鈴木涼美,2017,愛と子宮に花束を──夜のネオエサンの母娘論,幻冬舎.(6.6.24)
鈴木さんは、高校時代、キモいオヤジにパンツを売り、慶応大学在籍時、キャバ嬢をしながら遊びほうけ、単体女優としてアダルトビデオに出演する。
両親ともに大学の教員。
家庭環境がすさんでいたわけではない。
むしろ、鈴木さんは、経済資本にも、文化資本にもとても恵まれていた。
それでも充たされなかったなにか、不自由であったなにか。
理解があるとか思われちゃ困る。
なーんて思ってるのは別に私だけじゃなくて、それなりに良識ある両親の下に生まれて好き勝手生きてると結構そう思う場面ってあって、ご理解のあるご両親で羨ましいなんて言われて、暗にひどい両親の不幸話に比べて屈折がないなんて思われるのは甚だ心外。不幸でないがゆえの不自由、愛されることの気持ちの悪さだってそれなりにいろいろある。
(p.209)
英国児童文学の研究者で女子大の教員であったお母さん、この人の語録がスゴい。
お母さんの潔癖さが如実に表れている以下の発言。
「つまり、オンナを何でおとしたいか、でもいいけど。オカネで愛人を囲うことに虚しさを感じない男は、オカネでえばるのが気持ちいいっていうことで、その根性が嫌なの。それだったらまだ、自分の魅力で一切のオカネをかけずに若い子を捕まえること自体をえばりたいって男のほうが勇敢だわ」
(p.29)
お母さんが涼美さんに放つ言葉には容赦がない。
「もう少し元気になったらね、私、命が尽きるまでに、児童文学者で、女子大で保育士や幼稚園教諭を目指す娘たちに、絵本の素晴らしさを教えている立場でありながら、娘をよりによってAV嬢に育て上げてしまった、その責任について書いておかなきゃいけないと思ってるの」
(p.166)
しかも、その言葉には、反論を封じる強烈な説得力がある。
「私が肯定はせずとも不問に付す、という態度をとってたのって、あなたにとってネオン街の悪夢みたいなものが筆力を確かにする過去の経験としてしまってあるんじゃないか、と思ってたからで、今もそこに囚われてるなら、また感じ方が変わるな。一度そういった間違いを犯したおかげでその不毛さに気づいて、日常の退屈さと向き合う決心をしたなら、私はあなたの過去をわざわざ引っ張りだして憎もうとは思わない。でもいまだに高い塔の上で、ほら私こんな危険なことも楽しんでできるの、見て見てってやってるようなら、強い危なさを感じる」
(p.168)
違法薬物は売り払ったら手元に残らないが、オンナを売っても自らの心身はそのまま残ったままだ。
思わずうーんと唸ってしまうこの発想の凄さよ。
「前にあなたが詐欺やテロリストで世間からバッシングされても、私はあなたの娘としての素晴らしさをもって心の中で信じて守ってあげられるかもしれないけど、AV女優になったら守るすべを失った、って話したじゃない?ヤクの売人でも豊田商事みたいな悪徳商法でも、売りはらった後はお金しか手元に残らないから、償い続けたらいつかその過去を払拭するっていうの?そういうことができるかもしれないけど、身体やオンナを売るっていうことはさ、お金はもらうけど、それで何かを売り渡してはいるけど、それでも身体もオンナも売る前と変わらずあなたの手元に残るからね、だから一生消えないと思うのよ」
(pp.204-205)
そして、呪詛のように紡がれる、病に倒れて亡くなる前のわが娘への恨み節。
母は限られた時間を意識してか、それまでよりも直接的な表現でほかにもいくつかのことを話した。「あなたのことが許せないのは、あなたが私が愛して愛して愛してやまない娘の身体や心を傷つけることを平気でするから。どうしてあなたは私の娘をいじめるの?」と言った。「あなたは私の娘の幸福への無限の可能性をすごく狭めてしまったの」とも。
(p.206)
涼美さんは、「パーフェクトなオンナ」である母に、正攻法では太刀打ちできずに、自分のオンナを売ることで、お母さんの顔に泥を塗りたかったのかもしれない。
なんとも形容しがたい強烈な個性をもった母と娘の、唯一無二の物語だ。
エッジが立ってて、キュートで、エッチで、切ないエッセイ26編。
目次
1 母と私
失楽園にかかったマディソン郡の橋に
指先から媚薬
私の私の彼は、飲食業~♪ ほか
2 母たちと娘たち
わりと残酷な血縁の正月
おふくろさんよ、テキーラ飲もう
涙こらえて編んでるうちが華 ほか
3 母と私、ふたたび
こわいこわいおばけのいる病室
大学芋ラプソディ
履かぬは恥だが役に立つ ほか