森岡正博,2005,感じない男,筑摩書房.(3.11.24)
(著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を引用していますが、これを読んだ方が、それをとおして、この本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。)
『実存的貧困とはなにか』にはじまる、エロスとケア、実存についての探求は、まだまだ、続く。
最近では、性虐待、レイプ等のトラウマをかかえる「愛着弱者」の女が、「パパ活」等の自傷的性愛経験を繰り返してしまう問題についても、少し考えてきた。
次なる参考文献は、本書、一種の、男性学、男性当事者研究本である。
半分くらい読み進めるうちは、不快感でいっぱいであった。
ところが、吐き気をこらえながら、その先を読み進めるにつれ、森岡の意図がだんだん理解でき、共鳴できる部分も出てくるようになった。
森岡が、ほんとうに言いたいことを確実に伝えるために、前半部分で、あえて偽悪的な内容にしたのであれば、脱帽するほかない。
スキャンと文字起こしの効率も上がってきた。
早速、内容をみていこう。
九〇年代初頭に大流行したボディコンミニスカもまた、私の欲情装置(エッチな気分になる仕組み)を刺激する衣服である。たしかに趣味はよくないから恥ずかしいのであるが、事実だから仕方がない。ボディコンミニスカの味わいどころは、女性が歩いたり座ったりするたびに、ミニスカの裾が上がってくるところにある。伸縮性に富む素材でできているから、そういうことになる。ミニスカの極限の姿がここにある。すなわち、女がいくら両手でミニスカの裾を引っ張って押し下げたとしても、その意志に反して、ミニスカの裾はひとりでに上がってきてしまうのである。見えないように裾を下げようとするにもかかわらず、自然に上がってきてスカートの中身が見えそうになる。そのような状況へと、私の目が思わず吸い込まれるとき、私の心の中にミニスカへの欲情が出現(pp.17-18.)
気持ち悪いなあ。笑
もうひとつ言えるのは、パンツが見えそうだけれども見えないという状況が、われわれに宗教的な感情を呼び起こすということだ。なぜなら、ちらちらと見えるのだが、けっして手が届かない崇高なものの中に、人々は伝統的に「神」の姿を感じ取ってきたからである。ミニスカの中のパンツが、聖なる色である「白」で覆われていなければならない理由はここにある。白い布で覆われたものが、ミニスカの生地の端から見えたり見えなかったりするという光景は、なんとも言えず宗教的な雰囲気にあふれているのである。
男がミニスカに惹かれるのは、ミニスカの中に、パンツの形を取ったなにかすごいもの、この世を絶したようなものがちらちらと見えるような気がするからである。そのとき、ミニスカをはいている生身の女、すなわち意志も感情も持った生身の女は、男にとって邪魔者でしかない。ミニスカを凝視する男の視線が女にとって不快なのは、女がミニスカの娼婦として見られているからではなく、ミニスカさえあれば生身の女はいらないという排除の視線が、女に突き刺さってくるからであろう。
(p.23.)
は?
パンツが見えるか見えないかという状況が、崇高な宗教的感情を呼び起こすだと?
あー、あー、聞こえなーい。笑
「ミニスカさえあれば生身の女はいらないという排除の視線が、女に突き刺さってくる」
うわ、出た、だめ男の傲慢なオレ様勘違い優越意識。
無理
森岡さん、女の自己陶酔好きを舐めてるな。
それから、異性と同じくらい、同性の視線を意識してることも、わかんねーんだろうなー。
私は、ほかならぬ「男の不感症」が、その原因のひとつなのではないかと考えている。なぜかと言えば、射精のたびに、「感じない男」は自分が不感症であることを思い知らされるわけなのだが、それに引き替え女のほうを見てみると、どうして女だけがあんなに気持ちよくなれるのだ、という疑問がふつふつと湧いてくるのである。男はセックスのたびに小便のような快感しか得ていないのに、どうして女にだけ、あれほど豊かな快感が許されているのだ、という怒りがこみあげてくるのだ。「感じる女」というものが許せなくなるのである。
このようにして、「感じない男」たちは、心の底で、女を憎みはじめる。「女性憎悪」の感情が生まれるのである。「女性憎悪」については、乳児期に母親に支配されたことへのうらみや、社会的に成功した女へのうらみなど、様々な原因がこれまで推測されてきたが、私はその原因のひとつとして「男の不感症」を付け加えたいのである。
「女性憎悪」にかられた男たちは、なんとかして「感じる女」に復讐してやりたいと思うようになる。彼らがポルノを見る理由のひとつもここにある。いやがる女を思い通りに支配し、女の快感を自由にコントロールするような内容のポルノを見ることによって、あかも自分が女よりも優位に立ったかのような錯覚を楽しむことができるのである。男がを支配したがるのは、「感じる女」への復讐なのだ。
これと同じような心の動きは、レイプ犯にも見られる。レイプ(強姦)とは、女性への暴力が性的な形をとったものである。女に復讐するためにレイプする場合があると言われているが、私はその動機のひとつとして、「感じる女」に復讐したいという気持ちがあると考えている。そしてその復讐は、感じる器官である女性器に向けられる。
(pp.52-53.)
なんか勘違いしているとしか思えないが、でも、性暴力加害者の男の心理を、けっこう、言い当ててはいるわな。
それは、認める。
これは一種の自傷行為である。「感じる女をもっと見たい。それを見ることによって、感じない私をもっと痛めつけたい」というわけである。ポルノを見ることによって、「感じる女」の姿を脳裏に焼き付け、女のように感じることのできない自分が「敗北者」であることを自分に突きつけ、自分をどこまでもいじめ抜いて、自傷していくのである。
心に深い傷があるときに、そこを自傷していくのは、なんとも言えない強烈な快感になることがある。夫からの暴力をやむを得ず受け入れた女性が、このような自虐的な気持ちになっていくことが報告されているが、ダメな自分を憐れむことのとろけるような快感というのも、たしかに存在するのである。リストカット(手首を浅く切ること)を繰り返している女性は、自分の手首を切るときに、癒しの感覚をおぼえることがあるという。自傷や自虐の快感をいちど知ってしまうと、そこから抜け出すのは、すごくむずかしい。
(p.57-58.)
男を「感じない」と決めつけるのは、たんに性愛の体験質が低いからじゃないかな。
でも、後半部分は、鋭いな。
これが、二村ヒトシの言う、「こころの穴」かな。
実存的貧困の当事者である女の自傷行為も、これで、納得だな。
では、制服に清涼感とゾクゾク感を感じたとき、私の中にはどのような性的衝動が沸き起こっているのだろうか。それは、少女の制服に精液をかけたくなる衝動ではないか、というのが私の仮説である。制服に精液をかけて、精液が生地に染み込んでいくのを見ていたいという衝動が、私の中にあるのではないか。制服を着ている少女の肌に精液をかけたいのではない。そうではなくて、少女が着ている制服の生地に精液をかけたいのである。もっと正確に言えば、制服そのものに精液をかけたいのではない。そうではなくて、「少女が制服を着ている」という状況そのものに向かって、精液をかけたいのである。その結果として、精液は、制服へと着地するのが望ましい。少女の肌へは届かない、というこの未達成感が大事なのである(デュシャンの作品『大ガラス」における「独身者」とは、この身体感覚をアートにまで高めたものであろう)。
(pp.68-69.)
おまわりさーん、こいつ、捕まえてくださーい!
「学校」を愛するのだが、「学校」と性的に交わることはできないから、そのかわりに、「学校」の代理物としての制服少女と性的に交わろうとする。彼らにとって、制服少女を犯すことは、同時に、彼らの愛する「学校」に向かって射精することであり、制服少女を介して「学校」と性的に交わることなのである。買春事件を起こした教師たちは、学校では指導熱心な教師だったと報道されることも多い。いささか強引な仮説かもしれないけれども、教師による女子生徒の買春事件の多さは、以上のように解釈しないかぎり、とうてい理解できないように私には思える。教師にはロリコンが多いという説だけでは、説明が付かない。
(p.79.)
は?
ピックル一気飲み、びっくりぽんの腸捻転。
どういう解釈だよ?笑
教師も含めて、未成年者の女を性搾取、買春するバカ、ゴミ男がいるのが、問題なんだろうがい。
制服少女の清涼感とゾクゾク感の秘密も、いまや明らかになる。すなわち、制服少女を見たときに、私が抱いてしまうところの、「ああ、私はこの少女を洗脳してもいいのだ。この少女の脳の中身を書き換え、私のことを本気で好きになるようにマインド・コントロールし、メイドのように従わせることが許されているのだ。そういう危ないことをしても、誰からも非難されないし、この少女本人がそれを望んでいるのだ」という自分勝手な妄想こそが、制服少女の清涼感とゾクゾク感の秘密だったのである。それが清涼感であるのは、私が彼女を洗脳前の「真っ白」な状態として認識するからである。それがゾクゾク感であるのは、彼女の脳すなわち人格を書き換える背徳感(いけないことをしているという感じ)が、私の中にわきあがってくるからである。
(pp.85-86.)
ああ、子どもをグルーミングして性搾取、性虐待する男の心理は、たしかにそのとおりだろうよ。
しかしなあ、小中高生の女の子に欲情するなんざ、情けないと思わないのか?
精神的にも成熟した「大人の女」とつきあったが、いいに決まってんじゃん。
対等な立場にあるもの同士の、スリリングなコミュニケーションの享楽も知らないのか?
こちとら、大学生のときから、しょんべんくさいアイドルやら、女子高生やら、一ミリも関心なかったぜ。
ところで、さきほど、少女を洗脳するというイメージに向けて射精をしたい、という話をした。しかし、なぜイメージを味わうだけでは満足できないのか、なぜわざわざ射精にまで進む必要があるのかについては、説明しなかった。だが、「洗脳」の意味を、「少女の体の中への乗り移り」として理解することによって、それに答えを与えることができる。生身の少女であれ、写真の少女であれ、私が目の前の少女の中に乗り移るためには、私をその少女の中へと運んでゆく媒体(乗り物)が必要となる。こちら側から、あちら側に向けて架けられた一本の橋、その橋こそが、ペニスから放出された一筋の精液なのである。ちょうど蜘蛛が、木から木へと渡された一本の糸を伝って進むように、制服少女へと放出された一筋の精液の架け橋を伝って、私は少女の中へと入り込み、その少女の体を内側から生きようとするのだ。制服フェチは、射精によって締めくくられなくてはならないのである。
(pp89-90.)
うわー、森岡の妄想が炸裂、止まらない。
ヤンベえ。
ロリコン男の欲望の中心は、初潮が起こり、第2次性徴が進行し始める11~12歳の女の子であるという。
私は、目の前の少女に、何を見ているのか。
その答えはすでに明白だ。私は、目の前の少女の体に、ほかならぬ自分自身の姿を見ているのだ。もし、なにかの手違いで、思春期の分岐点を向こう側に曲がっていたならば、かわいい少女になっていたはずの「もうひとりの私」の姿を、目の前の少女の体に見ているのである。
とするならば、目の前の少女に子どもを産ませたいという欲望とは、少女の姿をした「もうひとりの私」に、この私の子どもを産ませたいという欲望であることになる。私の精子と、もうひとりの私の卵子が結合することによって生まれる子ども。それはまさに、生まれ変わった私自身にほかならない。私以外の誰をも介入させずに産み落とされる、私自身。
これこそ、私が、少女と性交したい、少女に射精したいと思ったときに、その意識の深層ではたらいていたドラマなのである。そしてその性交は、女の子が思春期の分岐点をあちら側にカーブした、まさにそのときを狙って行なわれなければならない。なぜなら、その分岐の瞬間こそ、この私が「男の体」という間違った方向へと舵を切ってしまった決定的な瞬間なのであり、その分岐をこのような形でやり直すことによってしか、私は自己肯定のきっかけをつかめないからである。
すなわち、私の心の中にあったのは、少女の姿をした「もうひとりの私」と性交することによって、私自身をもう一度、誰の手も介さずに産みなおしたいという欲望だったのである。
(pp.138-139.)
そして、少女と性交した男は、はじめて、母親からの自立が果たされるのだ、という。
かつての私のようなタイプのロリコンの男が最終的にめざしているのは、大人の女になる瞬間を迎えたかわいい少女の体の中へと乗り移り、その少女の体を内側から生き、その少女の体を内側から心ゆくまで味わい、その体に様々な服を着せて人々と交わり、人々から優しく大切に扱われ、自分で自分の体を真に愛することだ。そして少女の体の内側から、少女の子宮へと射精し、妊娠して自分自身を出産することだ。それによって私は、母親の影響圏から最終的に離脱することができる。私は自分自身から産み出された存在となり、もはや誰にも隷属することなく、ここに完全な自由を手に入れる。少女の体という肉体上の理想を獲得し、自分の体を自己肯定し、精神上の自立という内面の自由をも獲得する。かくして世界は私を祝福し、私も自分自身を祝福し、世界は充足した私自身によってどこまでも満たされていくことになるだろう。
しかしながら、このような観念のドラマにすがることで、自己肯定が達成されるほど、人生は甘くない。ロリコンがもたらすのは、まわりくどい自己肯定のドラマを、何度も繰り返して再現するエンドレステープのような自閉世界である。孕ませるのも私、孕むのも私、産み落とされるのも私。自分勝手で、出口のない、超自己言及の迷宮。生身の少女は、トリガーや義体として利用されるだけであり、不要になれば捨てられる。あるいはいたずらをされ、虐待され、商品化され、大きなトラウマを負わされる。それが、ロリコンの帰結なのである。そこには実のところ、何の脱出口も開いていないのである。
(pp.141-142.)
多分に妄想が入ってるのが気になるが、たしかに、子どもを性虐待する卑劣漢の心理の一端を捉えてはいるのだろうよ。
ロリコン男が、母親から心理的に自立するために、こどもを性虐待するとは、ずいぶん大胆な仮説だな。
真偽のほどは、知らんけど。
このようなセクシュアリティは、女との関係に深い影を落とすことになる。まず、快感の面で女に勝てないことは分かっているから、女の快感を支配したり、コントロールすることによって、女よりも優位に立とうとする。女の快感を支配するときの優越感でもって、自分の不感症を帳消しにしようとするのである。そしてそれは不思議なことに、一種の癒しの感覚として体験されるのである。だが、もし支配に失敗したときには、一転して、感じる女に復讐し、罰しようと思いはじめる。レイプしてやりたいという衝動が出てくるのは、このときである。さらに、自分の汚い体、感じない体を抜け出したいという思いが強くなれば、制服フェチやロリコンの気持ちが出現する。これについては、以前の章でくわしく述べたとおりである。
その結果として、自分勝手なイメージや、自分だけの都合を女に押しつけることによって、女を自分勝手に呑み込んでいこうとする男ができあがるのである。その男の内面は不安と自己否定に満ちているにもかかわらず、表面だけ見れば自信にあふれていたり、女性に共感的であったり、僕も傷ついているというような顔をしていたりする。そして何かあったときには、女と正面から向き合おうとせず、一方的に、その女を切り捨てようとするのである。そのような男は、自分がこだわっている架空の女のイメージのほうが、生身の女よりも大事だったりする。架空のイメージは、独自の意思も感情も持たないので、扱いが楽なのだ。
では、「感じない男」のどこが問題なのだろうか。まずは、少しでも暴走すれば、レイプや、少女への性犯罪をおかす危険性がある。この点は深く認識しておかなければならない。次に、自分自身を肯定できず、自分の人生を愛せないままに、生を過ごしていくことになるという問題がある。そういうことは、ふだんあまり考えないようにしていると思うが、きっといつかそのツケが回ってくることだろう。第三に、付き合っている女とのあいだに、ねじれた男女関係を作り上げてしまう危険性がある。互いに、相手との関係を心底しんどいなあと思いながらも、ずるずると続けていくことになったりする。
(pp.159-160.)
これも、性暴力加害さえ引き起こす、「男であることの病理」を、言い当ててるのだろうよ。
森岡は、男の身体の汚さを強く意識している。
男の身体が汚いのは、「体毛が密集し、肌の色は悪く、骨がごつごつしており、筋肉がうっとうしいこの体。精液によって汚れてしまうペニスと周辺の毛。」(p.145.)ゆえ、である。
もう一度確認すると、夢精のときの精液の汚さが、「私の体は汚い」という意識を作り出し、射精のあとの暗く空虚な感じが、「私は不感症である」という意識を作り出した。その二つのせいで、私は自分を肯定できなくなったのである。
(p.150.)
なんか、自分の身体について、自意識過剰なんじゃね?
まあ、たしかに、綺麗じゃないかもしれんが。笑
「不感症」なのは、おまえの性愛経験が貧しいだけ。
勝手に決めつけんな。
汚くて女のように感じないから自己肯定感をもてないなんて、どういう精神構造をしてんだよw
そのためには、自分は好きな女とどのような関係を持ちたかったのかを、もういちど思い出してみることが、きっかけになるかもしれない。「不感症なのだけれども、やさしくなりたい」という道を探してみるのも、ひとつの男の生き方ではないだろうか。やさしさへと開かれていく「不感症」ならば、むしろそれを喜んで迎え入れてもいいのではないか。性のハートナーがいないときには、マスターベーションした直後に、人々に対するやさしい気持ちを自分の心の中に満たしてみるといいかもしれない。鍵になるのは、不感症であるからこそ発揮できる「やさしさ」である。「敗北感」と「自己否定」と「復讐」に向かいがちな不感症の体験を、生命あるもの、傷つきやすいものに対する「やさしさ」へと振り向けていくことは可能であると、私は確信する。不感症をやさしさの源泉とすること、ここに「感じない男」からの脱出口が開いている。
(pp.167-168.)
これには賛成、だな。
こういう本は、女性にも読んでほしいな。
性虐待、性暴力、性による精神の支配につながる、男の病んだ心理が読めるようになるからさ。
森岡さんは、本書で開陳したような話は、大学での講義では、一切、しないそうだ。
当然だろ。
そんなことしたら、炎上必至。体調不良者、続出だろうよ。
しかし、こんな匿名ブログならまだしも、実名で、よくもこんなくそ恥ずかしい話を開陳できたな。
その思い切りの良さにも感心したよ。
一人でした後の、何とも言えないむなしさ。なのにまたしてしまうという、厄介さ。実は男は、根っこのところで「感じていない」のではないか。だからこそ制服少女を目にしてはゾクッとし、美少女写真集を見てはあらぬ妄想を膨らませてしまうのではないか。にもかかわらず、多くの男が自分の「不感症」に気づかずにいるのは、なぜか。この問いに答えるべく本書は、著者自らの体験を深く掘り下げながら、問題のありかを探っていく。禁断のテーマに真正面から挑み、「男の性」を根本から問い直す、衝撃のセクシュアリティ論。
目次
第1章 ミニスカートさえあれば生身の女はいらない!?
「男とはこういうもの」という言い方の嘘
ミニスカをめぐる男女のすれ違い ほか
第2章 「男の不感症」に目を背ける男たち
「男の不感症」とは何か
「溜まってくる」感覚を分析する ほか
第3章 私はなぜ制服に惹かれるのか
制服に惹かれる男たち、その「心の構造」
制服少女に「学校」を透かし見る ほか
第4章 ロリコン男の心理に分け入る
ロリコン大国ニッポンの深層
「少女」を巧みにパッケージする大人たち ほか
第5章 脱「感じない男」に向けて
「射精」体験と自己否定の感覚
私はいかにして「感じない男」になったか ほか