好井裕明,2022,「感動ポルノ」と向き合う──障害者像にひそむ差別と排除,岩波書店.(10.2.24)
健気に頑張る、あるいは尊敬すべき障害者―メディアや映像作品でおなじみのイメージは、健常者の感動の道具として消費するだけの「感動ポルノ」なのではないか?近年のそんな批判に対し、名作とされる映画からドキュメンタリー、パラ五輪まで個々の表現に目を向け、問題だとただ断じて終わらせるのでなくその背景を丁寧に読み解いていく。これまでの「あたりまえ」にひそむ差別と排除の意識をあぶりだす、やさしい障害者表象入門。
本書で言う「感動ポルノ」とは、純粋無垢な障がい者が、さまざまな困難を克服して懸命に奮闘する姿を、見る者を「感動させよう」という意図で描き出す、定型的な表象のことである。
「感動ポルノ」は、障害を無効化し、無意味化する。また、障害を個人化する。さらに、「障害者を過剰に評価し遠ざけ、結果として距離をとろうとする」。(p.33)
頑張る美しい障害者の姿に感動を覚えることも確かですが、感動を覚え、感動に酔いしれる瞬間、私たちは何を見過ごし、見落としているのでしょうか。いわばこうした安易で安直な感動が、実際に自分たちと同じように生きることができるはずの障害者をいかに生きづらくさせ、彼らに微細かつ執拗な権力を日常的に行使してしまっているのかを考え直す必要があるのです。
(p.44)
パラスポーツには、それ独自のおもしろさがある。
それは、「障がいを克服してより速くより強く」というように、健常者という準拠枠に障がい者を押し込めることとは異なる。
東京パラリンピックの競技を見ていて、私が改めて感動したことがあります。それはパラアスリートが他者と協働する姿です。視覚障害者のトラック競技が象徴的です。100メートルにせよ400メートルにせよパラアスリートと伴走者の身体や呼吸が見事に連動するとき、その成果が確実に現れるのです。視覚障害者の走り幅跳びではパラアスリートが助走する際、あとどれくらいで踏切板かを傍らにいる人が的確に声で知らせていたのです。私は伴走者や助走や踏切りのタイミングを的確に伝える人の役割が大変面白いと感じました。
パラアスリートと伴走者がテザー(伴走ロープ)で互いに繋がり、まさに一心同体と言わんばかりに歩幅や歩数が完全にシンクロし全力疾走する姿は、健常者スポーツにはまず見られない光景でしょう。それは個人的な能力主義的見方を軽やかに超え、新たな価値にもとづいた見方や新たな感動を私たちに与えます。パラアスリートが伴走者とともに競技を実践するという、まさに他者との協働は、パラスポーツの醍醐味であり、心から感動する大きなきっかけではないでしょうか。
(p.53)
おざなりの鋳型に障がい者も含めた他者を括り入れて自己満足することと、それにともなう微細な権力の行使の害悪。
このことに自覚的であるところから、他者と多様性への理解ははじまる。
「感動ポルノ」に象徴されるような障害者表象はまず何が問題なのでしょうか。すでにお話ししてきていますが、今一度確認しておきます。
それは、支配的文化に安住して生きている非障害者である私たちが、感動したいがために障害者の生のある部分だけを切り取り、過剰に意味づけ、それを享受するだけでなく、私たちに感動を与えてくれる生き方こそが障害者にとっても意味ある姿だという価値観を、障害ある当事者に押しつけることになるから問題なのです。こうした価値観の押しつけは、それを心地よしと考えない障害者にとって執拗な権力行使であり、結果として彼らを排除し差別する営みとなるのです。だからこそ「感動ポルノ」は批判すべきであり、解体し、障害者を「もう一人の他者」「もう一人の人間」として描く新たな表象を創造すべきなのです。
(p.73)
差別をただ糾弾するのではなく、我等の内なる差別意識に深くメスを入れようとする好井さんのスタンスには共感する。
他者と多様性への理解を深めるには、格好の一冊だ。
目次
1 「感動ポルノ」から考える
2 障害者はどのように描かれてきたか
3 感動することで落ちてしまう穴とは?
4 パラスポーツの「パラ」が持つ意味を考える
5 これからの障害者表象とは―「感動ポルノ」を超えていくために
6 「差別を考える文化」の創造へ
付録 「感動ポルノ」を考える映画リスト