信田さよ子,2021,家族と国家は共謀する──サバイバルからレジスタンスへ,KADOKAWA.(7.5.24)
家族と国家は、共に最大の政治集団である。DV、虐待、性犯罪。家族は以心伝心ではなく同床異夢の関係であり、暴力的な存在なのだ。イエは「国家のミニチュア」に陥りやすい。その中で、私たちは日々闘っているといえる。絶え間ない加害に被害者がとる愛想笑いも自虐も、実はサバイバルを超えたレジスタンスなのだ。加害者更生の最前線と、心に砦を築きなおす新概念を熟練のカウンセラーが伝える!
虐待、DV、性暴力等、家族を含むドメスティックな私生活領域で生起する問題を、マクロな社会変動の中に適切に位置づけて理解すること、これは、信田さんのカウンセリングを支える重要な方法論である。
ポストフォーディズムでは、即応性が高く、即興的判断ができ、状況や空気を読んで距離を自在につくることが求められる。これは、家族において母親が遂行してきた役割・態度そのものではないだろうか。家族関係をつなぎ留め、子どもの成長や教育の責任を一手に引き受け、近所の人間関係や学校の保護者会でも適応を図る。これらが図らずも彼女たちの人間関係のスキルを磨いた。
長年にわたって母との関係で苦しんできた娘・息子たちの話を聞いていると、母の支配はまさにポストフォーディズムの手本のようだ。
「いい?ママはね、あなたのためにやっているのよ。あなたの未来は無限なんだから、その能力を伸ばすために一生懸命協力しているの」
「今頃になってそんなことを言ったって、自分で選んだんじゃないの?あの塾がいいって言ったのは自分じゃないの?」
こんな言葉とともに、選択と自己責任というタームに帰着される出来事が、日々愛情という言葉にくるまれ、「あなたのために」と拘束を強める。まるで暖かい真綿で首を絞められるような、わけのわからない息苦しさは、「母が重い」という言葉でしか表現できない。
多くの企業や地方自治体の窓口対応は、ソフトな語り口によって選択可能性を提示し、それを選んだのはあなたであり責任はあなたにあります、という論理に貫かれている。家族における母親の支配・管理と、社会全体に瀰漫するソフトな自己責任追及の空気は似ていないだろうか。
母と娘の問題は、家族における女性だけに限定されるべきではない。むしろ、二〇世紀末から資本主義社会の多くが直面している社会の液状化とポストフォーディズムの問題が、母の支配に象徴されることで、女性というジェンダーの装いとともに表面化しつつあるということだろう。
(pp.12-13)
ポストフォーディズムとは、耐久消費財の飽和、消費者選好の多様化にともなう、画一規格品の大量生産から多品種少量生産──その集積は大量生産となるのだが──へ移行したその様式と雇用のあり方を指すものであり、「即応性が高く、即興的判断ができ、状況や空気を読んで距離を自在につくる」ことが求められるようになったのは、「サービス経済化」が進んだためである。
1970年代のオイルショック以降、高度経済成長期が終焉し、中、低成長経済へ移行するにともない、製造業、建設業主導の経済体制から金融、サービス産業主導のそれへ移行し、フォーディズムからポストフォーディズムへの転換が進行して、併せて、ネオリベラリズム、ネオコンサバティズムが台頭した。
雇用において、「コミュニケーション能力」が重視されるようになったのは、サービス経済化が進行したためであり、非正規労働者の増加等、雇用の流動化、不安定化が進行したのは、労働集約性の高いサービス経済において、企業収益を高めるための人件費の抑制が推進されていったからである。
ネオリベがそのトレンドを推進したことは言うまでもない。
「暖かい真綿で首を絞められるような」抑圧をしてきた母親と、毅然として決別すること。
男がミソジニーに陥らないためには、この作業が必要だ。
「父殺し」で家父長制を否定し、「母殺し」でマザコンを克服しない限り、「男という病」は治癒しない。
息子にとって、母を批判することは単なる個別の親子関係を超えて、男性である自分を問い直す意志的な行為であり、決して女嫌い(ミソジニー)につながるものではないことを強調したい。母への批判を否認し、安易な赦しの自己陶酔や乗り越えの錯覚こそがミソジニーを生むのだ。時として、それは手の込んだ女性への復讐や、成人女性への怖れにつながっていくだろう。上記三氏のように、苦しみながらも勇気をもって意識化し、言語化しなければならないと思う。
(p.38)
性虐待の多くが、家族も含めたドメスティックな私生活領域で起きることはよく知られるようになった。
性虐待が、被害者を、ときには生涯にわたって苦しめ続けることも。
先に挙げた二人以外にも、性虐待を想起する多くの女性たちに会い、実際に思い出す場面にも遭遇してきた。彼女たちは、その経験を完全に忘却していたわけではないと思う。誰もが幼いころから自分のストーリーを構築しながら生きているが、おそらく性虐待の記憶は、そこに埋め込まれることを拒んだのだ。異質で恐怖や衝撃に満ちた記憶は、脳によって処理されることを拒む。トラウマとは、そのような記憶のことを指す。また、ドミナントな家族像の中に、父や兄が自分の身体を性的に扱うことは組み込まれようがない。性虐待などあるはずがない、ありえないことを前提として家族の物語はつくられているため、名前をつけることもできない。
名前のない記憶は、視覚、感覚、聴覚といった非言語的記憶として記憶の一部に貯蔵されるしかない。何かが違うという落ち着きの悪さ、言葉にならない記憶をかかえながらぼんやりしてしまうこと(それは、しばしば天然キャラとして笑いをとったりする)、別の世界に生きているようであったり、時には別の人格を生きたりする。
自己の統合が、非言語的な外傷的記憶(トラウマ)によって阻害される。しかしその記憶には、どこかエネルギーが感じられる。生きる過程で人格は統合されているほうが安定して生きやすい。外傷的記憶のもつエネルギーは、統合への欲求と呼べるかもしれない。
記憶がよみがえるには、それを、①名づけ、定義する言葉、②承認する他者、の二つが必要である。しかし、条件がすべて整ったときに想起が起きるわけではない。なんらかのきっかけで、突然それがよみがえる。二人の女性のように、日常生活を送りながら想起を受け止める人は、実は稀である。多くは混乱と混迷をきたし、自分を傷つける行為に走り、精神的症状を呈する場合も多い。
(pp.61-62)
戦争体験と、家庭で虐待、DVの加害をなすことは、無関係ではない。
「トラウマ」と「(複雑性)PTSD」の概念も、国家による戦争に引き続く「家庭内の戦争」の経験から構築されてきた。
一九九五年に原宿カウンセリングセンターを開設し、女性のACのグループカウンセリングを開始した。そこで聞かされたのは、彼女たち(一九四〇~一九六〇年生まれ)が父から受けた壮絶な身体的虐待と母へのDVの目撃だ。アルコール問題のある父も多かった。青竹で殴る、母の髪をごっそり抜くといった彼らの暴力に、改めて戦争の影響を再認識させられる思いだ。
彼女たちの父親は戦死もせず、戦争神経症を呈することもなく復員し、戦後に結婚して家族を営んでいたが、妻や子どもに苛烈な暴力をふるい、酔って人格が変わったのであった。
戦争トラウマが自己治療としての飲酒を伴い、酔った男性が妻にDVを行い、子どもに虐待や性虐待を行使する・・・・・・。これは、一九七〇年代後半のアメリカの家族と同じではないだろうか。ハーマンらが女性や子どもの置かれた悲惨な状況を援助しながら、複雑性PTSDという診断名で「被害」の認定を試みたのも、ベトナム戦争の影響だった。
(p.215)
戦場で神経症に陥った兵士と、性虐待の被害によりトラウマをかかえた女性は、その処遇のされ方が似ている。
「個人的なことは政治的なこと」。
国家が刷り込もうとする家族イデオロギーを排しなければ、性虐待被害者が救済される可能性は高くならないだろう。
八〇年代から、性虐待被害者は被害に遭ったうえに三度否認される、と言われてきた。加害者から「そんなことはしていない」と否認され、母親に訴えれば「嘘だ」「あんたが悪い」と否定・無視され、専門家に相談すると「妄想」「虚言」とされるからだ。
この三重の否認は現在でもそれほど変わってはいない。一九八〇年代からカウンセリングによって多くの性虐待被害者と会ってきた。ACという言葉をとおして、父からの虐待を語る女性は珍しくなかった。しかし、当時の日本でそのような話をそのまま信じる姿勢を示す精神科医は極めて稀だった。まして、臨床心理士ではほとんどいなかったと思う。当時は精神分析的心理療法が席巻していたため、フロイトの言う「誘惑説」(娘が父を誘惑する)を信じる専門家が多かったのだ。
性虐待加害者である父こそが「あってはならない」行為をしているのに、被害者が「存在しない」とされる。この構造は、戦争神経症と同じではないだろうか。国の命令で中国の農民を殺せとする戦争の非人間性を問わずして、そこで常ならぬ状態を呈して病院に送られた彼らの存在を否定する。彼らを容認すれば、日本軍をめぐる神話(皇軍兵は恐怖など抱かず、死も厭わず戦い抜くヘイタイサン)が崩壊する。
性虐待被害を容認すれば、家族イデオロギー(絆・愛情・特に家長である父の正しさ)は崩壊する。
こうして国家を支える軍隊のイデオロギーを守るために、国家を支える家族のイデオロギーを守るために、戦争神経症も性虐待もないものとされなければならないのである。もう一つ踏み込むと、そこにはジェンダーの問題がある。
日本軍は「男だから」「男は強くなければ」「男になります」といったジェンダー観の源である。恐怖や不安のような感情に流されない強さ、死を厭わない勇気は男らしさのジェンダーの根幹をなしている。
性虐待被害者たちがしばしば語る「汚れた」「総れた」私とは、女らしさのジェンダーの根幹をなす処女性(清らかさ、無垢さ)の崩壊であり、それも父から犯されるという法外な汚れ方なのである。
このように戦争神経症と性虐待被害とは、ともに国家・家族の根幹をなすイデオロギー保護のためにないものとされてきた。そして両者ともに、ジェンダー規範から逸脱した存在として自らを否定し、自らを責めなければならないのだ。
性虐待を霊長類研究から説明する山極寿一の説もあるが、戦争神経症と同様に、構造的暴力の一環としてとらえることで、心理学化・病理化のもたらす隘路から脱出できるのではないか。すでに明らかなように、両者は相似形であり、根底で深くつながっているからだ。
この点について、上野千鶴子は「生き延びるための思想』(岩波書店、二〇〇六年)において次のように述べている。
「プライバシー原則とは家長という私的権力の支配圏に対して公的権力が介入しないという密約の産物ではないのか」
つまり、もっとも私的でもっとも見えにくい家族で起きていることは、国家のレベルで起きていることと連動しているのだ。家族の暴力についてなかなか政治的対策が講じられないのも、ひょっとして国の意思がそこに働いているのではないか。家族は国からも他者からも侵入されないユートピアなどではなく、もっとも明確に国家の意思の働く世界であり、もっとも力関係の顕在化する政治的世界なのかもしれない。
(pp.218-221)
「ストレングス」や「レジリアンス」という概念は、ネオリベ的である。
性虐待やDVによるトラウマ症状に苦しむ者に、「主体的に立ち直る力」を要求するのは、なんと残酷なことだろう。
被害の経験は、自己責任であがなえるものではない。
信田さんは、代わりに、「レジスタンス」という言葉を提案する。
衝撃に対しても、ジュディス・バトラーが唱えたようなエイジェンシー(言説行為を通して事後的に構築される主体。言語と主体をつなぐ行為媒体ともいう)が働くだろう。
トラウマ症状と呼ばれる、忘れようとしたり(健忘)、自分を分離して麻痺させたりする(解離)、時には異様にテンションを高めて片時もゆったり休まないようにする(過覚醒)、絶えず緊張して次なる襲来に備える(過緊張)といった状態は、衝撃に身を任せてはいないからこそ生じるのだ。時には繰り返し思い出される記憶(侵入的想起)のフラッシユバックによって、それを避けるために酒を飲み、ギャンブルやセックスに耽溺する。これらを、自分を襲った衝撃に対する無力な被害ととらえるのではなく、レジスタンスととらえる意味はどこにあるのだろう。
レジリエンスと言ってしまうと、あたかも能力であるかのように誤解される。そうではなく、力だととらえるべきではないだろうか。人間として、というとあまりに抽象的だが、一人の生きた人間として扱われない経験はあまりに多い。ジェンダーという視点からすれば、女性を性的存在としてとらえる、もしくは性的対象として扱うことに金銭を払うことは、人間として扱うことと抵触しないのだろうか。
このように「人間として扱われない」事態を想定すれば、「人間として」という表現にも意味が生じる。まさにレジスタンスとは、受けた衝撃に人間としてそれをどう認識し、どう対処し、強いられた変化に抗して(抵抗して)昨日と同じ日常を生きるか、他の人と同じ人間として生きるかということを表しているのではないか。
レジスタンスゆえに生じる数々の症状を、疾病化せずに認識する。奇妙に思える行動・・・・・・たとえば、DV被害者の女性たちの論理性、明るさなども、彼女たちが夫からの暴言や暴力に抵抗して生きるために身に付けたレジスタンスの数々なのだ。また、性虐待を受けた女性たちが見せる奇妙な言動も、ボケや「天然」ではなく、自分の経験した衝撃に屈せず、再被害に遭うことを防ぐ抵抗ゆえに生じるのだ。
このように、「抵抗」という言葉とともに被害をとらえれば、様々な言動が異なる相貌を表すだろう。常識的な判断を覆すようなとらえ方を迫られるのは、専門家として幸いなことだ。
その人の隠された被害を知ることで、抵抗の軌跡を知ることができ、目の前の、そして問題行動と言われたものも了解可能となる。
レジスタンスのような政治的な言語を用いることなく、家族を理解することは困難ではないか。支配・被支配もそうだ。そして抵抗(レジスタンス)であり、境界(バウンダリー)や同盟といった言葉の数々である。
(pp.224-226)
「自己肯定感」もまたネオリベの言葉だ・・・これは、言われてみるまで気付かなかった。
しかし、「自己肯定感」をカウンセリングでもちいることを私はしない。それは否定性への回帰を望んでいるからではなく、新自由主義的自己そのものを表していると思うからだ。あらゆる失敗、あらゆる挫折、友人関係の衝突の理由・背景を考える際の回路が、まるでブーメランのように最後は自分に跳ね返るように仕組まれているのが新自由主義の根幹だとすれば、その象徴としての言葉が、自己肯定感なのだ。
すべての道はローマへ、というたとえのとおり、すべての失敗や苦痛はつまるところ「自分のせい」である。自己肯定できないこの私のせいだ、という「自己責任論」の根底をなす、どん詰まり的な気分がそこにはある。
(pp.231-232)
なるほど、自己肯定感をもてない虐待や暴力の被害者が、それゆえに自責することは、不幸なことだ。
被害者が加害者に行為の責任──とくに応答責任をとらせること、そのために医療従事者も含めた人びとが支援することが必要なのだろう。
目次
まえがき―母の増殖が止まらない
第1部 家族という政治
母と息子とナショナリズム
家族は再生するのか―加害・被害の果てに
DV支援と虐待支援のハレーション
面前DVという用語が生んだもの
「DV」という政治問題
家族の構造改革
第2部 家族のレジスタンス
被害者の不幸の比較をどう防ぐか
加害者と被害者が出会う意味
加害者アプローチこそ被害者支援
レジリエンスからレジスタンスへ
心に砦を築きなおす
あとがき―知識はつながりを生むのだ