森崎和江,1992,第三の性,河出書房新社.(6.19.24)
本書の初版が出されたのが1965年。
高度経済成長たけなわの、国民皆婚時代のことである。
そして、日本で女性学、フェミニズムが大衆化する20年以上前のことだ。
本書では、女性二人の「交換日記」のかたちで、抑圧された性をあてがわれた者の苦悩が切々と綴られている。
性的に男女を峻別するものは、結局のところ「産む」っていうことでしょう。あなたはいつか「人間が人間を産んだといえるものがあったら―――」といった。そのいわんとするところは分る。けれども、ともかくも、一つの生命を、人間という形をした生命を産みだす機能がそなわっているのは女なんです。男はその媒体にすぎんでしょう。
それを男たちは知っているから、権力が必要だと思うの。「性」と「産む」とは一連のことでありながら、その実、全く異質なもの、意味と機能を異にした別ものなんですよね。いつぞやその性のしくみについて話しあいましたね。それが存在内にどうしくまれているか、そんな話をつづけた気がするんです。性のしくみは、権力によって「貞操」を女のいのちととっかえる「美徳」だとした。でも一方ではね「産む」という側ではね、「性」を売って産むことが「美徳」だったんです。どんなやつへであろうと、ともかく性を売り渡して「産む美徳」をおしつけられた。
(p.121)
男女の経済的不平等を基盤にしたハイパーガミー(上昇婚)、性風俗から飲み屋界隈、パパ活等の買春、売春の習俗がいまだに続いていることからも、「性を売り渡して「産む美徳」」がけっして過去のものではないことがわかる。
そしてわたしたちは話しあったの。近代的性愛か同志的性愛か知らないけれども、バケッの中の二匹のねずみのようにして、互いを互いの内部にとざそうと働く傾斜がどんなに互いを貧しくしてしまうかを。一面では存在の所有という観念と嫉妬心という情念の織りあわされた貞操帯のまわりで私怨をふかめていくでしょう。半面では孤立して現実とたたかう孤独な力を弱めさせるんです。性愛の基盤ともなる存在の自己凝縮力を。前者をたたき後者をふかめあおうとする相互の関係が愛として働きあわねばどうにもならない。外界へ対する孤独
なたたかいからしたたりおちてくるしずくを共有していくようにしなければ、性は解放しないんです。
(pp.184-185)
孤独に耐え理不尽な外界の力に抗っていく、その拠点となる開放的なつながりなりパートナーシップなりの価値は、現在も不変である。
森崎さんは、この価値を、筑豊の炭鉱で働く女たちのたくましさから学んだのである。
日本におけるフェミニズムの歴史的名著が復活。階級の深みにわけいりながら性を核心にして愛や所有などの主題に向迫る美しい闘いの書。