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本と音楽とねこと

生まれてこない方が良かった

デイヴィッド・ベネター(小島和男・田村 宜義訳),2017,生まれてこない方が良かった──存在してしまうことの害悪,すずさわ書店.(2.7.24)

 本書は、出生の暴力性と害悪を明らかにし、生殖は悪であり、人類のみならず感覚をもつ生き物はすべて絶滅すべきであることを論じた、いわゆる「反出生主義」のバイブルとでもいえる作品である。

 人生には苦痛ばかりが満ち満ちている。
 生まれてくること、存在してしまうことは、常に害悪である。

 ベネターの、苦痛の有/無、快楽の有/無による、カテゴリカルな比較思考実験は、あまり説得力があるようには思わなかったな。

 わたしだったら、そこに、「記憶」という媒介変数を挿入する。

 虐待、暴力、いじめ、ハラスメント等々、人生にはあまりに過酷な経験がともなう(ことがけっこうある)。

 深刻な「存在のキズ」は、当人の自尊感情を苛み、鬱、依存症、自傷、自殺未遂等、生活履歴にさらなるキズを生み出していく。

 不登校、ドロップアウト、闇堕ち(例えば、女であればパパ活、ホス狂、男であればフェミサイド、ジョーカー化)、アンダークラスへの滞留等は、その現れだ。

 一次トラウマのうえに二次、三次のトラウマが蓄積され、人的ネットワークを介して、被害の規模もどんどん拡大していく。

 ごはんがおいしかった、ぐっすり眠れた、セックスが気持ちよかった等の快経験はさほど記憶に残らない(わたしは大切な人との関わりにおいては──おしゃべりするのでも双方にとってその経験が快の記憶として残るよう努力しているつもりだが)が、苦痛だった記憶は、長いこと、苦痛のありようによっては終生、その人を苦しめ続ける。

 これだったら、説得力あるんじゃないかな。

 そういうわけで、生まれてくること、存在してしまうことは、害悪である。
 異論は、認めない。

 生まれてくることが害悪でしかないのであれば、出生を言祝ぐ社会の常識にも、異議を申し立てるほかない。

若者がホーン岬に一人いた
若者は自分が決して生まれないことを望んでいたのだが
もしも自分の父親が気づいていたら存在をしないで彼はすんだのだ
あのゴムの先端が破れてしまっていたことに
著者不明
(p.209)

 ゴムが破れてしまっていたって、あんた、、、

 避妊に失敗して女性を妊娠させることは、大怪我させることと同じだろう。

 女性がピルを常用する習慣が根付いていれば話は別だが、ここは性文化超後進国の日本である。

 女性がもし妊娠した際、その女性が子どもを産むことを望んでいるのならともかく、そうではない場合──が圧倒的に多いわけだが、中絶するほかなくなる。

 中絶という経験は、女性を深く傷つける。

 なぜ、中絶させた男には、傷害罪が適用されないのだろうか、、、

 おかしいではないか、、、

 性行為の態様によっては、傷害罪、過失傷害罪が適用されうるが、実際にはほとんど適用事例はない。

 性暴力加害の多くが処罰対象とならないのと同じだ。

 脱線、、、

 反出生主義の言葉どおり、出生は、言祝ぐどころか、絶対に阻止しなければならない事案となる。

 この点については、紀伊國屋書店のサイトで読むことができる本書のレビューに、とても秀逸な、刺さる内容のものがあったので、転載しておきたい。

富士さん
自分の考えとまったく同じことを言っている本書の存在を知った時の震えるような感動は忘れられません。生きる事は苦しみであり、我慢でしかないと語りながら、そんな世界に肉欲と体面に流されて新しい命を叩き込み、しかも自分の苦しみを逃れるための愛玩物として、資源として消費することを恥知らずにも愛とのたまい美化する、このはっきりした害意を帯びた欺瞞が、ふさわしい罰をあたえられずにのさばっていること自体、この世界をおぞましい地獄にしている最も大きな要因です。反出生主義こそはこの最悪で、根深い欺瞞を抉り出す切り口なのです。
2020/12/13

 わたしは、ベネター等による反出生主義のもっとも大きな意義は、子どもを生むことを害悪と考える、その一点にあると考えている。

 子どもがいることを自慢し、子どもがいない女性にマウントしてくる女には、「富士さん」の言うことを、さらに過激、お下劣なものにして、罵倒してやればよい。もちろん、中指突き立てて、な!

 李琴峰さんの傑作小説、『生を祝う』では、胎児へ、遺伝や環境などの要因にもとづく「生存難易度」が伝えられ、胎児自身が、生まれるかどうかの判断をする、女性が、出生を拒んだ胎児を出産した場合、「出生強制」の罪を課せられる世界が想定されているが、この作品が、反出生主義をモチーフとしていることは言うまでもない。

 さらに、ベネターの反出生主義は、人類絶滅の夢へと続いていく。

 正確に言えば、人類のみならず、感覚をもつすべての生物は、死に絶えなければならない。

 なぜなら、生は苦痛に満ちたもので害悪なのだから。できるだけ早く、感覚ある生き物は絶滅しなければならないのだ。

 地球生態系を破壊する人類のみの絶滅を願う、ディープエコロジーよりも、過激だ。

  さて、いかに絶滅するか、それが問題だ。

 ある種が絶滅し得る方法を二つに区別することは有益だろう。一つ目はその種が皆殺しにされることである。二つ目はその種が次々に死んでいくことである。一つ目を「殺しによる絶滅」と呼び、二つ目を「死んでいくことによる絶滅」または「子作りしないことによる」と呼ぼう。ある種が皆殺しにされる場合、絶滅はその種の構成員がそれ以上増えないというところまで殺していくことでもたらされる。こうした殺害は人類によるかもしれないし、自然の手によるかもしれない(もしくは、自然の手にそれを余儀なくさせる人間によるかもしれない)。対照的に、ある種が次々に死んでいく場合、絶滅は、自然に従えば不可避の死に至る生命を持ったその種の、構成員の引継ぎに失敗することでもたらされる。
(p.203.)

 人類絶滅に至るもっとも穏当な方法は、女性が出産することを禁止することだ。

 それは、実現不可能なことであるので、わたしたちは、子どもをつくることの害悪を、こうして説き続けるほかないのであるが。

 あくまで、エンターテインメントとして、ではあるが、人類を絶滅させる過激な仕掛けが、数多くの文学作品の主題となってきた。

 エグい作品はたくさんある。

 伊藤計劃 の『虐殺器官』と『ハーモニー』はその傑作として数えられるものであろう。

「ハーモニー」劇場本予告
(いかん、書物が手元にない、、、書き下ろす予定の本のネタがもっともっと必要なんだが、途方もない労力が必要だ、、、)

 そのさらに上をいく傑作がある。


 劉慈欣の『三体』シリーズである。
三体
三体Ⅱ
三体Ⅲ 死神永生(上)・(下)
 以下、過去の拙レビューから転載する。

 奇想天外な話の展開と、わくわくするような天体物理学の蘊蓄、そして、大量虐殺描写の残酷さ。最後のこれがえぐい。
 一部では、ナノテクを駆使してつくられた極細ワイヤーが、「地球三体組織」のメンバーを、船舶ともども、切り刻んだ。二部では、「三体星人」が放った飛翔体、「水滴」が、「太陽系艦隊」を壊滅し、乗員は、宇宙空間に放り出され、あるいは爆発した艦船の原子炉の業火に焼かれ死んでいった。そして、本作では、太陽系全体が、三次元空間から二次元平面に折りたたまれ、数十億の人類が虐殺される。
 文化大革命、天安門事件、チベット、ウィグル弾圧と、20世紀後半の中国における大量虐殺は凄まじい。そうした中国の人気作家だからこそ書けた、残酷描写なのかもしれない。

 なお、この『三体』は、中国人エリート科学者・葉文潔が、物理学者の父を文化大革命により惨殺され、人類に絶望した彼女が、地球外生命体──「三体星人」が人類を滅亡させてくれることを願い、地球人の存在を知らしめるべく、交信を試みるところから話がはじまる。

 反出生主義の立場を貫くベネターではあるが、彼は、意外かと思われるだろうが、自殺は推奨していない。というより、自殺には反対の立場だ。

人生は、存在してしまわない方が良いと言えるほど悪いかもしれないが、存在し続けるのを止めた方が良いと言えるまでは悪くはないかもしれないのである。
(p.220.)

私たちはすでに存在してしまっている。私たちの存在を終わらせることは、私たちが愛し大事に思っている人たちに計り知れない程の苦痛を引き起こす。(中略)一旦誰かが存在してしまいその人への愛着が形成されてしまうと、自殺は苦痛を引きおこすしかない。
(pp.227-228.)

 わたしたちが、家族や親族、友人や知人に自殺してほしくないと願うのは、実はエゴ、である。

 エゴが悪い、というのではない。むしろ、これは、推奨すべきエゴであろう。

 なぜなら、わたしたちは、ほんとうのところ、自ら死にいこうとする人に対し、「わたしが嘆き悲しむことになるから死なないで」としか、言えないだろうからだ。

 自殺を望む者に、「命を大事にしろ」と言ったところで、なんの効果もない。

 鶴見済は、かつて、『完全自殺マニュアル』において、「死にたければもっとも楽ちんで確実な方法でいますぐ死ね」といったメッセージを発信したが、予想どおり、この本は有害図書に指定されてしまった。

 鶴見さんがほんとうに言いたかったのは、次のようなことではないだろうか。

 世界は、こんなに、残酷、過酷だ。
 こんなクソ社会に、耐えなくていい。
 さっさと死んだらいい。
 この「自殺マニュアル」で死に方を選びな。
 え?なに?
 どの自殺の方法も、エグくて、痛そうで、凄惨で、死にたくなくなった?
 だったら、クソ社会のルールなんか無視して、楽ちんに、楽しく生きる方法を試行錯誤しな。

 「宮台君。心配はまったく要らない。社会がダメになれば人が輝くから」(小室直樹)

 社会がクソでも、わたしたちは、楽しく、充実した生を謳歌できる。

 恋愛と性愛の経験は、もっとも強度、濃度ともに高い享楽となる。

 だから、とくに若い人は、タイパとか、コスパとか、そんな、みみっちく、せせこましいことばかり気にしないで、本気で他者を好きになり、その人のこころにダイブする、という経験を積んでほしい、と思う。

 もちろん、それが、良き記憶となり、忌まわしい記憶を克服する、そんな希望となりうることは言うまでもない。

 そして、その経験を、大切な人だけでなく、もっとたくさんの人々をケアすること、もちろん自分自身もケアすることに生かしていけば、このどうしようもないクソ社会も、少しはマシになるだろうよ。

 さて、ベネターさん。

 実は、自分が、人間好き(philanthropy)にして、動物好き(zoophilic)であることを信仰告白する。

 そうだと思ったよ。

 ベネターは、けっこうな有名人であるにもかかわらず、写真を撮られるのを嫌っており、ウェブで探しても、ベネターの姿を見ることはできない。

 ベネターは、実は、シャイでいい人なんだろうと思っていた。

 きっと、ねこちゃんも大好きにちがいない。

 人間を愛し、動物を愛してきたからこそ、人間の、動物の、痛み、それをよく理解できる。だからこその、「生まれてこない方が良かった」、「感覚ある生命体は速やかに絶滅すべき」、なんだよな。

 「人間(anthropos)全体を死へと至らせるだろう人間好きなのだ。」(p.231.)

 うん、ナイスな言葉だね。

 最後に、死、について。

エピクロスの弟子、ルクレティウスは、こう論じたという。
「彼は、私たちは存在するようになる前の非存在の期間を悔やまないのだから、私たちは私たちの人生の後に続く非存在を悔やむべきではない」。(p.221.)

 わたしは、子どものころ、死が怖くて怖くてしかたなかった。

 いまぼくは自分を感じ意識している、、、死んだらそれがなくなる、、、なくなったことを意識することさえなくなる、、、

 Bible Black、人間の色覚では把握できない漆黒、暗黒、絶対の虚無。

 そうして、やがて、不眠症になった、、、

 同じ子どものころ、家にあった百科事典で、繰り返し繰り返し見ていたのが、カラー刷りで鮮やかに描かれた、過去、現在、未来の、地球、太陽、そして宇宙のありようであった。

 なんて自分はちっぽけな存在なんだろう、、、宇宙の壮大な過去と未来からしたら自分の命なんか取るに足らないではないか、、、

 そう考えると、死の怖さなんかどうでも良くなってきた、、、

 一切皆苦。
 諸行無常。
 
 せめて生きてるあいだは、解離、変性意識、トランスで現実をやり過ごし、セレンディピティが降ってくる僥倖があったなら、内から湧き起こるパッションとバイブスの火を絶やさないようにして、圧倒的な強度の、生のほとばしりと横溢を、自己を溶解させながら実現すること、そして、その快の経験を、たくさんの「一般化された他者」へのケアに生かしていくこと、これが、一反出生主義者としてできる最善の生き方ではないか、そう思った。

反出生主義を考える

この記事も併せてどうぞ。
わたしの考えが、「存在のキズ」と性愛の問題を強く意識するようになった結果、そうとう、過激化しているのがわかります。笑

目次
第1章 序論
第2章 存在してしまうことが常に害悪である理由
第3章 存在してしまうことがどれほど悪いのか
第4章 子どもを持つということ
反出生的見解
第5章 妊娠中絶
「妊娠中絶賛成派」の見解
第6章 人口と絶滅
第7章 結論


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