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本と音楽とねこと

家族と厄災

信田さよ子,2023,家族と厄災,生きのびるブックス.(2.29.24)

(著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を転載していますが、著作権を侵害する意図はまったくございません。それどころか、これを読んだ方が、この素敵な本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。)

 平易な文章であるが、一字一句がていねいに書かれており、すべての記述が、腑に落ち、こころの深いところにまで、届く。
 そんな、とても、とても、素敵な作品である。

 わたしたちは、これまで、じゅうぶんすぎるほど、傷ついてきたし、これからも、傷ついていくことであろう。

 傷つくのは、戦争や災害、事故の被害、被災、暴力被害、だけではない。

 コロナ禍、この厄災によってもまた、わたしたちは、多かれ少なかれ、傷ついてきたし、もしかしたら、他者を傷つけたのかもしれない。

 緊急事態宣言が発出され、介護、保育、販売、旅行、航空乗務、宿泊、飲食、接待飲食業等に従事する人たち──その多くは女性──は、仕事を失い、生活が困窮していった。

 あるいはまた、既婚女性の多くが、全国一斉休校措置により家庭にいることになった子どもたちの世話に追われ、夫がテレワークに移行した家庭では、その夫による妻へのDVが急増した。
 そして、家庭で性暴力も含む虐待被害を受ける子どもたちも増え、居場所を失った子どもたち──とくに少女たちは、盛り場や公園付近にたむろし、さらに、性搾取、性被害を受けることとなった者も少なくない。

 そうして、こころの傷にこころの傷が上書き──それでも元の傷はなかったことにはならない──されていく。

 第二次世界大戦の長期的影響を、「戦争と文化的トラウマ」という視点から研究した成果が書籍化された(竹島正・森茂起・中村江里編『戦争と文化的トラウマ』日本評論社、二〇二三)。そこには戦争体験がトラウマとしてどれほど長期にわたって影響を与えつづけるかについて、多方面から論じられている。
 歴史的視点からトラウマを考えるそれらの本を読むたびに、過去を忘れ前向きになりたいというベクトルには、それと正反対の方向へと私たちを引き戻す力が働いていることがわかる。──つまり過去を忘れようとすればするほど、過去の記憶はよみがえり、私たちをつかみ、まだ終わってなどいないとばかりに引きずり戻してしまうのだ。この国では「水に流す」「いつまでも過去にこだわるな」という言葉が賞賛されるが、それは積極的に忘却を試みることで無感覚になってしまうことを意味するのではないだろうか。それはトラウマからの解放ではない。ずっと「あの時」のままに過去がなまなましく生き続けるとき、それに蓋をしようとすればするほど現在の私たちは有形無形に苦しめられる。だからこそ、痛みを抱え続けている人が過去と向き合い、経験を自分なりにとらえなおそうとするプロセスに、私は希望を見る。
(pp.8-9.)

 辛いだろうが、やはり、最終的には、辛かった経験に、向き合わなければ、自傷を重ねていくだけだ。

 おそらく現在の風潮の背景には、アメリカを中心とした新自由主義的な主体の称揚があるだろう。流動化する社会を生き抜く人間は、柔軟であるべきで、自分で選択し、その結果の責任を負うべきだという人間像は、どこか計算と学習で成りたつAIを連想させる。 それに大きく加担しているのが心理学の研究である。現在の心理学・精神医学の潮目が変わったのは、アメリカの精神医学会の診断基準であるDSM-IIIが登場した一九八〇年ではないか。
 簡単に言えば、why(なぜ)からhow(どのようにして)へのシフトである。なぜこのような症状が出現するかを探るのではなく、どのようにすれば症状が出現しなくなるかという方法探索への転換だ。精神医学ではこれを「操作的診断」と呼ぶ。
 DSM-Ⅲを契機に、精神分析に代表される、そこに至る個人の経験の意味や、内的世界の構造を探るという流れは、メインロードから退くことになった。二一世紀を迎え、臨床心理学や心理学では、認知行動療法に代表される精神分析以外の方法論が席捲するようになった。
 これは企業で働く人々のビジネスマインドの醸成にもつながる。自己啓発本などを見れば、どれほど「肯定」「未来」「選択」「決断」が重要視されるかが一目瞭然だ。多くの人たちは、ひたすらフォーマット化された思考法に従い、課題遂行に励む。
 しかしそこからこぼれ落ちるものがある。それは「なぜ?」という問いかけであり、自分をとらえて離さない過去の経験である。新自由主義的な主体偏重の潮流からこぼれ落ちるものが、トラウマという言葉に集約されている気がする。
(pp.50-51.)

 ここにもネオリベが顔をのぞかせている。
 問題解決の対処療法、安易なノウハウの適用は、さらに自らを追い込んでいくだけだ。
 「なぜ?」と問い続け、過去の辛かった自分と向き合うこと、そして、「自分は悪くない、悪いのは加害者だ、そんな自分はけっして汚れていないし尊い存在だ」、そう思えるようになるまで、これまで自分を苦しめてきた「ドミナントストーリー」に代わって、「オールタナティブストーリー」を構築し、自分自身を100%肯定できるようにしていくこと、、、記憶は消去できないし書き換えることもできないけれども、「ストーリー」は書き変えることができる。そのことに、希望をもとう。

しかし二〇〇〇年代に入ってトラウマの研究が一気に進み、「日本トラウマティック・ストレス学会」ができた。そしてEMDR(「眼球運動による脱感作および再処理法」の略称)やPE(持続エクスポージャー療法)に始まる数々のトラウマ治療の方法が実施されるようになったことが、私にも大きな影響を与えた。
 感情を表出するというより、記憶をターゲットとしたさまざまな方法によって、トラウマ記憶に伴う衝撃や回避を低減化するのだ。わかりやすく言えば、馴化(慣れさせる)を目的とする科学的な方法論が、かつての違和感や抵抗感を払拭したのである。
 またカウンセリングにおいても、性暴力被害者やDV被害者とのかかわりから多くを学ぶことになった。ストーリーを語るというナラティヴセラピーには、膨大な記憶のメカニズムが組み込まれていることを知った。
 多くの人たちは、危機に直面するたびに、その人なりに命を長らえるために(生き延びるために)さまざまな方法・スキルを用いている。そのこと自体の価値判断はいったん保留しなければならない、つまり肯定されなければならないということを、再確認した。
(pp.56-57.)

 記憶は消去も書き換えもできないけれども、「慣れる」ことはできる。
 これもまた、これ以上、自分で自分を傷つけないために、有効な方法だ。

コロナ感染症はパンデミックとして広がり、われわれに長期反復的なトラウマを与えたのではないだろうか。二一世紀になって飛躍的に進歩したトラウマ研究は、現実的な生命の危機が去った後で、トラウマの影響が顕在化することを明らかにした。大きな災害から復興した後に、自殺者が相次いだのと同じ構造である。コロナ禍で私たちが味わっているのも、長期にわたるトラウマ経験だという考え方もできる。
 感染拡大が少し収まり、街にも活気が戻りつつあったのが一〇月だったことに気づく。四月から八月までの感染拡大という「渦中の危機」を必死で生き抜いた人が、心身の状態や将来を見つめる余裕ができた一〇月に「その後の危機」に襲われた、こう考えると自殺者の増加が説明できるのではないだろうか。
 目に見える危機の渦中にある時は必死だが、それが去った後も、過酷な記憶(トラウマ)は長期にわたりその人を蝕み続け、その影響はうつ状態、アルコール依存、自殺企図などとして表れる。「渦中の危機」に比べて、その人の心の中で起きる「その後の危機」は周囲の理解を得られず、いつまでもうしろ向きで甘えているなどと誤解されることで、本人は追い詰められてしまうのだ。
(pp.58-59.)

 「災害ユートピア」は永遠に続いてくれるわけではない。
 非日常から日常に戻らざるをえない、そのときがいちばん辛い。
 その辛いときに、どれだけ、まわりに、優しく労り、無理してがんばらないでいいこと、なにもしなくともあなたは尊いのだと認めてくれる人がいるか、そのことが大切だ。
 ケア、大事。

 私はいつもカウンセリングでそれを「マジョリティ」と呼んでいる。世間的な付き合い、ちょっとした会話、テレビドラマのあらすじ、といった言説の中に満ち溢れているのが、マジョリティ(常識)である。
「だって、親じゃないの」「いいかげんにおとなになりなさいよ」「どんな親でも親は親」といった言葉にそれは現れる。二〇歳を過ぎて、時には六〇歳を過ぎていても、「親のあの行為は虐待だったんだ」などと言おうものなら大変なことになる。「常識」を背負う人々が、山火事を見つけたように、寄ってたかって鎮火しようとするのだ。それはまるで、革命やレジスタンスを鎮圧しようとするかのようだ。
(p.79.)

「毒親」などと呼ぶまえに、私たちは知らなければならない。毒なのは親ではない。被害を受けた、親を捨てたい、親を許せない、という言葉を禁じるこの国の常識(マジョリティ)こそ毒であると。戦う相手を間違えてはいけない、そう思う。
(p.83.)

 わたしは、親を憎んできた。
 そして、けっして許そうとは思わない。
 だけれども、すでに父は他界し、母も100歳近くになった。
 許さなくとも、こころを開かずとも、表面的な付き合いをすることはできる。
 3月中に、4年ぶりに、母に会いに行こうと思ってる。

 自分のこころの傷に向き合うことの大切さ、憎むべき者は──親も含めて──、憎み倒していいことを、本書は教えてくれている。

 もっと、楽に生きていくことができるように、自分を変えようよ。

パンデミックは何をもたらしたのか。家族で最も弱い立場に置かれた人々の、手さぐりと再生の軌跡をみつめた、ベテラン臨床心理士によるエッセイ。リアルなエピソードと実践経験から生まれた知見をもりこんだ、時代の荒波を生きぬくための必携書。

目次
第1章 KSという暗号
第2章 飛んで行ってしまった心
第3章 うしろ向きであることの意味
第4章 マスクを拒否する母
第5章 親を許せという大合唱
第6章 母への罪悪感はなぜ生まれるのか
第7章 「君を尊重するよ(正しいのはいつも俺だけど)」
第8章 私の体と母の体
第9章 語りつづけることの意味
第10章 むき出しのまま社会と対峙する時代
第11章 慣性の法則と変化の相克―一蓮托生を強いられる家族
第12章 現実という名の太巻きをパクっとひと口で食べる


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