の古い夜這い風俗の復活ではなく、また近世村落社会における夜這い慣行とも異なって、母系社会では男女の自由な交渉と結合の保証があって、「複婚制」の維持と発展とがある。つまり「単婚制」が男女一対の半永久的な結合を、権力によって強制されたものであるに反し、「複婚制」は男女が自由に個別、または複数の結合を選定することになるだろう。社会的財産は共同消費されるが個人的に継続維持、すなわち「相続」されることはない。地球の資源が無限大でないならば、拡大再生産原理はいつか破滅する。社会主義、共産主義世界も、拡大再生産原理をとる限りいつか破滅するのは同じだろう。われわれが地球の限界点を測定しながら生存しなければならない限り、社会の競争経済を否定し安定した共同経済を選定するほかあるまい。競争経済を前提として発展してきた父系社会は、いまや地球そのものを破壊する自殺的暴挙を犯さんとしている。これを拒否し抑止できるのは共同経済への転換と、その展開とを保証することのできる母系社会を創造し、確立するほかに、再生への道はあるまい。いろいろの問題点は底層社会の慣行のなかに出ており、その発掘と定着によって解決の示唆は与えられているだろう。それが、いまの私にできる結語である。
(pp.418-420.)

 いや、もう限界。
 あー、疲れた。笑

柳田民俗学を本質的に「士大夫」の民俗学であると断じた著者は、「非常民」こそが人間であることを宣言して、柳田の「常民」概念が掬いとりそこなった人間生活にとって最も重要な性の現実にとことん分け入って行く。外部からのフィールド調査ではけっして辿りつけない村落共同体の公事としての性風俗を、「コドモ集団」の性教育から「オナゴ連中」の構造と機能にいたるまで、詳細かつ大らかに語りきった赤松民俗学の集大成。

目次
1 生活民俗と差別昔話
もぐらの嫁さがし
村落共同体と性的規範
2 非常民の民俗文化
村落共同体とは
間引き風俗
初潮の民俗
ムラと子供
誕生の祝い・子供のシツケ
子供仲間 ほか


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