京都•左京区 フェルデンクライス/アート/ダンサブルな暮らし

身体と芸術、社会とのつながりを実践しながら研究活動を行う。
発達教育学/ソマティクス教育/表現文化

表現の【なる】と日常の【いる】

2010-03-09 | Performing Artists

表現活動をおこなう皆さまへ

 

よし!

表現だ。

パフォーマンスだ。

 It's SHOW TIME!! と表現を行う際に、

肉体的、精神的境地を日常から表現への切り替えを要するプロセスがあるとすれば、表現の道へは、それすでに時遅し。

『はい。今』の時点でもう表現の境地にいたい。

『よお~い、、、ドン』⇒表現。(遅すぎる。)

『はい。表現(ドン)』の状態。(これっ!!)

今月から試みている、レッスンカフェですが、

実は、この二つの境地の間にある心情や体の変化に興味があって実施しはじめました。表現するときとそうでないとき(モード)の間にある、な○に○か○の実態をもっとしりたいと思ったのです。

実際に、表現することに対してこういうことをよく耳にします。

●表現の前に、心の準備がいる。

●表現の際に、心身の切り替えが必要だ。

●表現中の “I  am ready for anything.” を日常でも保ち続けることは可能なのか。

私の中では、上記の質問の答えは、上からNO,NOYESです。

皆さんは、いかがですか。

果たして、本当に表現している際は、日常と遠く離れた境地や心持にいるのでしょうか。うそのない表現の実施を目指したときに、日常と表現の境地を切り替えたほうがよいのでしょうか。又、表現中に起こる順応力満載で、即興力溢れる、集中力のあり方を日常そのものに生かせないのでしょうか?

この境地の実験として、レッスンカフェでは、以下のプロセスをその日の表現者の方に試していただいています。

日常

表現する

フェルデンクライス受講

そのまま再度表現に移る

行って、体験してもらう環境をおいてみました。

表現する際に、フェルデンクライスが表現と日常の間の良き架け橋になる場合もあるでしょうし、多大な切り替えを要するきっかけにもなるかもしれません。これは、実験あるのみ。実際に行ってみれば、理解できるのではないかと思います。

もちろん、レッスンには、表現者以外の方、カフェに寄った方などもいらっしゃいますので、普通のパフォーマンス状態と同じ環境で表現することになります。

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さて、表現と日常の間にある何か。みなさんと、探してみたいと思います。

 

良い表現にたどり着こうとして、【いよう】として踏ん張るでもなく、

もうそこに、【ある】からそうなってしまった最高の状態。

そうして、表現は、理由があって、その結果の現れでありのままに【なる】。

自分を変えたり、トレーニングしてトランスフォームすることで表現が成り立つ。という境地に表現の面白さは存在しない。と今の時点で私は、実感しています。

どちらかというと、そこにいようと、もっていこうと努力したりコントロールする作業は、有機的な表現が起こるときに、そこにはない。

作り出そうと努力する間(な○に○か○)をもって表現と呼ぶのではなく、もうすでに【ある】まま出発し、表現し、終わり、戻れる境地があればもう表現に

【なる】と思う。

そう日常も表現でもいられれば最高だな~。

その境地のあり方と作り方の要素をレッスンカフェで理解する実験ができれば格別である。

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上記のプロセスに興味のある方、

又はこの表現のプロセスを体験されたい方

共に研究、実験のプロジェクト運営しませんか~

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