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本書は、言語には、能動態と受動態しかないと思い込んでいたわたしたちの常識を粉砕してくれた好著である。
本書の影響は大きく、中動態のアイディアを生かした研究書が続々と出版されている。
中動態は、能動態と受動態が行為の帰責を明確にする文体であるのと対照的だ。
これは憶測でしかないが、中動態は、超越的な存在に対する人間の無力さの認識を根底においた文体であり、それが抑圧され消え去ったからこそ、自然を支配する権限をもち、自発的意志により有責の主体として行為する人間像(のフィクション)が生まれたのであろう。
本書でとりあげられている、「非自発的な同意」は、わたしたちの日常生活においてごくありふれたものであるし、「(異論はあるが)それもまたいたし方なかろう」と受け流していることは数多い。そうしたことがらに、いちいち反発していてはわたしたちの生活は破綻してしまう。
その場における空気に流されて、いきおいでそうせざるをえなかった、こうした弁明は、しばしば主語が省略されるか、意図的に省かれて、行為の帰責があやふやにされる日本の文化に親和的なものである。つまり、わたしたちは、中動態の世界のあいまいさに親和的な文化のなかに生きていると言えるのかもしれない。
行為の帰責が明確にされないことは、悪いことばかりとはいえない。暴力、虐待、搾取といったことは許されるものではなく、その責は厳しく問われなければならないが、加害者の責を問うだけでなく、なぜそういうことが生成したのかを問う視点をもち、加害者が更生し生きなおすことを赦すことができるのも、中動態的思考の可能性であるように思うのだ。
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