小倉千加子,1994,女の人生すごろく,筑摩書房.(10.1.24)
本書が刊行されて30年。
この間、なにが変わり、変わっていないか、考えながら読んだ。
まず、女子の短大進学率が減少し、4年制大学進学率が5割を超えた。
小倉さんは、当時の勤務先の短大生を念頭に本書を書いているので、「いまやそれはない」というところも多い。
OLという呼称も死語となった。
それでも、変わっていないこと、いまだに解消されていない問題も数多い。
その一つに、女性が、「固有の人格をもった人間」として尊重されずに、男の性的欲望を充たす手段、道具として、客体化されてしまうという事実がある。
その結果、男に「まなざされる性的客体」として自己を値踏みしてしまうことからくる、いわゆる「女子をこじらせる」という問題である。
思春期を迎えた少年と少女は全然違います。性というものに出会うときに、出会い方が違うんです。男の子にとっての性と女の子にとっての性は、意味が違うんです。どこが違うかというのは非常に大きな問題なのに、今までそういうことを考えてきた人はほとんどいなかった。
ひと言で言いますと、女の子の思春期というのは、自分の身体が、実は自分のものではなくて、誰かの快楽のための道具であり、誰かに鑑賞されるものであるということに気づく時期のことです。難しく言いますと、自分の身体が異性の欲望によって消費されるために社会に流通する記号だという認識を持った時、その子は、たとえ小学校二年生であっても思春期なんです。
そのとたん、彼女たちは自分の身体を、自分の中から出て一・五メートルぐらい離れたところから見る。自分の身体は、美しいかどうか。人から鑑賞された時に、十分その評価を受けるほどスマートであるかどうか。そういうふうに自分の身体を見つめはじめる時、それはもう思春期であるというふうに言えます。
(p.13)
自分の身体が自分のものではなく、誰かの快楽の道具である。あるいは誰かに鑑賞され、触れられるものである、という自覚は、本来非常につらい自覚なんです。でも多くの大人は、そのつらいことを、本当につらいことだねっていうふうには教えませんね。
(p.14)
複雑性PTSDを負った女性には、自己のセクシュアリティを対価を得て売り渡すという自傷行為を繰り返す者がいるが、そうでない者にとっても、恋愛や性愛は辛い記憶と現実から逃避する主要な手段となる。
このことも、現在でも変わっていない。
女子大生に見合い結婚がいいか恋愛結婚がいいかと聞くと、恋愛結婚がいいと答える子が圧倒的に多いと前に述べました。それからおつきあい篇の中で、恋愛というものが、この社会におけるストレスといいますか人間が追い込まれている状況のつらさ、文化・制度に対する不満から逃れるための七つの方法の中の一つに入っているということを言いました。恋愛している限りにおいては、われわれは制度に対する不満を忘れることができます。制度──学校がどうの仕事がどうの、上司がどうの、なんて忘れて相手のことを考えると舞い上がってしまえる。
これは毒をもって毒を制す、みたいなものです。フロイト自身にいわせますと、恋愛という方法は非常に効き目が強い、劇薬のようなものだ。なぜならば恋愛には性的な快楽が付随していて、性的な快楽というのは文字通りその個人に肉体的な、つまり生理的な刺激を与えることによって、文化に対する不満という生理的な苦痛を忘れさせてくれる、と。エクスタシーというのは、今いる立場から人間が一歩世界の外側に出るという意味です。
ですから年がら年中エクスタシーをやっていますと、どんなつらいところに生きていようがそんなことはどうでもいいわけです。女の人の中でめちゃくちゃに疎外されている人がいますでしょう。そういう人は年がら年中、男を求めるという傾向があるということはいえます。ニンフォマニア、色情狂といわれる人は、そういう刺激なくしてただひとりでいま置かれている状況に立っているのがつらくて耐えられない人です。だから、とにかく誰でもいいから私に束の間の快楽、つまり一切の記憶の忘却を与えてちょうだいというのです。
(pp.184-185)
結婚という「退屈な安定」をとるか、恋愛という「ときめく不安」をとるか、非婚化が進んでいる一因には、恋愛は希求しても、結婚については、その行き着く先が見えすぎていて魅力を感じない者が増えていることもあるのだろう。
結婚という制度の中では恋愛の不条理性は隠蔽されてしまいます。つまりもうあなたは私を愛していないのね、私もあなたのことをもう愛してないのよ、でも夫婦だから一緒にいるわよね、こういうことです。問題は、私たちは存在の不確定性というものを何らかの制度的支えなしには長時間耐えることができないというところに尽きるわけです。そのために結婚という制度が必要になった。そうしますと、少々愛が消えてしまっても、それに代わるものがある。要するに円グラフみたいなもので、最初、結婚する前は愛一〇〇%だったんですが、結婚して一年、二年たつと、愛が少しずつなくなっていって、そのかわりに、情が移るとか、そういうのに変わる。あるいは友達のような感情とかが増えてくる。そういうのがどんどん愛を侵食していき、目を見たら電気が走る、なんてことがほんとにあったんだろうかというところにいってしまう・・・・・・。最後には馴れあい、居直り、ライバルといることの心地よさみたいなところまでいったりするのです。
(p.190)
のちに信田さよ子さん等が問題化した、母の娘への、身勝手な願望の押しつけについて、小倉さんは30年前にみごとに言語化していた。
そういう母の下で育てられた娘が春の目覚めを迎え、偽善的な母はお赤飯をたく。OLになろうとする娘に母親は「そんな会社、聞いたことないよ」と言うわけです。結婚したくないと言う娘に対して、「そんなこと言うもんじゃないの」と言います。
日本では娘の成長といいますか、娘がすごろくを一段一段上がっていく過程が母親の勲章になります。娘が生まれてから結婚するまでが母親の食事のフルコースです。だから娘が結婚したというのが母親にとってのメインディッシュです。娘に子供ができたというのはデザートみたいなものです。なるだけデザートを長く味わおう、レストランから追い出されたくない。最後までお客の特権にしがみつくために、娘が産んだ子供、つまり自分の孫の面倒をみながらフルコースの中に入ったまま死んでいくという夢があるわけです。「どうしてお前は私に孫の顔見せてくれないの」というのは、メインディッシュまでいってどうしてデザートが出てこないの、帰るに帰れないじゃないの、ということなんです。
ところが最近、嫁に行かない娘が増えてきました。これは母にとっては脅威です。「私は今までお前を育ててきた。こういう学校に行かせて、いろいろ服も買ってやって、お前の言う通りにしてきたのに・・・・・・。最後に結婚するつもりがないなんて、そういうドンデン返しみたいなことはしないでくれる?」と。落とし穴にはまったようなものなんです。それは母親としてとても恥ずかしい。嫁にも行かない娘さん──二十九、来年でもう三十。今年が勝負というところがあります──三十直前の娘がまだお嫁にいかないで家でうろうろしていると、「自分で勝手にわがままで決めたことだからお前はそれでいいよ、ところが私はどうしてくれるんだ」というのです。
スーパーに買物に行っても近所の人と会うのがいやだ。後ろ指さされているような気がする。「娘さん、もう片付きはったの?」とか「まだなの?」とか、わかっているくせに聞く陰険なオババというのが近所には必ずいますから。結局、そういうおばさん同士の功名合戦といいますか勲章とり、おばさんのサバイバルみたいなものを「お前はちっとも考えてくれない。私にだって私の世界があってそこで闘っているのだ。ワンランク上のおばさんにどうしてもなりたい。私はほかのものは全部満ち足りている──よく言うことをきく夫、一戸建ての持ち家、おとなしい息子、引っ込み思案なしゅうとめ。全部そろっているのに、お前が結婚したくないと言うだけで私は同窓会に行けない」。おばさんにもプライドというのがあるわけです。
結婚したらもうこれで何も言われないかと思うと、まだデザートが出てこないという不満があるんです。お母さん、もう食べ終わって帰ったかなと思うと、デザートが出てくるまで帰らない。「早く子供を産みなさい。子供を産んどかないと、お前の老後が心配で、死んでも死にきれない」とかいうふうに言う。そう言われてしぶしぶ子供を産むと女の子だった。また産むと女の子だった。「お前が男の子を産むまでは私は死ねない」とか、「男の子が生まれたら百万円あげるとうちのお父さんも言ってるからちゃんと産みなさい」とか、そういうケースが地方都市ではいっぱいあります。
お母さんが男の子にこだわるのは、お母さん自身が男の子を産んだ時にまわりから受けた評価が忘れられないからです。女の子を産んだときに受けた風圧が忘れられないからです。お母さんが娘に対してもつ恨み──つまり、女の子を産んだときの、「お前が何かを付け忘れてきたために私はこの家の中でつらい立場にいるじゃないか。どうしてお前は付け忘れてきたんだ」という恨みは日本では必ずあると思います。男の子が生まれると、お前のおかげで・・・・・・というふうには思わないで、私が付けてやったんだみたいに思う。これで誰も文句は言えまい、というのがあるわけです。
最近、都市部では娘に女の子が生まれると「よかった、よかった」という母親が多くなってきましたが、これは「これでお前の老後も安泰だね。やっぱり、実の娘が一番頼りになるもの」と言ってるんです。裏を返せば、自分の老後の世話を暗黙のうちに約束させているようなものです。
女の子の結婚への動機の裏に、母の人生すごろくがべたっとくっついている。だから、女の子がさいころを転がして三つ進むと母も三つ進む、女の子が一回休むと母も一回休む。こういう二人三脚をしているところがあります。日本にはほかの国とは比べものにならないぐらいの母娘癒着があるといわれています。日本の母は多かれ少なかれ美空ひばりの母親なんです。
(pp.178-181)
母-娘間で繰り返されていく「女の人生すごろく」。
娘を監視してないで、もっと楽に生きるお母さんたちが増えてくれば、おばあさんになっても愚痴を言わなくなると思うんですが、この社会は娘一人ひとりに、母親という世間の監視人をつけてある。マン・ツー・マンで。母親の監視が不十分だと、お前は世間からのまわし者なのにちゃんと責任を果たしてないじゃないかといって、おっちゃんという第二のエージェントが、おばちゃんに圧力をかけるんです。そのおっちゃんも、もう一つ上のおっちゃんにそれらしい別のことを何か言われている。そういう連鎖になっているわけです。エコロジーみたいに。だから娘はプランクトンみたいなものですね。プランクトンがイワシに食べられて、イワシがマグロに食べられて、マグロが人間に食べられてる。ずっと女の子は海面に漂うプランクトンですよ。プランクトンがすごろくの海を漂って、「あがり」になるとイワシになるというそういうコワーイ話だったんですよ、これは。
シンデレラが結婚して、意地悪な継母になったように、白雪姫が結婚して、鏡の前で一日過ごす母親になったように、女の子は短大生からOLになって、結婚して母親になって女の子を産み、その子が短大生になってOLになり、そして女の人生すごろくはまわり続けるのです。
(pp.227-228)
随所にエッジの効いた分析があり、現在でもなおじゅうぶん読みごたえのある内容だ。
目次
春の目覚め篇
思春期の本質はごまかされている
おしつけられるイメージ
少女は否応なく挫折する
おつきあい篇
いまどき女子大生恋愛事情
恋愛は抑圧からの逃避である
あがりの決まったすごろく
OL篇
女子大生就職事情
就職してはみたものの
結婚へのドライブ
結婚篇
母親という強制装置
恋愛か結婚か
結婚と女のマゾヒズム