上野千鶴子・メディアの中の性差別を考える会編著,1996,きっと変えられる性差別語──私たちのガイドライン,三省堂.(8.17.24)
新聞用語のどこがひっかかるか。こうだったらいいな、女たちからの対案集。アメリカの性差別語ガイドライン運動も紹介。
本書は、「1996年におけるメディアの現在を記録する第一級の史料」(上野、p.221)であるが、この時代、いかにも「昭和」っぽい家父長制とセクシズムが言語表現にモロ現れており、隔世の感がある。
言葉は状況を定義する力の源泉である。
言葉は、特定の価値規範を強制し、強化する。
したがって、差別や抑圧をなくしていくためには、それらに加担する言葉を使わないようにしなければならない。
もちろん、過剰なポリコレ(Political Correctness)の機械的な適用は、かえって、差別や抑圧を温存することにつながりかねない。
言葉を変えたからといって、問題が解消するわけではない。
日本サッカー協会は、いまだに、サッカー女子日本代表を「なでしこJAPAN」と呼び続けている。
そんな「オッサン語」が女子サッカーの魅力を減じていることに気付かないのだろうか?
伊達の記事に限らず、女性のスポーツ選手の場合、必ずどこかに、こんなに「女らしい一面がある、こんなにこまやかな一面がある」など、記事に無理やりに入れこんでいるのは、男性のスポーツ選手の記事と比較して非常に目につく点である。従来の「女らしさ」を打ち破ったヒロインたちに「やまとなでしこ」のようなステレオタイプを押しつけるのはもう願い下げにしたい。
(p.125)
本文中、近いうちに夫婦別姓が実現することを確実視するかのような表現、それが散見されるが、この30年近くのあいだ、日本社会の時計のみが止まっていたのではないか、そんな思いがする。
目次
1章 こんな風に呼ばれたくない―女の呼称と名称
2章 こんな言葉は願い下げ―おしつけられたイメージ
3章 決まり文句に見る女性像
4章 男の偏見まる出しの視点
5章 男が特別扱いされる時
6章 言語変革と社会変革―アメリカの場合
7章 アメリカの非差別言語運動と日本の差別語問題