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ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと

アンジェラ・チェン(羽生有希訳),2023,ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと,左右社.(2.15.24)

 エースとは、アセクシャル、すなわち、どのような他者に対しても性的魅力(性的な惹かれ)を感じなかったり、性的行為への関心や欲求が小さいか、あるいは存在しなかったりする、そんな人々のことを指す。

 ACEは、トランプの切り札でもあり、(日本では)「エースを狙え」、そのエースでもある。
 つまり、エースの人々が、自己を卑下することなく、むしろ、自らの属性を誇りにすること、そんな意図がある言葉なのであろう。

 「n個のジェンダー×セクシュアリティ」という言葉が示すとおり、人間の性は、ダイバーシティ、多様性に満ちている。

 それは、エースにしても、同じことであり、エースには、リビドー(性の欲動)がまったくなく、性的行為を忌み嫌う人もいれば、「フェチ系」のBDSMを楽しむ人、女性であれば、同性に恋して、抱擁と愛撫に充足する人もいる。

 わたしたちは、ラベル、ないし、カテゴリー名で、人の多様性を否定する愚を避けなければいけないし、そのことは、エースについても当てはまる。

 そして、また、人間の全体性においては、セクシュアリティという変数に、国籍、人種、ジェンダー指向性、障がいの有無といった変数が加わる。
 例えば、米国の、アジア人の、ジェンダー・ノンコンフォーミング(規範的性別役割概念を拒否すること)の、トランス女性の、脳性麻痺者のエース、といったように。
 だれ一人として任意のカテゴリーには完全に収まりきれない、ダイーバーシティとグラデーションのどこかで、わたしたちは、生きている。

 グレーのA(エース)、という属性の人もいる。
 そのなかには、デミセクシャル、すなわち、互いのこころにダイブして、感情が溶け合う、そんな(たぶん)ロマンティックな、極めてインテンシティ、強度の高い経験をしたあとで、はじめて、性的行為を望む人々もいる。
 さて、この人々と、感情が溶け合ったあとで──だけど、その強度がごく低いものでしかないとして──キスしたい、抱き合いたい、愛撫したい/されたい、粘膜の摩擦の果てに射精したい/されたい、イキたい、と望む、ヘテロセク、バニラ(バニラアイスのようにプレーンな性的指向)、アローセクシャル(エースではない、つまり他者に性的に惹かれる性的指向)の人々とを、区別することは、難しい。

 いや、そもそも、デミセクシャルとか、バニラとかいうラベルは、目の前にいる特定の他者を理解するための、たんなる記号でしかないこと、そのことを、わたしたちは自戒すべきであろう。
 ヘテロ、バニラ、アローといえど、粘膜の摩擦を嫌う人もいれば、キスを嫌う人もいる。本書で、指摘されておるとおり、キスは、通文化的にいって、極めて倒錯的な、人によっては、気持ちの悪い行為なのであるし、ましてや、粘膜の摩擦と器械運動など、まっとうな感性と美意識をもっている人であれば、嫌悪されてもしかたがない、醜悪でみっともない行為でしかないのだ。

 嘘だと思うのであれば、ポルノサイトで、無修正の交尾動画を、見まくることをお勧めしたい、、、ところだが、メンヘル上、望ましくないので、やはり、お勧めしない。

 あるいは、チェンが、本書で取り上げている「ネイキッドアトラクション」。

参加者が全裸になる英デート番組が米上陸で物議。これってアリ?ナシ?作り手の意図は…

候補者の体は、足元から頭に向かって少しずつ明かされ、各パーツごとに参加者が1人の候補者を除外していく。最後段階では参加者も全裸になり、最後に残った勝者と服を着た状態でデートをする。
(上記ウェブサイトより)

 外性器を露出した全裸の状態で、デートの相手を選ぶ。そして、その後に、着衣でデートする。

 通常とは逆の、このパターンが、着衣デートから全裸でのベッドインに至る、通常のアローでバニラの、恋愛と性愛のプロセス、その作為性、不自然性を暴露してはいないだろうか、、、

 人間の裸体は、実は、明るい部屋において至近距離で見ると、そう綺麗なものではない。

 現実は、恋愛、性愛を美しく描く映画の世界ではない。

 わたしたちが「みっともない人体」をもつ存在であること、このことはもっと自覚されて良い。

 だから、わたしたちは、通常、セックスする際、部屋を暗くする。

 とくに、男の裸体は、滑稽で、情けなく、およそ綺麗とは言えない。

 「ミロのヴィーナス」はたしかに美しいが、ミケランジェロの「ダビデ像」はどうか、、、明らかにイチモツが邪魔しており、、、美しいかどうかは微妙なところだろう。
 古代ギリシアの時代から、男性外性器がかなり控えめ、小さく扱われてきたことが、男性の身体の不格好さを表象してはいないだろうか、、、

 だから、よくわかるのだ、エースの人々の、セックスへの嫌悪が、、、

 繰り返すが、人間のセクシュアリティは、エースのスペクトラムも含め、インコメンシュラブル、共約不可能なダイバーシティに満ちあふれている。
 だれ一人として、任意のカテゴリーに、完全には、回収されえるものではない。
 性行為を好む人もいれば、好まない人もいる、そして、その人々は、セクシュアリティの多様なグラデーションのなかに、離散的に分布している。
 それは、とてもシンプルな事実なのである。

 チェンは、「レイプは悪いがセックスはよい」という言説を、真っ向から、手厳しく批判する。(pp.302-308.)

 この言説は、相手の欲望を拒否するのが忍びなくて、いやいや、セックスに応じ、苦痛をあじわっているこころ優しい人であるとか、エースである自分を肯定できずに、自傷的にセックスをしている人であるとかを、無視している、きわめてデリカシーに欠けた暴言でしかない。

 許しがたいのは、子どもの性教育にたずさわる者に、「セックスは、大切に思う人との愛を確認する行為であるからこそ、すばらしく、それが結婚であるとか、自分の家族をつくることであるとかにつながるからこそ、すばらしいのです」といった、クソなロマンティックラブイデオロギーの害悪を垂れ流す者がいることだ。

 この者には、エースの存在であるとか、セックスという行為自体に含まれる暴力性といった問題についての、自覚が欠落している。

 性教育に必要なのは、きわめてシンプルな、

性愛に関することで他人が嫌がることは絶対にしてはいけない、

ただ、それだけのことである。

 子ども、、、だけでなく、大人にも、理屈ではなく、まっとうな感情、そのインストールが必要だ。

 最後に、現状、あまりに貧困な、男の欲望を基準とする性愛文化の在り方について、言及する。

 なぜ、「男の欲望を基準とする性愛文化」が蔓延っているのか、、、

 答えは、簡単だ。

 一つは、本来、「不能の性」でしかない男を勃たせないことには、セックスが成立せず、人類が存続できないからである。

 もう一つは、それが、儲かるから、莫大な富を得られるからである。
 AV,性風俗、お水業界、、、だけでなく、美容、エステ、化粧品、ファッション、そして、広告、各種メディア等々、男の欲望目線で「自分磨き」(げろげろ)を促す産業、その市場規模はとてつもなく大きい。

 そして、いまだに、男は、「自分のペニスで女を征服する」という貧しい性幻想──キンゼイ報告以来、性科学の研究が進展し、女性の性感は陰核脚も含めたクリトリスに集中しているが判明しているけれども、そういうことさえ、知らないのだろうか。無知は、知ろうとしないのは、無礼だよ。──に取り縋っている。
 実は、たいした魅力をもってもいないのに、女性に、威張る男、説教する男、暴力をふるう男、そして、レイプする男は、みな、この手の、あまりに幼稚、自分本位、独善的な、そして、また、度しがたく卑劣な輩なのだ、と思う。

 AVのド貧しいセックスを鵜呑みにし、キス、愛撫、オーラル、粘膜の摩擦まで、女が歓んでいると勝手に信じ込み、射精して、女に背を向ける。実は、女性が苦痛に感じているということ、そのことに思い至ることのできる男は、いったい、どれくらい、いるのであろうか?

 チェンも少し触れているとおり、「脳でセックスする」女性は多い。

 それは、想像力の外延とともに果てしなく、とても豊穣な享楽の世界である。

 そして、男も、「脳でセックスする」こと、その享楽の圧倒的なインテンシティ、強度と、奥行きの深さを知るべきだし、その世界にダイブする男気(?)をもつべきだとも思う。

エロティシズムは「身体的、感情的、心的、もしくは知的であろうと、喜びを共有すること」。(オードリー・ロード、pp.382-383.)

 ほんとうに、そのとおりだと思うし、そのゆたかなエロティシズムを経験する機会が、エースも含めた、あらゆるセクシュアリティをもつ人々に、開かれていかなければいけない──もちろんそれを享受するかしないかについてはできる限りの自己決定が保障されたうえで──わたしは、そう思うのだ。

 訳者が、正しく薦めているとおり、本書と併せて『トランスジェンダー問題』も、是非、お読みいただきたい。


セックスって本当に必要?恋愛、障害、フェミニズム、男らしさ、アイデンティティ、人種―。「他者に性的に惹かれない」という視点から、私たちの常識を揺さぶる。著者の経験と広範なインタビューにもとづく唯一無二のルポエッセイ。

目次
1 自己
アセクシュアリティにたどり着いて
“否定を通して”説明する
強制的性愛と(男性の)アセクシュアル存在
2 変奏
お前を解放させてくれよ
ホワイトウォッシュされて
病めるときも健やかなるときも
3 他者
恋愛再考
十分もっともな理由
他者と遊ぶ、他者で遊ぶ ほか


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