井上荒野,2022,生皮──あるセクシャルハラスメントの光景,朝日新聞出版.(5.9.24)
性暴力被害や被害者のPTSDをモチーフとした、ノンフィクション(ドキュメンテーション)や学術書は数多い。
それらには、被害経験とその記憶に苦しむ当事者の生々しい声も数多く収録されている。
しかし、自らの苦しみを言語化するのは必ずしも簡単なことではなく、性暴力被害経験とその記憶の過酷さがじゅうぶんには伝わっているとは言えない現状がある。
そして、加害者は、被害者以上に口を閉ざしたままであることが多く、なぜそのようなことをしたのか、自分がしたことに対しどう思っているのか、ほとんど不明のままだ。
その点、優れたフィクション、文学作品は、被害者、加害者双方の心理を、巧みな言語表現を駆使して描き出してくれる。
本書は、その点で、きわだって秀逸な作品であると言える。
セクハラ被害者と加害者の生々しい感情描く『生皮』。読みはじめたらもう止まらない。
井上荒野さん「生皮 あるセクシャルハラスメントの光景」インタビュー 性暴力について小説ができることは
性暴力被害者の「生皮を剥がされる」ような苦しみを、被害者のひとり、小荒間洋子は次のように語る。
「彼がしたことは、私の皮を剥ぐことでした。私は最近、そう考えるようになりました。彼が自分の行為について、それに似た言葉で正当化していたということもあります。私に小説を書かせるために、私がもっといい小説を書くために、俺はお前とセックスしたんだと彼は言った。私は彼に生皮を剥がされた。でもそれは、私自身が私の中を覗き込み、自分の皮を剥いでいくこととは違います。全然違うんです。
もし私が彼を愛していたなら、彼と寝たいと思っていたなら、あの行為は彼が言うような意味を持ち得たかもしれません。でも、私は彼を愛していなかったし、彼と寝たいとは思っていなかった。彼が何のためにそうしたかとは無関係に、彼がしたことは略奪です。暴力です。彼は私の皮を剥いだ。無理矢理に。その皮はいまだ再生されていません。皮を剥がされた体と心は未だに血を流しています。ヒリヒリと痛いです。どうにかしようとして、上から何か被っても、その下でずっと血が流れているんです。今もそうです。
いつかはあたらしい皮膚で覆われるときが来るだろうと信じたいです。でも、それはいつなのか。そんなときが本当に来るのか。彼から生皮を剥がされた痛みに、私は一生耐えていかなければならないのかもしれません。私にセックスを強要した男は、謝罪をしたいからあらためて会う機会を作ってくれと申し入れてきました。被害者のもうひとりの女性にも、そう言っているようです。でも、私は応じませんでした。もしも彼の謝罪を受け入れるときが来るとしたら、そのときを決めるのは彼じゃなくて私たちだと思うからです」
(pp.290-291)
小荒間洋子と九重咲歩が、小説講座の講師、月島光一から受けた性暴力被害は、伊藤詩織さんがTBS記者(当時)の山口敬之から受けたそれを想起させる。
小説家になりたい、ジャーナリストになりたいといった女性の夢につけ込み、パターナリスティックな関係性(相手が子どもであればグルーミング)をつくったうえで、親子ほどに年が離れた男が性暴力をはたらく。
本作品では、そうした行為を正当化する加害者のゆがんだ心理、認知の枠組みが克明に描き出されている。
そのリアルさは、読んでいて吐き気をもよおすほどであった。
文句なしの秀作であり、性暴力を忌避し憎む、まっとうな感情を呼び起こしてくれる作品である。
小説講座の人気講師がセクハラで告発された。桐野夏生さん激賞「この痛みは屈辱を伴っているから、 いつまでも癒えることはないのだ」
皮を剥がされた体と心は未だに血を流している。動物病院の看護師で、物を書くことが好きな九重咲歩は、小説講座の人気講師・月島光一から才能の萌芽を認められ、教室内で特別扱いされていた。しかし月島による咲歩への執着はエスカレートし、肉体関係を迫るほどにまで歪んでいく--。7年後、何人もの受講生を作家デビューさせた月島は教え子たちから慕われ、マスコミからも注目を浴びはじめるなか、咲歩はみずからの性被害を告発する決意をする。なぜセクハラは起きたのか? 家族たちは事件をいかに受け止めるのか? 被害者の傷は癒えることがあるのか? 被害者と加害者、その家族、受講者たち、さらにはメディア、SNSを巻き込みながら、性被害をめぐる当事者たちの生々しい感情と、ハラスメントが醸成される空気を重層的に活写する、著者の新たな代表作。